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40.清原氏の構造
勢力は仙北三郡越えて

 出羽の清原氏が東北地方の歴史に大きな姿をあらわすのは、前九年の合戦も最終段階に近づいた康平5(1062)年のことである。陸奥(むつ)守としての2期目の任期が目前に迫った源氏の将軍・源頼義は、どうしても衣川の関を突破して安倍氏の本拠地に攻め入ることができず、あせりの色を濃くしていた。そこで頼義は、安倍氏と対峙(たいじ)する清原氏の首領、清原光頼とその弟武則に腰を低くして援軍を請うことにしたのである(第31回「清原氏の参戦」参照)。

 ○連合軍の顔

 こうして清原武則が率いる1万の軍勢が出陣することになり、清原氏の軍事力がものをいって事件は決着した。清原氏と源頼義の連合軍は7つの部隊(陣)を編成した。本隊ともいうべき第5陣は頼義が率い、武則もこの陣に属していたが、それ以外の各陣の部隊長(押領使(おうりょうし))は次のようなものであった。

 第1陣 清原武貞(清原武則の子)・第2陣 橘貞頼(武則の甥(おい)、字(あざな)は志万(しまの)太郎)・第3陣 吉彦(きみこの)秀武(ひでたけ)(武則の甥また婿、字は荒川太郎)・第4陣 橘頼貞(橘貞頼の弟、字は新万(しま)次郎)・第6陣 吉美侯(きみこの)武忠(字は斑(まだら)目(め)四郎)・第7陣 清原武道(字は貝沢三郎)。

 ここまでの記述から、注目される点をひろってみよう。

 第一に、源頼義は清原氏の首領、清原光頼とその弟・武則に援軍を要請したのであるが、光頼は動いていない。その上、安倍正任は光頼の子・字は大鳥(おおとり)山(やま)太郎頼遠(よりとう)の許(もと)に隠れたが、宗任が帰降した由(よし)を聞いて出てきたという。清原氏のなかでも、光頼の系統は安倍氏に親和的なのである。おそらくは、安倍氏とは婚姻関係もあったのであろう。ただし、前九年の合戦の結果、清原武則が鎮守府将軍に就任するということもあり、事件後には光頼の系統は影が薄くなり、武則の系統が清原氏の首領の地位を継承することになる。

 前九年の合戦に出陣した人物を見ると、諸陣の部隊長のなかには、武則の嫡子・清原武貞、清原氏一族の清原武道のほかに、橘貞頼・頼貞兄弟、吉彦秀武、吉美侯武忠という清原姓ではない人物がいる。

 そのなかの橘貞頼・頼貞兄弟は、貞頼の字が志万太郎で、出羽北部で志万(島)といえば男鹿半島のことなので、橘氏は男鹿半島に拠点を有していたと考えられる。平泉藤原氏が滅亡した時、奥州の住人豊前の介(すけ)・實俊と弟・橘藤五實昌は、陸奥出羽両国の絵図並びに定まる諸郡の券契を諳(そら)んじており、驚嘆した源頼朝は、この兄弟を御家人に取り立てたが、『吾妻(あづま)鏡(かがみ)』によれば實俊の姓は「清原真人」であった。實俊らは橘貞頼・頼貞兄弟の子孫である可能性が高い。清原氏の勢力は仙北三郡(湯沢市・横手市・大仙市・仙北市など)に限定されたものではなかったのである。

 ○婚姻で拡大

 吉彦、吉美侯は古くからの蝦夷(えみし)系の姓である。吉彦秀武は清原武則の甥で婿でもあるといい、橘貞頼も清原武則の甥であったというから、清原氏は婚姻を通じて、出羽北部のさまざまな勢力との関係を深めていったことが想像できる。

 ところで、清原の姓はもともと中央のものである。その上、清原氏は、清原真人(まひと)光頼、のように真人という称号(姓(かばね))を有している。真人は天武(てんむ)八姓(はちせい)のひとつで、7世紀の天武天皇の時に、近い過去に天皇家から出た血筋の者に与えられた称号である。9世紀には六世の王が多量に清原真人を賜(たまわ)り、多くの清原真人が誕生した。そのなかには地方官として赴任した者も少なくなかったであろう。出羽の清原氏も、このような清原真人のひとりの子孫だと考えられる。元慶の乱の頃(ころ)に出羽権掾(ごんのじょう)だった清原真人令望(これもち)はその候補である。ただし令望自身は元慶の乱後は出羽を離れている。

 なお、前九年の合戦後に清原氏の主流となる武則については、海道平氏(茨城県から福島県海岸部に勢力を張った平氏)から清原氏に入った人物であるとする系図がある。武則の孫・清原真衡(さねひら)が養子として迎えたのも海道平氏出身の海道小太郎成衡(なりひら)であったし、柳之御所遺跡出土の「人々給絹日記」といわれる墨書折敷(おしき)には秀衡の側近に「海道四郎」という人物がいたことが記されており、平泉藤原氏の時代になっても成衡の縁者が活躍していたことを示している。武則流清原氏と海道平氏との密接な関係は疑いないところである。

【写真=大鳥井柵跡(秋田県横手市新坂町)。清原光頼の子・大鳥井山太郎頼遠の居館とされる。前九年の合戦後に一時、安倍正任は頼遠のもとに身を寄せた】


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