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45.平泉藤原氏と荘園
北方の産物提供し自立

 久安4(1148)年、藤原氏一門の総帥・藤原忠実(ただざね)は次男の頼長(よりなが)に高鞍(たかくら)荘(宮城県栗原市金成周辺)、本良(もとよし)荘(同県本吉郡本吉町)、大曾祢(おおぞね)荘(山形市)、遊佐(ゆさ)荘(山形県飽海郡遊佐町)、屋代(やしろ)荘(同県米沢市の東部から東置賜郡高畠町の南部)の陸奥(むつ)・出羽にある5つの荘園を含む18カ所の荘園を譲った。

 東北地方には、これら5つの荘園のほかにも、蜷河荘(福島県会津地方)、長江荘(同県会津地方)、栗原荘(宮城県栗原市)、成島荘(山形県)、寒河江荘(同)、小田島荘(同)などの摂関家領荘園があった。このなかの栗原荘は、もともとは藤原頼通(よりみち)(道長の息で宇治殿といわれた。1074年没)の所領であったことが知られており、東北地方の摂関家領荘園の成立年代は、おおむね忠実の時代より早く、11世紀代にさかのぼるとされている。

 これらの荘園が摂関家領となったいきさつは、ほぼ次のようなものであったと考えられる。荘園を立てたのは、それぞれの地域の豪族であるが、彼らはその荘園を安定的に維持するために、中央の有力者に荘園を寄進して、ある程度の年貢を送り、みずからはその現地管理者として実質的な支配権を保持しようとした。そしてこれらの荘園は摂関家に寄進されたのである。

 ○中央に寄進

 11世紀といえば、前九年の合戦・後三年の合戦が戦われた時代で、東北地方南部は源親子の影響下にあった。実質的な荘園の所有者である地方豪族と摂関家との間をとりもったのは、頼義・義家だったのであろう。このころの源氏は、摂関家とのつながりが深かったのである。ところが源義家の晩年は、摂関政治の時代が終わり、白河上皇によって院政が開始される時期に重なっており、摂関家とつながりが深かった源氏は、没落の傾向にむかわざるを得なかったのである。

 後三年の合戦後の源義家は、陸奥守の地位を解任されるなど、東北地方でも急速に力を失ってゆくのである。東北地方が後三年の合戦の後、平泉藤原氏の時代となる背景にはこのような事情もあった。新時代の到来をむかえ、摂関家としては、源氏にかわる新たな摂関家領荘園の管理者としては平泉藤原氏以外を考えることはできなかったにちがいない。

 東北地方の南部にも力をひろげようとしていた清衡と摂関家との思惑は一致し、清衡は清原氏から藤原氏へ変身し、平泉藤原氏は東北地方における摂関家領荘園の総代理人となり、多くの荘園の年貢をまとめて京都に送るシステムができあがったのである。

 ○特異な年貢

 ところで、忠実から頼長に譲られた5つの荘園のうち、高鞍荘については、忠実の時代にすでに高鞍荘の年貢の増徴をする問題が起きていた。父・忠実からこの荘園を譲与された頼長は、雑色(ぞうしき)・源国元(くにもと)を藤原基衡のもとに派遣して再度年貢の増額を要求し、金50両・布1000段・馬3疋(ひき)を提案したことが知られている。これに対して基衡は、金10両・細布10段・布300段・馬3疋の案を提示した。しかし頼長は納得せず、金25両、布500段、馬3疋を要求したため基衡も妥協し、仁平3(1153)年9月には、過去3カ年分の年貢が送られた。

 同じようなことがほかの4つの荘園についても行われ、仁平3年9月に、本良荘の年貢は金20両・布50段・馬3疋、屋代荘は布150段・漆1斗5升・馬3疋、遊佐荘は金10両・鷲(わし)の羽5尻・馬1疋と定められた。いずれも以前の年貢よりも若干の増量ということで落ち着いている。

 一般的にいえば荘園の年貢は、その地の産物であるのが普通である。それなのに、ここで登場する年貢には、布のほかに金、馬、漆などのどちらかといえば東北地方でも北のほうの産物、さらには水豹(あざらし)の皮、鷹(たか)の羽のように北海道方面の産物までもが入っており、普通の荘園の年貢とは様相を異にしている。

 このような年貢のあり方も、平泉藤原氏が安定的に北方の産物を京都に提供することとひきかえに、相対的ながら京都の政権から自立することを容認または黙認されていたことのあらわれなのである。

 【注】忠実から頼長への荘園譲渡の背景には、忠実が頼長を偏愛したことがある。忠通(ただみち)は保安2(1121)年以来、摂政・関白の地位にあったが、荘園譲渡のことがあったやや後には、忠実は忠通を義絶し、氏長者(うじのちょうじゃ・藤原氏一門の長の地位)を忠通から取り上げて頼長に与え、さらに仁平元(1151)年には鳥羽法皇に懇願して、頼長は内覧(ないらん・関白に準ずる地位)に任命され、摂政から関白に転じた忠通との対立はいよいよ激化した。

 忠実から譲渡された荘園は、頼長が保元の乱(1156年)で敗死すると没収され、後院領(ごいんりょう・上皇が管理する荘園)に組み込まれた。

【写真=奥州市江刺区岩谷堂の豊田館擬定地の1カ所。清衡が平泉へ進出する前の居館とされる。清原から藤原を名乗って以降、平泉藤原氏は摂関家領荘園の総代理人となった】


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