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34.源義家の介入
清原氏の後継に発言力

 後三年の合戦は、清原氏一族の内部対立が昂(こう)じて、武力抗争にまで発展した事件である。事件は、一族の長老・吉彦(きみこの)秀武(ひでたけ)が真衡(さねひら)の弟・清衡と家衡を仲間にひきいれて清原武貞の嫡子・真衡に反抗したことにはじまる。秀武や清衡・家衡の不満の原因には、真衡が養子として海道平氏から成衡をむかえたことがあった。

 ○武人の名声

 真衡も清衡・家衡の本拠はともに岩手県がわにあったが、秀武の本拠は秋田県がわにあったため真衡は岩手と秋田を行きつ戻りつ戦いを進めざるを得ず、その間真衡の館は、真衡の妻と養子の成衡が守っていた。

 双方が争っていた最中の永保3(1083)年秋に源義家が陸奥(むつの)守(かみ)として多賀国府に赴任してきた。義家は前九年の合戦でも、父の源頼義にしたがって戦っている。また、延久2(1070)年には、藤原基通(もとみち)が陸奥守の源頼俊と合戦し、陸奥国の国印と国倉の鎰(かぎ)を奪い取った事件がおきているが、藤原基通は下野守の源義家のもとへ面縛(めんばく)帰降したことが義家から朝廷に報告され、朝廷は頼俊に対して、基通の追討に赴かないように命じている。この事件は多賀国府付近が舞台だったのであろうが、源義家が陸奥国に強い関心をいだいていたことも知られる。

 その後義家は、承暦3(1079)年には美濃国において源国房と合戦を行った源重宗の追討を命ぜられ、永保元(1081)年に園城寺(おんじょうじ)と延暦寺とが争い、園城寺の悪僧300余人が比叡山に登って乱暴を働いた際には、園城寺に発遣(はっけん)されて比叡山を攻めた悪僧らの逮捕を命ぜられるなど、武人としての名声が高まっている。

 義家が赴任してくると、真衡は戦いのことを棚に上げて源義家を饗応(きょうおう)した。義家の武人としての名声は高く、義家がどちらの陣営に肩入れするかで、戦いの様相が大きく変わることが考えられたからであろう。真衡は三日(みっか)厨(くりや)を行って義家を饗応し、日ごとに上馬50匹を引き、また金・鷲(わし)や鷹(たか)の羽・アザラシ・絹布の類を用意したという。このなかにアザラシのような北海道方面の産物が含まれており、清原氏が北方交易で大きな利益を上げていたことをうかがわせる。

 義家への饗応を終えた真衡は、ふたたび自分の館も固め、吉彦秀武を攻めるために出羽へ向かった。そうすると清衡・家衡も前のように真衡の館に攻め寄せた。真衡の館には真衡の養子の成衡がいた。真衡の妻は、胆沢郡の検問にあたっていた義家の2人の部下を館にむかえ入れて清衡・家衡と戦ったが、戦況は清衡・家衡のがわに有利に展開したので、義家は自ら出陣して成衡を助けた。

 ○影薄い成衡

 これより先、義家は清衡・家衡に使いを送り、「自分が戦いに加わることになるが、それでもなお戦うかどうか」と申し入れた。そこで清衡・家衡は戦いから身を引こうとしたが、清衡の親族の重光(しげみつ)という者が戦いを継続することを主張し、結局は義家の軍と戦うことになった。この戦いで主戦論者の重光は討死(うちじに)し、清衡・家衡は1匹の馬に跨(またが)ってかろうじて逃げおおせた。

 ところが出羽へ戦いに向かっていた真衡が死んでしまった。討死ではないようである。真衡の死により、情勢は大きくかわることになり、清衡・家衡は死んでしまった重光に責任を負わせ、義家に降参した。

 真衡の死により、清原氏の主(あるじ)の資格がある人物としては、真衡の弟の清衡・家衡と、真衡の養子・成衡が残ったのである。しかし成衡の影は薄かった。清衡・家衡に対する義家の発言力はきわめて高まり、清原氏の主を誰にするかは義家の考え次第ということになったのである。

 成衡は真衡の死後は清原氏内部に安住できなくなったのであろう。後のことではあるが、成衡はしばらくの間、義家の庇護(ひご)のもとで、義家の勢力圏内の下野国(栃木県)塩谷郡に居たが、やがて義家の指示により氏家の風見の館で討たれるという運命をたどることになる。義家は不要となった成衡を消したのだろう。

(東北歴史博物館前館長・盛岡市出身、仙台市在住)

【写真=束稲山から見た衣川流域。衣川と北上川の合流点も見える。この付近には安倍氏や清原氏の重要拠点があった】


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