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36.清原清衡
一人、東北北部受け継ぐ

 後三年の合戦は、金沢(かねざわの)柵(さく)(秋田県横手市金沢)の攻防戦によって決着した。金沢柵が落城したのは、寛治元(1087)年11月14日の夜であったという。城中の家には火が放たれ、多くの者が殺された。武衡は捕らえられ、一旦(いったん)は逃れた家衡も、県(あがた)小次郎次任(つぎとう)という者に捕らえられて首を斬(き)られ、それが源義家のもとに届けられた。

 ○義家を非難

 ところで、金沢柵落城に先立ち、城中にあった千任(せんとう)丸(まる)という者が、櫓(やぐら)の上から源義家に対し「汝(なんじ)の父の源頼義は、源氏の力では安倍貞任・宗任を討つことができないので、名簿(みょうぶ)をささげて(主従関係をとるからと言って)故清(せい)将軍(清原武則)を仲間に入れたてまつり、ひとえにその力でたまたま貞任らを討つことができたではないか。恩を受け徳をかけていただいたのだから、それに報いたてまつるのが当然なのだ。それなのに汝(なんじ)は、清原氏の相伝(そうでん)の家人(けにん)であるにもかかわらず、忝(かたじけな)くも重恩がある主君を攻めたてまつるという、不忠不義の罪を犯している。さだめて天道の責めを蒙(こうむ)るであろう」と罵倒(ばとう)したという。

 この話は『陸奥(むつ)話記(わき)』の次の記事と対応する。源頼義は独力では安倍氏を倒すことができなかったので「常に甘言を以(も)って、出羽山(せん)北(ぼく)の俘囚(ふしゅう)主、清原真人(まひと)光頼、舎弟武則等に説き、官軍に与力(よりき)せしめんとす。光頼等猶豫(ゆうよ)して未(いま)だ決せず。将軍常に贈るに奇珍を以ってす。光頼・武則等漸(ようや)く以って許諾す」(原漢文)。

 『陸奥話記』の記事ともあわせ考えるならば、前九年の合戦の際に源頼義が清原氏の援軍を得るにあたっては、清原氏側の言い分としては頼義が清原氏に対して主従関係を取り結ぶと約束したと理解しても的はずれではない程(ほど)に腰を低くしてのものであったことがわかる。

 源義家は武衡に対し、先に千任丸に教えて源頼義が清原武則に対して差し出した名簿がある由(よし)を言わせたことを責め、千任丸に対しては、先日櫓の上で言ったことをもう一度言ってみろと責めたが、千任丸は物も言わなかった。そこで義家は、千任丸の舌を切るように命じ、はじめは金ばしで舌を挿(はさ)んで引き出そうとしたが、千任丸は歯をくいしばって口を開けなかった。そこで、金ばしで歯をつきやぶって舌を引き出して切り、千任丸を縛り上げて木の枝につり下げ、その足の下に武衡の首を置いた。千任丸ははじめは足をちぢめて武衡の首を踏まないようにしていたが、ついに力尽きて主人の首を踏んでしまった。源義家はこれを見て、郎党たちに対し、二年間の愁眉(しゅうび)を今日やっと開くことができたと語ったという。

 ○私戦と認定

 このようなことがあった後、義家は、清原武衡・家衡の謀反は、前九年の合戦の際の安倍貞任・宗任を越えるものであるが、たまたま私の力で討ち取ることができた。ついては、追討の官符を賜(たまわ)り、清原武衡・家衡の首を京へたてまつりたい、と申し入れた。事後承認ながら、朝廷の命を受けての行動だったことを求めたのである。しかし朝廷はこの戦いを義家の私戦と認定し、勧賞は行わず、官符も出さないとの決定がなされた。『奥州後三年記』は、源義家はその決定を聞き、武衡・家衡の首を道に棄(す)て、むなしく京へ上った、と記している。

 実際には義家は陸奥守を解任され、寛治2(1088)年1月には別人が陸奥守に就任しており、寛治3年10月にはあらためて、前陸奥守の源義家をどのように処分すべきかが協議されている。

 後三年の合戦が終わった段階で、清原武則、武貞、真衡と続いた、清原氏の棟梁(とうりょう)を継承する有資格者としてはただ1人、清衡が勝ち残っていた。だからふつうにいわれているように後三年の合戦で清原氏が滅亡したということにはならない。そして、この段階での清衡はまだ清原清衡であって藤原清衡ではなかろう。朝廷は、あらためて東北北部の支配を清原清衡にゆだねたということなのである。それは義家にとっては、大きな誤算でもあった

 (東北歴史博物館前館長・盛岡市出身、仙台市在住)


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