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47.奥六郡の主・鎮守府将軍
辺境政権のよりどころ

 平泉藤原氏が滅亡した文治5(1189)年奥州合戦で、鎌倉方の北陸道大将軍・宇佐美(うさみ)実政(さねまさ)のために捕らえられた平泉方の武将に由利八郎という者がいた。実政は八郎をひきつれて陣ケ岡(紫波町)に参上した。ところが天野(あまの)則景(のりかげ)が、八郎は自分が生虜(いけど)ったと主張したため、源頼朝は二階堂行政(ゆきまさ)に命じて、実政と則景両人の馬と甲(よろい)の毛などを記し置かせた上で、梶原景時(かげとき)に実否を八郎に尋問するように命じた。

 ○鎌倉と対等

 景時は八郎に対し、「汝(なんじ)は泰衡の郎従の中でも名の聞こえている者である。何色の甲を着た者が汝を生虜ったのかを正直に言上せよ」とせまった。八郎は激怒し、「汝は兵衛佐(ひょうえのすけ)殿(頼朝のこと)の家人(けにん)であるか。今の口状は過分の至りである。故・御館(みたち)(泰衡)は、鎮守府将軍藤原秀郷(ひでさと)嫡流の正統であり、先祖3代にわたって鎮守府将軍の号を受け継いできた。汝の主人でさえこのような言葉を発することはできないのだ。いわんや汝と吾(われ)とは対等なのである。運が尽きて囚人となるのは、勇士の常である。鎌倉殿の家人であるからといって、このようなけしからぬ言を発するいわれがない。質問には返答できない」といった。

 頼朝は景時が無礼なので、八郎が咎(とが)めたのであろう、それは道理である、として畠山重忠(しげただ)に尋問を命じた。重忠は手づから八郎の前に敷皮を持っていって座らせ、礼を尽くして質問したので、八郎は、「黒糸威(おどし)の甲を着け、鹿毛の馬に駕(の)る者が先(ま)ず自分を引き落としたのである」と答え、八郎を捕らえたのは実政であることが判明した、という。

 八郎と梶原景時および畠山重忠との問答には、平泉と鎌倉を対等の存在とみなす論理が展開されており、頼朝もその論理を認めざるを得なかったことがわかる。そしてまた、八郎が平泉藤原氏の当主は歴代鎮守府将軍であったと主張し、鎌倉方はこの点に対してもまったく反論していない。平泉藤原氏の時代の鎮守府将軍は、3代・秀衡が嘉応2(1170)年5月に鎮守府将軍に任命されるまでは、欠員とされるか、陸奥(むつ)守が兼務する状態が続いていた。したがって、清衡や基衡は正式には鎮守府将軍とはなっていないのである。それにもかかわらず、平泉藤原氏は初代清衡以来、鎮守府将軍を相承してきたという認識が、平泉側にも鎌倉側にも存在していたのである。

 鎮守府の第一の任務は、坂上田村麻呂の時に朝廷の直轄支配地に組み込まれた胆沢郡以北・盛岡市以南の奥六郡を支配することである。安倍氏が鎮守府を掌握するようになると、安倍氏が鎮守府将軍の権限を代行できる力を有することになった。これが安倍氏は奥六郡の主(あるじ)だったということの意味である。前九年の合戦後には清原武則が鎮守府将軍に任命され、清原氏は安倍氏にかわる奥六郡の主となった。延久の合戦後にも清原貞衡が鎮守府将軍となっている。鎮守府は名実ともに清原氏のものになっている。

 ○清衡が伝領

 清衡は幼時から清原氏の一員として成長し、清原氏一族が分裂して戦った後三年の合戦を経て、清原氏の首領となった人物である。源頼朝が平泉藤原氏を滅ぼした直後に、源頼朝の無量光院巡礼を案内した清原実俊(さねとし)は、「清衡は継父の武貞(清原武則の子)が卒去した後、奥六郡を伝領したのだ」と説明したという。清衡は清原氏の首領としての地位とともに、奥六郡の主、実質的な鎮守府将軍の地位をも継承したということができるだろう。

 鎌倉と平泉が全面的に衝突する直前のころ、源頼朝は秀衡に対し、「御舘(秀衡)は奥六郡の主、予(よ)は東海道の惣官なり。尤(もっと)も水魚の思を成すべきなり」という書き出しの書を送ったことがあった。この段階の秀衡は、白河の関以北を完全に掌握しているのであるが、頼朝は、秀衡の権限の中核は奥六郡の主であることなのだと認識していることがわかる。

 安倍氏・清原氏・平泉藤原氏と、時間の経過とともに強力になっていった辺境地方政権のよりどころは、一貫して奥六郡の主・鎮守府の掌握者という点だったのである。

 【注】清衡は、義父・清原武貞の次世代の清原氏の首領であるが、まず武貞の後継者となったのは武貞の嫡子・真衡であり、清衡は兄・真衡の後継者であるということもできる。

【写真=哭(な)き祭(まつり)。藤原基衡夫人(安倍宗任の娘)の命日に行われる(昨年は5月4日)。毛越寺の僧侶たちが読経とともに観自在王院の阿弥陀(あみだ)堂の周囲を3周し、夫人の墓碑に詣でる。墓碑には「前鎮守府将軍基衡室安倍宗任女墓・仁平二壬申四月二十日」と刻まれている】


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