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37.金と馬
中央機構を介して献上

 前九年の合戦では、源頼義が出羽の豪族・清原氏の応援を得て安倍氏を滅亡させた。事件後には、清原武則が鎮守府将軍に任命され、清原氏が安倍氏の後継者として奥六郡の支配者となり、源氏が奥六郡に勢力を築くことにはならなかった。朝廷が清原氏を安倍氏の後継者の地位に据えたのは、源氏が北東北の支配者となることよりも、蝦夷(えみし)系豪族の支配が継続することを望んだことにほかならない。

 ○蝦夷系温存

 そもそも、前九年の合戦で源頼義が起用されたのも、安倍氏を滅ぼすことを期待してのものではなかった。頼義が多賀国府に赴任した直後に、上東門院彰子(藤原道長の娘、一条天皇の中宮。後一条・後朱雀天皇の母)の病を理由とした全国規模の大赦令が発せられ、安倍氏の罪もその対象となったことがそれを証明している。朝廷は安倍氏が衣川関以北を掌握する体制を容認していたのである。

 前九年の合戦の発端は、安倍氏の勢力が衣川の関を越えて、多賀国府の管轄領域に及ぼうとしたことであった。陸奥(むつ)守や多賀国府の在庁官人の軍事力だけでは安倍氏南下の勢いを抑えることができなかったため、軍事貴族として名のあった頼義が起用されたのである。安倍氏は恭順の姿勢をとったことで、朝廷が頼義を起用した目的は達せられ、頼義の任期が終わると別人が陸奥守に任命された。

 ところが頼義は、朝廷の思惑を越えた行動をとり、安倍氏を挑発して全面的な対決に追い込んだのである。朝廷も頼義の行動を認めざるを得なかったが、それは朝廷の本意ではなかった。安倍氏滅亡後に、清原氏が奥六郡をゆだねられたのは、朝廷が安倍氏時代の体制が大きくかわることを欲しなかったからに相違ない。

 それどころか、朝廷は清原氏の支配が安定することを望んでいたとさえ思われる。前九年の合戦終了から10年後に発動された延久の合戦で、清原貞衡らが進攻した地域は閉伊と下北であった(第3回「延久の合戦」参照)。安倍氏はこの地域にも力を及ぼしていたと思われるが、前九年の合戦で安倍富忠が頼義の陣営につくということもあったため、清原氏の時代になると、この地域の支配は安定していなかったのであろう(第29回「安倍富忠と防御性集落」参照)。閉伊・下北方面は平泉藤原氏の時代には糠部(ぬかのぶ)といわれるようになっており、名馬の産地としての評価が定着していた。延久の合戦の主要なねらいは、安定的に馬を確保することだったのであろう。

 後三年の合戦後、源義家が陸奥守を解任され義家の北東北掌握が阻まれたのも、ひとつには朝廷が依然として清原氏が北東北を支配者することを望んだためであった。

 ○現状を容認

 朝廷が蝦夷系豪族の北東北支配を望んだのはなぜであろうか。平安時代の京都では、東北地方産の砂金や馬などがもてはやされていた。砂金と馬は平泉藤原氏の時代以前から北東北、とくに岩手県から青森県にかけての地域の特産であった。この地域を掌握していたのは先には安倍氏であり、安倍氏滅亡後は清原氏であった。

 ところが、砂金や馬を京都にもたらしたのは安倍氏や清原氏ではなく、鎮守府将軍や陸奥守なのである。陸奥守が朝廷に納入する砂金は、重要な年中行事の財源となっていたし、陸奥国から馬が貢上されると、天皇や貴族たちが列席する「御馬御覧」の儀が行われた。

 鎮守府将軍や陸奥守は私的にも、砂金や馬を摂政・関白・大臣などの権門に贈った。藤原実資(さねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』には、鎮守府将軍・平維良(これよし)が将軍の任符を得るため、藤原道長に馬20頭・胡(こ)ろく(矢を入れ携帯する容器)・鷲(わし)の羽・砂金などを進上し、道路は見物人で市をなしたとあり、実資は、維良は官符で追討が命じられたような人物なのに、程なく栄爵に預かり、さらに鎮守府将軍に任ぜられたのは財貨の力であり、外土の狼戻(ろうれい)の輩(やから)が財宝を貯(たくわ)えて官爵を買おうと企てているのは、まことに悲しむべき時代である、と嘆いている。

 安倍氏・清原氏は鎮守府将軍や陸奥守を介して安定的に砂金や馬を提供することと引きかえに、奥六郡を中心とする北東北の支配を容認されていたのである。

【写真=一戸城跡出土の馬印(うまのかね)一戸産の馬につけた雀(すずめ)をかたどった焼き印。中世後期のものであるが、糠部が名馬の産地であったことを示している=一戸町教委所蔵】

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