WWW http://www.iwate-np.co.jp


 
44.中尊寺建立供養願文
伽藍造営の理由を記す

 中尊寺には「中尊寺建立供養願文(がんもん)」という国指定の重要文化財がある。この願文には、清衡がどのような趣旨で中尊寺を建立したのか、その規模はどのようなものであったかなどが記されており、平泉研究のための最も重要な史料として高く評価されている。

 ○俘囚の上頭

 この願文の末尾には、天治3(1126)年3月廿4日の日付がある。清衡が平泉に拠点を置き、それは寛治元(1087)年に後三年の合戦が終結してから10年前後経過したころとされているから、天治3年はさらに20年以上も後のことになる。清衡は平泉に拠点を置くと、ただちに中尊寺の造営を開始したと考えられており、山頂に建てられていたという塔や寺院の中央にあった多宝寺、さらには釈迦(しゃか)堂、二階大堂などは、すでに完成していたであろう。また、金色堂の棟木墨書銘には「天治元(1124)年」の紀年があり、供養願文に先立って金色堂が竣工(しゅんこう)していたことも明らかである。

 したがって、この供養願文は中尊寺全体にかかわるものではなく、中尊寺のなかのある部分、しかし重要な部分に新たに造営された伽藍(がらん)の竣工にかかわるものであろう。願文によれば、この伽藍は丈六(じょうろく)皆(かい)金色(こんじき)釈迦三尊像を本尊とする堂を中心に、3基の三重塔、金銀(こんごん)泥一切経(でいいっさいきょう)一部を納め、皆金色文殊(もんじゅ)師利(しり)尊像を安置した二階瓦葺経蔵(かわらぶききょうぞう)、二階鍾楼があり、本尊を安置した堂の左右には廊(ろう)があり、前面には中の島のある池がある。それはおそらく、現在中尊寺大池といわれている部分にあった伽藍と考えるのが妥当だろう。

 清衡はこの願文のなかで、自分を「俘囚(ふしゅう)の上頭」「東夷(とうい)の遠囚(おんしゅう)」と位置づけている(第41回「俘囚の上頭・東夷の遠囚」参照)。そしてこの伽藍を造営することにした理由をおよそ次のように述べている。

 「それはひとえに鎮護国家のためである。なぜならば自分は東夷の遠酋である。聖代の戦いのない時代に生をうけ、長い間平和でよくおさまっている世の仁恩を受けてきた。そのために蝦夷(えみし)の村々では事件も少なく、蝦夷の世界でも心配がない。

 このような時にあたり、自分は父祖の余業をうけつぎ、あやまって俘囚の上頭の地位にある。出羽・陸奥(むつ)の人々は風に草がなびくように、粛慎(しゅくしん)・※婁(ゆうろう)という海の彼方の「えびす」も太陽に向(むか)う葵(あおい)のようになびき従い、とくになにもせず、やすらかに30余年を過ごしたにもかかわらず、この間自分が果たすべき歳ごとの貢はまちがいなく果たし、鳥や動物の革なども約束の時期に遅れることがなかった。」

 「しかしすでに杖郷(じょうきょう)の齢(よわい)(60歳)を過ぎた。どうしてこれまでのご恩に感謝しないではおられようか。そこでこの寺を作り禅定法皇(白河法皇)、金輪聖主(崇徳天皇)、太上天皇(鳥羽上皇)、国母仙院(鳥羽中宮璋子・待賢(たいけん)門院(もんいん))のご長寿、ご無事をはじめとして朝廷の高官から五畿七道の萬民にいたるまで、すべて治世を楽しみ、長生きできるように、御願寺としてこの寺を作るのである。」

 ○法皇のお陰

 清衡は大治4(1129)年に亡くなっている。だから、この伽藍が完成したのは最晩年のことになる。戦乱に明け暮れた清衡の前半生から、平泉に拠点を置いて全東北に影響力を行使できるようになった後半生までを総括しようとしたところに、この伽藍の造営を決意した理由があることをも、願文の文面から汲(く)み取ることができるだろう。

 清衡は父祖の余業をうけついで俘囚の上頭の地位にあると述べていることに注目しよう。清衡は清原氏・安倍氏も俘囚の上頭の地位にあったと認識していたことがわかる。そして自分の時代になると、陸奥・出羽両国の人々だけではなく、海のかなたの「えびす」までもがなびき従うようになったことを述べ、鳥や動物の皮革(実際にはワシの羽、アザラシの皮など)を含む毎年の貢物を京都へきちんと納めてきたとも述べている。そして、このようなことが可能だったのも、白河法皇などの恵みのお陰であるとしているのである。

 平泉藤原氏の政権が、安倍氏・清原氏の時代以来の、京都に安定的に砂金や馬のほか、北海道を含む北日本の産物を提供することと引きかえに、半ばは京都の中央政権から独立した辺境地方政権であったことが、この願文にも明瞭(めいりょう)に示されているといえるであろう。

 【注】中尊寺建立供養願文の原本は失われ、藤原輔方(すけかた)による写し(輔方本、嘉暦4=1329=年の年記がある)と北畠顕家(あきいえ)による写し(顕家本)とが現存する。

 ※婁は渤海国(10世紀初頭まで中国東北地方・朝鮮半島北部にあった)を建てた民族で、粛慎はその祖先とみなされていた。

 ※は捏の日が口、土が巴

【写真=中尊寺大池の跡。中央部の杉の木がある部分が、中の島の跡。建立供養願文は、この地にあったであろう伽藍竣工に関するものと考えるのが妥当であろう】


トップへ