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39.安倍氏の構造
多様な人々を組み込む

 前九年の合戦がはじまったころの安倍氏の首領は安倍頼時であった。頼時は安倍貞任・宗任らの父である。安倍氏は胆沢鎮守府の在庁官人として勢力をつちかってきた豪族で、本来の勢力範囲は衣川の関以北の奥六郡だったが、早くから衣川の関以南の磐井郡や気仙郡にも勢力をひろげており、磐井郡の石坂柵(さく)・小松柵・河崎柵などは安倍氏の重要拠点であった。小松柵を守備していたのは頼時の弟・僧良昭(りょうしょう)である。

 ○重要な拠点

 奥六郡内の安倍氏の最重要拠点は鳥(との)海(みの)柵(さく)である。鳥海柵跡(金ケ崎町)は胆沢川の北岸に接しており、胆沢鎮守府が置かれていた胆沢城跡(奥州市水沢区佐倉河)は至近距離にある。鎮守府の在庁官人として成長した安倍氏の拠点としてふさわしい位置を占めていた。頼時の子・宗任は鳥(との)海(みの)三郎(さぶろう)、家任は鳥海弥三郎(やさぶろう)と呼ばれていたから、宗任は頼時の後継者的な扱いだったことがわかる。

 鳥海柵とならぶ安倍氏の重要拠点は雫石川と北上川の合流点付近に位置する厨川柵である。この地は、奥六郡の北の喉(のど)元にあたり、厨川柵は安倍氏が岩手県北部から青森県方面に勢力をのばすための拠点だったのであろう。貞任は厨川次郎と呼ばれており、安倍氏が奥六郡以北に力をふるう責任者だったのであろう。貞任と宗任の関係は、平泉藤原氏の国衡と泰衡に例えられるかもしれない。

 貞任・宗任らの弟・重任は北浦六郎と呼ばれていた。北浦という地名は御所湖の付近にあったというから、そのあたりにも安倍氏の拠点があったのかもしれない。雫石盆地の入り口を扼(やく)する御所湖付近は、清原氏がおさえていた秋田県仙北地方に通ずる雫石街道の喉元にあたる交通上の要衝である。

 北上市の黒沢尻柵も安倍氏の拠点のひとつであった。清原氏勢力の中心地であった横手と直結する平和街道(平鹿郡と和賀郡を結ぶ街道)の始点にあたるこの地の重要性はいうまでもなかろう。貞任・宗任らの別の弟・正任は黒沢尻五郎と呼ばれていた。

 安倍氏本流は奥六郡の主要な地に、一族の重要な人物を配置していたことがわかる。宗任・貞任らの時代の前の安倍頼時の世代も同じような配置だったと考えて良かろう。ただし集団としての安倍氏は、決して安倍氏本流に属する人々だけで構成されていたのではなく、多種多様な人々が含まれていた。

 ○4群の属性

 第一にあげられるのは藤原経清である。経清は安倍頼時の女婿で、前九年の合戦の直前に安倍氏との婚姻関係が生じて、安倍氏陣営に加わった。

 第二の群には前九年の合戦の武将として名をとどめた、藤原業近(なりちか)(宗任の腹心)・平孝忠(貞任らの一族、散(さん)位(い)とあるので有位者であることが判明する)・藤原重久・物部(もののべ)惟正(散位)・藤原経光・藤原正綱・藤原正元・藤原頼久・藤原遠久などの人々がある。

 藤原、平、物部など中央の姓である。なかには藤原経清のように婚姻関係によって安倍氏集団に加わることになった人物も含まれているかもしれないが、多くは鎮守府官人の系譜につらなる人々なのであろう。これらの人々の祖先は、安倍氏の祖先と肩を並べる存在であったが、安倍氏が台頭するなかで、安倍氏集団のなかに組み込まれていったと考えられる。この点は、安倍氏の由来を考える上で重要な手がかりになる。

 第三の群は気仙郡の豪族、金(こん)師道・為行・則行・依方・経永などの金氏一族である。金氏は気仙郡の郡司をつとめる、気仙郡随一の豪族で、安倍氏が本来は多賀国府の管轄領域であった気仙郡に勢力を伸ばしてゆくなかで、金氏一族のなかには安倍氏の集団に取り込まれた人物もあったのである。ただし、前九年の合戦では気仙郡司であった金為時は源頼義の腹心として行動している。

 第四の群には、奥六郡よりもさらに北方の蝦夷(えみし)の豪族たちがある。その代表が青森県東部の※屋(かなや)、仁土(にと)呂志(ろし)、宇(う)曾(そ)利(り)の3地域をおさえていた安倍富忠である(第29回「安倍富忠と防御性集落」参照)。富忠は安倍氏本流につらなる明証はなく、安倍氏が北方に勢力をひろげる過程で、安倍氏に組み込まれたと考えられる。なお、富忠は最終的には源氏の将軍・源頼義に呼応して安倍氏本流と敵対することになる。

 【注】地図上の赤は衣川関より北の安倍氏重要拠点、だいだい色は同南の重要拠点。青丸は律令政府の拠点。

※は施の方が金


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