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41.俘囚の上頭・東夷の遠酋
「蝦夷の首領」記述残す

(中尊寺)落慶供養願文(顕家本)の部分=中尊寺提供

 中尊寺には天治3(1126)年3月廿4日の日付の「(中尊寺)落慶供養願文(がんもん)」という、清衡が中尊寺を草創した事情やその規模などを記した文献が残されている。これには、この寺を作るにいたった事情が次のように述べられている。

 それはひとえに鎮護国家のためである。なぜならば自分は東夷(とうい)の遠酋(おんしゅう)である。聖代に生をうけ、長い間戦いもなく、平和である。この時にあたり、自分は祖先の餘業(よぎょう)をうけつぎ俘囚(ふしゅう)の上頭に居り、出羽・陸奥(むつ)をはじめとして粛慎(しゅくしん)・※婁(ゆうろう)にいたるまでがなびき従い、三十餘年の間歳貢(さいこう)の勤をまちがいなく果たしてきた。しかしすでに杖郷(じょうきょう)の齢(よわい)(60歳)を過ぎた。どうしてこれまでのご恩に感謝しないではおられようか。そこでこの寺を作るのである。

 ここでは、清衡が自分を俘囚の上頭、東夷の遠酋と位置づけていることに注目したい。自分は蝦夷(えみし)の首領だというのである。よく知られているように、清衡の実父は、藤原氏一門に属する藤原経清で、清衡は後三年の合戦で清原氏の首領の地位を勝ち取った後、実父の姓を襲って、藤原と名乗るようになったものである。清衡は清原から藤原と改姓するにあたっては、京都の藤原氏の総帥の了承または許可が必要だったと思われる。

 ○義家が追討

 『今鏡』(12世紀に成立した歴史物語)には、藤原忠通が、仁和寺(にんなじ)門跡(もんぜき)からの依頼で書いた額が「をくのえびす」藤原基衡の毛越寺の仏堂に掲げられると知り、人を遣わして取り返させた。基衡は返すことを承知しなかったが、妻が説得しようやく取り戻すことができたという話がある。また、秀衡が鎮守府将軍となった時、九条兼実(かねざね)は日記『玉葉(ぎょくよう)』に「奥州の夷狄(いてき)秀平(秀衡)、鎮守府将軍に任ず、乱世の基也」と記している。平泉藤原氏は、自他共に許す蝦夷なのである。なぜそうなのだろうか。平泉藤原氏には安倍氏・清原氏の血が濃く流れているから蝦夷とみなされたのだと説明することもできるかもしれない。

 『百錬抄』『扶桑略記』などの当時の歴史書や、前九年の合戦の戦記である『陸奥話記(むつわき)』はすべて安倍氏を蝦夷とみなし、前九年の合戦を俘囚の反乱としている。『陸奥話記』が安倍氏を、中国古代の遊牧騎馬民族・匈奴(きょうど)になぞらえているが、当時の貴族にとっては、異論の余地がない見方だったのだろう。

 清原氏については、安倍氏ほどは蝦夷であることが強調されてはいないが、それでも『奥州後三年記』は、源義家の弟の義光が京都から義家のもとに馳(は)せ参じたことを記すなかで、「義家が蝦夷に攻められて、あぶなく侍(はべる)よし」を聞き、白河上皇に暇を請うたが認められなかったので、兵衛尉(ひょうえのじょう)の官職を辞して罷(まか)り下ったのだと、述べさせている。また後三年の合戦が終結した直後のことであるが、藤原宗忠は日記(『中右記(ちゅうゆうき)』)に、陸奥国から朝廷へ、陸奥守の源義家が俘囚を追討したと報告してきたことを記している。

 ○真人の称号

 したがって、安倍氏や清原氏が蝦夷とみなされていたことは疑いない。しかし、清原氏や安倍氏がなぜ蝦夷なのかを説明することも、そう簡単ではない。清原氏は天皇家から出た一族だけに許された真人(まひと)の称号(姓(かばね))を持ち、海道平氏とも近い存在であった。清原氏は、出羽の地方官として赴任した京都の清原氏に属する人物の子孫である可能性が高い(第40回参照)。

 安倍の姓も本来は中央のもので、奈良県桜井市には大化の改新の際の左大臣・安倍内麻呂の氏寺であった安倍寺の跡がある(第39回参照)。ただし安倍氏は大和朝廷の時代にさかのぼって、東国に勢力をのばしていたから、安倍氏の支配下にあった地方豪族のなかには安倍と名乗るようになった者もある。安倍頼時・安倍貞任らの祖先も、中央または東国の安倍氏である可能性を考えるべきであろう。

 そこで清原氏や安倍氏についても、本来は蝦夷ではなかったが、蝦夷との婚姻関係を積み重ね、また蝦夷の有力者たちを配下に従えるようになったので、やがて蝦夷とみなされるようになったと説明されることになる。平泉藤原氏、清原氏、安倍氏が蝦夷とみなされたことについての、このような説明は一面の真実には違いない。しかし、このような説明だけでは、どこか合点のいかない部分が残ってしまうこともまた事実であろう。

 【注】落慶供養願文の原本は失われ、北畠顕家(あきいえ)による写し(顕家本)と藤原輔方(すけかた)による写し(輔方本、嘉暦四=1329=年8月廿5日の年記がある)が現存する。また、天治3年は1月22日に改元され大治元年となっているので、なぜ改元前の年号が用いられているか、さまざまな説がある。

※はてへんに邑


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