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35.後三年の合戦結末
平定の源氏遠い主導権

 後三年の合戦は、陸奥(むつ)守として赴任してきた源義家が事件に介入してきたことと、清原氏の主(あるじ)・真衡(さねひら)が頓死したことで、新しい局面をむかえることになった。真衡に反抗した一族の長老・吉彦(きみこの)秀武(ひでたけ)に呼応して真衡を攻めていた清衡・家衡は義家に降(くだ)った。そのため、誰を清原氏の新しい主とするかは義家の手にゆだねられることになったのである。

 ○家衡の決起

 もともと清原氏は秋田県の仙北三郡を拠点としていた豪族であったが、前九年の合戦の結果、清原氏が安倍氏の後継者として奥六郡を支配することになったため、清原氏の主であるためには、奥六郡を握らなければならなかった。ところが義家は奥六郡を二分し、清衡には胆沢・江刺・和賀の三郡を、家衡には稗貫・紫波・岩手の三郡を与える措置をとった。しかも清衡の館に家衡を同居させ、さまざまに清衡に有利なとりはからいをしたという。明らかに清原氏を弱体化させ、分裂をさそう策である。

 果たして家衡は決起し、清衡を抹殺しようと計り、妻子眷属(けんぞく)を殺された清衡は辛うじて逃れ、義家に助けを求めた。家衡は義家軍の攻撃に備えて秋田の沼(ぬまの)柵(さく)(横手市雄物川町沼館)にたてこもり、義家軍はこれを包囲した。時は応徳三(1086)年暮れから翌年にかけての数カ月で、義家軍は経験したことがない豪雪に遭遇した。源氏の兵は寒さと飢えに苦しみ、一旦(いったん)は撤退を余儀なくされたのである。

 この時、家衡の伯父の清原武衡が陸奥国から秋田にやってきて、家衡に味方をすることになった。名望の高い源義家の軍を一時でも苦しめることができたのは、清原氏の名誉なので、家衡を支援するということだったという。武衡は家衡に沼柵を捨て、より堅固な金沢柵(かねざわのさく)(横手市金沢)に移るように勧めた。

 この前後に合戦のことが京都に伝わり、義家の弟の義綱を陸奥に派遣することが協議されたり(実現はしなかった)、合戦を停止させるために使者が派遣され、合戦の処理法についてさまざまな協議がなされている。また、左兵(さひょう)衛(えの)尉(じょう)の職にあった義家のもう一人の弟・義光が許可なく陸奥に下向したため停任されている。京都では義家の動きを警戒するようになっていたことがわかる。

 寛治元(1087)年9月、義家軍は多賀国府から再度秋田をめざした。今回の目的地は家衡・武衡がたてこもる金沢柵である。義家の陣営には清衡や吉彦秀武もあった。清原氏一族はなお双方のがわにあり、清原氏は分裂している。後三年の合戦は最後まで、源氏と清原氏の戦いという構図ではおさまりきれない部分があり、これが事件後に清衡が実父・藤原経清の姓を襲って平泉藤原氏の初代となることに結びつくのである。

 ○2回目の冬

 義家は秀武の提案で金沢柵を包囲して兵糧攻めにする作戦をとり、2方面は義家が、ほかの2方面はそれぞれ源義光と清衡・重宗(清原氏一族であろう)が捲(ま)いた。合戦は長期化せざるを得なかった。義家が雁(かり)の列が乱れるのを見て伏兵の存在を知ったという有名なエピソードは、この時期のことである。

 2回目の冬がやってきて、金沢柵の城中は飢えに、攻撃がわは寒さに苦しんだ。金沢柵では食料が尽き、清原武衡は義光を介して講和を求めた。義光はこれに応じようとしたが義家は許さなかった。城中では女性や子供を脱出させようとし、城(き)戸(ど)を開いて出てきた。包囲がわの兵はこれを通そうとしたが、吉彦秀武が城中の兵は愛妻・愛児にものを食わせないということはないだろうと反対し、結局これらを殺したので、城中から重ねて降る者はいなくなった。

 金沢柵が落城したのは11月14日のことである。城中の家にはすべて火が放たれた。武衡は斬首(ざんしゅ)され、家衡は一旦は城中から逃れたが、発見され射殺された。事件は決着したが、その後の動向は必ずしも源義家が望む方向には進まなかったのである。

 (東北歴史博物館前館長・盛岡市出身、仙台市在住)

【写真=後三年合戦の主戦場となった金沢柵全景(中央)=秋田県横手市)】


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