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48.平泉の貴賓(きひん)たち
地方政権に身を寄せる

 平泉には、京都や鎌倉などからさまざまな人たちが身を寄せていた。世界史の場合にも、都や他の地方政権ゆかりの人物で、辺境地方政権に身を投じた例が少なくなく、それらのなかには辺境地方政権の支柱となって活躍した人物も稀(まれ)ではないのである。

 ○館に住まい

 平泉におけるそのような人物の筆頭は、3代・秀衡の妻の父であり、4代・泰衡の義父にあたる藤原基成である。基成は後白河法皇の寵臣(ちょうしん)であった正三位・権中納言・藤原信頼の異母兄である。信頼はやはり後白河院の信任を得ていた信西(しんぜい)入道(にゅうどう)と対立し、信西を除こうとして兵を挙げ、一旦(いったん)は権力を掌握したが、最終的には斬罪(ざんざい)に処せられている(平治の乱)。

 基成が陸奥(むつ)守となったのは、信頼が権力を握る前の康治2(1143)年で、赴任に際して従五位上にのぼり、以後11年もの間陸奥守として在任し、鎮守府将軍も兼ねて平泉藤原氏とも良好な関係を保持し、この間に基成の娘は秀衡に嫁したようである(泰衡の誕生は久寿2=1155=年)。その後基成は平治の乱に連座して陸奥国に流されたが、平泉では秀衡の顧問格として扱われ、優遇されて衣川の館(たち)に住んだ。平泉で館の名があるのは秀衡の政庁・平泉の館(柳之御所遺跡)と衣川の館だけで、秀衡の子息たちの居も「嫡子国衡の家」「四男隆衡の宅」「三男忠衡の家」のように館とは呼ばれていない。

 源義経の生母常盤の夫の正四位下・大蔵卿・藤原長成の母と、基成の祖母は姉妹であり、源義経が鞍馬(くらま)から出て平泉に身を寄せることができたのは、その関係によるものだったともいわれる。義経が最期を遂げた場所も基成の「衣川館」であった。平泉藤原氏が滅亡した時、基成父子4人は囚人とされたが、処罰されずに許されている。

 平泉には後白河法皇の姫君と称する人物が居り、秀衡は彼女を手厚くもてなしていた。彼女の周辺には女房など多くの人が従っていたであろう。そのなかに彼女の祖母にあたる肥後守藤原資隆(すけたか)入道の母が居り、彼女が姫宮であることを保証し、平泉の住人はみなそのことを疑っていなかったという。彼女の母は九条院(近衛天皇の皇后、藤原呈子(しめこ)の宮)の官女で、藤原資隆の娘であった。平泉の館(柳之御所遺跡)に接し、無量光院の東門(正門)の外にあったという加羅(から)の御所(ごしょ)は、彼女の御所だったかもしれない。平泉藤原氏が滅亡した後、源頼朝は彼女を鎌倉に連れてゆき、もし彼女が本当に姫宮ならば鎌倉に置くわけにはゆかないとして、都に照会したが、そのような姫宮は存在しないという返事だったという。

 清衡の中尊寺造営にかかわり、紺紙金銀字交書一切経の書写をとりしきり、初代の経蔵別当職に補任された自在房(じざいぼう)蓮光(れんこう)という僧は、延暦寺あるいは園城寺にかかわりのある人物であっただろうといわれている。

 康治元(1142)年に、南都(奈良)の悪僧15人が陸奥に配流されたことが藤原頼長が日記に見える。西行の『山家集』には「奈良の僧、とが(科)のことによりて、あまた陸奥国へつかはされしに、中尊寺と申す所にまかりあひて、都の物語すれば、涙ながす、いとあはれなり」と記されている。

 武士のなかにも平泉に身を置こうとした者があった。平治の乱に際して源義朝の陣営に属した近江の佐々木秀義は、乱に敗れた後、子息等を率いて藤原秀衡を頼り陸奥国に赴こうとしたが、途中で相模国の渋谷庄司のもとに留(とど)まり20年を過ごしたという。秀衡にとって秀義は姨母(いぼ)(母の姉妹)の夫であった。

 ○多彩な人々

 天永2(1111)年の国司などの選考会議では、太政官の史(し)と算博士を世襲する家柄の出で、国司候補の小槻(おつき)良俊が、藤原清衡に仕えていることが問題とされた。同じころ某道俊という人物が陸奥に下向し、筆墨をもって藤原清衡に仕えていたが、念仏の心を忘れず天承元(1131)年、79歳で亡くなった(『三外(さんげ)往生記』)。後白河法皇近臣の中原基兼は、治承3(1179)年の清盛が後白河法皇を幽閉したクーデターの時に奥州に流され、その後は秀衡に属した(『玉葉』)。久安4(1148)年には、衛府(えふ)の下級の職員で、楽所(がくしょ)の笛を吹く楽人でもあった成正が楽所に復帰した。成正はしばらく楽所を追放されて陸奥に下向していたのだという(『楽所補任(ぶにん)』)。

 平泉には、さまざまな人物が身を寄せていた。源義経が平泉に身を寄せたのも、義経一人の問題として片付けることはできないことがわかるであろう。

【写真=中尊寺丘陵(奥)の麓(ふもと)を流れる衣川手前の遺跡群。このあたりに藤原基成の衣川の館があり、源義経もここで自刃したとされる】


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