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43.辺境地方政権
藤原名乗り半ば独立

 平泉藤原氏は系図上では、秀郷(ひでさと)流藤原氏に属する。秀郷流藤原氏とは、左大臣藤原魚名(うおな)の子孫にあたる藤原秀郷の系統の藤原氏のことである。秀郷は9世紀前半に関東地方で勃発(ぼっぱつ)した平将門の乱を平定したことで名をあげ、関東地方に勢力を築き、鎮守府将軍にも任命されたと伝えられる。平泉藤原氏の初代・清衡の実父、藤原経清の曽祖父は、秀郷の孫にあたる。

 藤原経清の名は、『造興福寺記』にも陸奥(むつ)国の在住の藤原氏一門の人物として記録されている(第28回「藤原経清と平永衡」参照)。

 ○タブー解除

 清衡は清原武貞の養子として、武貞の後継者となり得る有資格者の一人として後三年の合戦を戦い、勝利者となった。だから後三年の合戦終了時の清衡はまだ清原清衡であり、藤原姓ではなかった。しかし清衡が江刺の豊田館から平泉に拠点を移し、中尊寺を建立した段階では正式に藤原を名乗っており、「(中尊寺)落慶供養願文」にも「正六位上・藤原朝臣清衡」と署名している。

 清衡が清原から藤原へと改姓するにあたっては、時の藤原氏一門の総帥、関白藤原忠実(ただざね)あたりの了承があったにちがいない。清衡が藤原氏一門に属することが認められたことと、清衡が東北地方南部にあった摂関家荘園の管理をまかせられたこととは深い関係があるだろう。安倍氏・清原氏の時代には、前九年の合戦の発端が示すように、東北地方南部へ進出しようとすれば、それはたちまち事件につながった(第26回「前九年の合戦 発端」参照)。だが、清衡が藤原を姓とすることが認められたことで、そのタブーが解除されたのである。平泉藤原氏が東北全域を支配することになる条件は、清衡が藤原姓を認められたところで整ったのである。

 しかし清衡は、一方では自他共に許す「俘囚(ふしゅう)の上頭」「東夷(とうい)の遠囚(おんしゅう)」、すなわち蝦夷(えみし)の頭目なのである。このようにみなされるのは、蝦夷という語が、血統や文化の問題以上に、所属の問題であり、朝廷の直轄支配の外に位置する者は、血統や文化の如何(いかん)を問わず蝦夷とみなされたことと関係する。

 安倍氏は鎮守府の筆頭在庁官人として実質的には鎮守府を掌握して陸奥国北部を勢力下におさめて辺境地方政権のさきがけとなった。清原氏は清原武則と真衡(または貞衡)が鎮守府将軍となり、陸奥国北部だけではなく、出羽国北部も含めた広大な地域を支配下に置き、安部氏の段階にくらべると、より強力な辺境地方政権に成長した。

 安倍氏・清原氏の経済的な基盤の主たるものは、砂金と糠部(ぬかのぶ)(岩手県北部から青森県東部)の馬であったが、それに加えて、鷲(わし)の羽、アザラシの皮、アシカの皮、熊(くま)の膏(あぶら)や熊の皮、昆布などの東北北部から北海道にかけての産物にも重要な意味があった。安倍氏・清原氏は鎮守府将軍や陸奥守を介して安定的に砂金や馬のほか、北海道を含む北日本の産物を提供することと引きかえに、相対的にではあるが、京都の中央政権からなかばは独立する、奥六郡を中心とする北東北の支配を容認されていたのである。

 ただし京都の側からいえば鎮守府は、地方支配のための役所のひとつにほかならない。また、安倍氏や清原氏は陸奥国司の支配下にあるとみなすこともできたから、制度的には北東北が朝廷の支配から離脱してしまったということにはならないのである。しかし実態は上記のようなものであり、京都の側でもそのことは承知していた。

 ○勢力拡大へ

 清衡は安倍氏・清原氏の時代に築かれた辺境地方政権の主(あるじ)の地位を継承した人物であるから、姓が藤原となっても、朝廷が支配に支配する地域の外に軸足を置く存在であることに変わりはなかった。蝦夷という語は、本来的に朝廷の支配の外の人たちということであったから、安倍氏も清原氏も、そして清衡も、蝦夷の首領と位置づけられたのである。

 平泉藤原氏の時代になると、その力は徐々にではあろうが東北地方南部にも強く及ぶようなり、最終的には陸奥・出羽の全域に及ぶことになった。安倍氏・清原氏の段階の辺境地方政権は東北北部に限定されたものであったが、平泉藤原氏の段階の辺境地方政権は、質的により強力なものに変貌(へんぼう)したのである。

 【注】『造興福寺記』永承元(1046)年に焼失した奈良・興福寺復興の記録。興福寺は藤原氏の氏寺なので、復興にあたっては藤原氏一門の人々が造営費用を負担した。藤原経清にも費用の割り当てがあったのである。

【写真=糠部の駿馬(しゅんめ)は、安倍・清原・藤原と続いた地方政権を支える基盤だった。寒立馬(かんだちめ)など東北は今も駿馬の伝統を引き継ぐ馬産が盛んだ=青森県東通村尻屋崎】


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