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38.北海道との交易
無視できない力の源泉

 前九年の合戦で、本格的な戦いがはじまる直前、鎮守府将軍を兼ねていた源頼義は多賀国府から鎮守府に赴き、安倍頼時は頼義一行を鄭重(ていちょう)にもてなした。『陸(む)奥(つ)話(わ)記(き)』はこのことを、安倍頼時は源頼義を「首を傾けて給仕」し、駿馬(しゅんめ)・金宝の類(たぐい)を悉(ことごと)く献上し、士卒にも及んだと述べている。

 ○産物の献上

 後三年の合戦では、清原氏の首領・真衡に対して、吉彦秀武が清衡・家衡を誘って反旗をひるがえし、一族を二分する戦いが行われているさなかに、源義家が陸奥守として多賀国府に赴任し、真衡は戦いを一時棚上げにして義家をもてなした。『奥州後三年記』はこのことを、真衡は義家を饗応(きょうおう)するために三日厨(くりや)を営み、日ごとに上馬50匹のほか、金・羽・アザラシ・絹布の類を多数献じたと述べている。

 前回に述べた、安倍氏・清原氏が鎮守府将軍や陸奥守を介して京都に金や馬などを提供した具体的な姿は、このような形のものであった。

 ところで、真衡が源義家に献じた品目のなかに羽とアザラシがあることに注意していただきたい。羽とは鷲(わし)の羽のことである。藤原氏の時代の史料では、京都で内覧(ないらん)(関白に准ずる職)の地位にあった藤原頼長の陸奥国と出羽国の5つの荘園の年貢の品目と量について、基衡と頼長との間で交渉があったことが頼長の日記に記録されている。基衡が東北地方にある荘園の総管理人だったためである。それによると、これらの荘園の年貢としては、砂金、布、馬、細布、漆、アザラシの皮、鷲の羽があげられている。

 また基衡は毛越寺の本尊の造立を雲慶(うんけい)(運慶とは別人)という京都の仏師に依頼し、基衡は報酬として圓(えん)金百両、鷲の羽百尻、大きなアザラシの皮60余枚、安達の絹千疋(ひき)、希婦(けふの)細布(せばぬの)2千端、糠部(ぬかのぶ)の駿馬50疋、白布3千端、信(しの)夫(ぶ)の毛地(もぢ)摺(ずり)千端等を送り、それに山海の珍物を副(そ)えたという。

 やや時代がさかのぼる平安時代前半の史料では、陸奥と出羽の両国が京都に貢上しなければならない品目のなかには、砂金のほか、アシカの皮や昆布、熊(くま)の膏(あぶら)や熊の皮などもあることが記されている。

 ○北方を掌握

 鷲の羽、アザラシの皮、アシカの皮、熊の膏や熊の皮、昆布いずれも北の産物である。これらの一部は東北地方で得られたものにしても、大部分は北海道に由来すると推測して誤りはないであろう。安倍氏・清原氏の時代には、平安時代前期あるいはそれ以前からの状況を継承して、北海道の特産品を大量に入手できるシステムが確立しており、平泉藤原氏の時代になると、そのシステムはさらに整備された。安倍氏・清原氏・平泉藤原氏が京都に安定的に供給したものは、東北北部の砂金と馬だけではなく、鷲の羽、アザラシの皮などの北海道の産物もあったことを忘れてはならない。

 これらの品目のなかの鷲の羽について、簡単に説明しておこう。鷲の羽は主に矢羽根として用いられた。矢羽根の材料は、鷲・鷹(たか)・鴾(とき)などの大型の鳥の翼や尾の羽で、鷲が最高級とされ、とくに真(ま)鳥(どり)羽と呼ばれた。弓矢は実戦に用いられたのはもちろん、武官の正式な装束でも矢を帯びることになっていたから、需要は大きかったのである。

 目を北海道に転じよう。この時代の北海道の遺跡からは本州からもたらされた刀剣類、斧(おの)、鎌(かま)などの農工具類など、多量の鉄製品が発掘される。小さいためにあまり発見例は多くはないが、鉄製の針もある。北海道でも鉄鍋(なべ)が徐々に普及し、食べ物の煮炊き具は、ついには鉄鍋が土器にとってかわる。これら鉄製品のほとんどは本州から北海道にもたらされたものである。

 もともとは酒の容器だったと考えられる大甕や瓶(かめ)も出土する。北海道では栽培されていなかった筈(はず)の米も見つかる。北海道では神祭りのための酒や、酒の原料としての米を本州から輸入していたのである。実物が発見されることがあまり期待できない布製品も、北海道へ渡っていたことが推測できる。

 昆布、鷲の羽、アザラシの皮などと引きかえに北海道に渡ったのは、このようなものであった。北海道もまた広域にわたる交換経済の輪のなかにあった。安倍氏・清原氏・平泉藤原氏の力の源としては、北方交易の咽喉(のど)元を掌握していたことも無視できないのである。

【写真=北海道沙流郡平取町カンカン遺跡から発掘された鉄製品=北海道開拓記念館展示図録「擦文文化」より】


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