WWW http://www.iwate-np.co.jp


 
46.押領使
陸奥と出羽支配を公認

 鎌倉幕府の記録『吾妻(あづま)鏡(かがみ)』は、平泉藤原氏三代の秀衡は出羽押領使、四代泰衡は父・秀衡の後を継いで陸奥(むつ)・出羽両国の押領使であったと記す。また、『尊卑分脈』には初代清衡は陸奥国押領使、二代基衡は六郡押領使・出羽押領使であったと記されている。史料により表現に若干のちがいはあるが、平泉藤原氏は清衡の時代にさかのぼって、陸奥・出羽両国の押領使だったと考えられている。

 ○軍事力行使

 押領使は「おうりょうし」と読む。押領とは、もともと兵員を統率することを意味し、他人のものを横取りする「横領」とはちがう語である。押領使の任務は、もともとは国司や鎮守府将軍の配下の人物が、兵士をある場所から他の場所に引率して行くことで、元慶(がんぎょう)2(878)年に秋田城が焼き打ちされた元慶の乱の際には、陸奥大掾(だいじょう)(大掾は国司の三等官)藤原梶長が押領使に任じられ、陸奥国の2000人の兵士を引率して、上野(こうずけ)(群馬県)権(ごんの)大掾(だいじょう)南淵(みなぶちの)秋郷(あきさと)も押領使として上野国の兵600余人を率いて秋田に救援にかけつけている。

 また前九年の合戦の際には、清原武則は事件の最終段階で源頼義の呼びかけに応じ、栗原郡営(たむろ)岡(がおか)で頼義の軍と合流しているが、この時に頼義は武則や武則の子・清原武貞など清原氏の主な人々を諸陣の押領使に任命している。頼義は陸奥守の権限で清原武則以下を押領使に任じたのであろう。

 ところが、国司や鎮守府将軍が任命するのではなく、朝廷が押領使を任命する場合もあった。10世紀前半に関東地方を舞台に勃発(ぼっぱつ)した平将門(まさかど)の乱では、事件が拡大して将門による国家に対する反乱という色彩を帯びてくる段階で、まず武蔵権介・小野諸興(もろおき)と相模権介・橘是茂(これしげ)が、ついで藤原秀郷(ひでさと)が押領使に任命されている。

 ○大きな勢力

 藤原秀郷は曽祖父の藤原藤成が下野(しもつけ)国(栃木県)の大介(おおすけ)だった時に地元の豪族の娘との間に生まれた豊沢の孫で、祖父の時代以来下野に留住し、大きな勢力を有する領主であり、不法を働いて罪人として流罪に処せられる決定がなされたこともあったが、平将門の乱が勃発すると、朝廷は秀郷の軍事力を利用する政策をとり、下野掾・下野押領使に任命した。そして秀郷が将門を討ち取ると、朝廷は秀郷を下野・武蔵両国守に補任したのである。秀郷は地元豪族としての地位を認められ、北関東における軍事的支配権を確立することになった。

 朝廷が任命する国単位の押領使は、国内の軍事警察権を行使できる強力な権限を有していたのである。陸奥国の押領使としては、寛弘3(1006)年に平八生(やつお)が任命された前例が知られている。国押領使は、在地の武士で国司の一員でもある在庁官人が任命される例が多かった。国押領使は、鎌倉時代になると地頭と併称される守護の源流となったともいわれているのである。平泉藤原氏が陸奥・出羽両国を支配できた公的なよりどころは、朝廷により押領使の肩書を認められたことにあったのである。

 平泉藤原氏が出羽国の南部をもおさえていたことは次のような事例からも知られる。清衡の死後、清衡の妻が上京して源義成(よしなり)に嫁ぎ、清衡の2人の子、基衡と惟常(これつね)が合戦し、長男が弟に討たれたと奏し申したという。清衡の長男(字(あざな)は小館)が弟(字は御曹子)のために国の館を攻められ、兄は子供などを率いて船で越後国に逃げたが、弟が陸地から追いかけ、父子ともに首を切られたというのである。

 弟の御曹子が基衡であろう。御曹子というからには、基衡の母は清衡の正妻「北方平氏」で、異腹の兄と清衡の後継者の地位を争ったことになる。兄の国の館は陸奥国府または、出羽国府があった酒田市周辺に存在したことになるが、兄は船で越後国に逃げたというからには、兄の館は出羽国府にあった可能性が高い。清衡は長男を出羽国の国府に配し、出羽国の南部をもおさえていたのである。なお、兄が越後をめざしたのは、新潟県北部に勢力を有していた城(じょう)氏を頼ったのであろう。

 【注】清衡の実父・藤原経清は藤原秀郷の子孫である。

 基衡の時代にあたる保延4(1138)年に、陸奥国の大介(上席の介)で鎮守将軍と押領使を兼ねていた藤原朝臣某が、岩瀬郡司に対し岩瀬一郡(福島県須賀川市周辺)を左大臣・源有仁の家領とするために、四(しい)至(し)に※示(ほうじ)(境界の標示)を打つことを命じた文書がある。

※は片に旁

【写真=平泉藤原氏二代基衡が壮大な伽藍(がらん)を造営した毛越寺庭園(平泉町)。基衡を含め藤原氏の威勢は、押領使であったことにもよる】


トップへ