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33.後三年の合戦 発端
内紛招いた平氏接近

 後三年の合戦が勃発(ぼっぱつ)したのは永保3(1083)年のことで、前九年の合戦が決着した康平5(1062)年からすでに21年を経過しており、清原氏は前九年の合戦の功によって鎮守府将軍となった清原武則の孫の清原真衡(さねひら)の時代になっている。

 前九年の合戦後の清原氏の勢力圏は、秋田の仙北三郡を中心とした地域に加えて、安倍氏の旧領・奥六郡をもあわせた広大なものになっていた。そして、清原貞衡が延久2(1070)年に陸奥(むつ)守・源頼俊(よりとし)とともに行った延久の合戦により、清原氏の勢力は閉伊七村と衣曾(えぞの)別嶋(べつしま)にも及ぶようになっていた。

 延久の合戦の当事者であった頼俊は、合戦後にも特段の恩賞がなかったため、事件から十数年も経過した応徳3(1086)年になって、自分の功績は前九年の合戦の際の源頼義にも劣らないのだから、頼義が伊予守(かみ)に任命された前例にならって讃岐守に任じてほしいと願い出ている。ところが、もう1人の当事者の貞衡は、合戦後ただちに鎮守府将軍に任命されている(第3回、延久の合戦参照)。

 ○深まる対立

 後三年の合戦勃発の頃(ころ)の清原氏は、真衡に権力が集中し、それに反発する一族の長老や真衡の弟たち(清衡・家衡)との間の対立が生じていた。折しも真衡は、清原氏内部からではなく海道(かいどう)平氏(へいし)出身の海道小太郎成衡(なりひら)を養子とした。海道平氏は茨城県北部から福島県にかけての海岸地方に勢力をもつ平氏の一族である。真衡はまた、成衡の妻に常陸(茨城県)の平致幹(むねもと)の孫娘をむかえることにした。彼女の父は源頼義で、頼義は前九年の合戦の折に致幹のもとに立ち寄ったことがあり、その際に娘をもうけ、その娘を致幹は大事に育てていた。

 真衡による平氏接近の一連の動きが、一族の内部対立激化の理由である。事件の発端は次のようなことだった。成衡が妻をむかえる饗宴(きょうえん)の際、清原武則の甥(おい)で娘婿でもあり、前九年の合戦の時にも参戦した長老の吉彦(きみこの)秀武(ひでたけ)が、祝いに持参した砂金を朱の盤にうずたかく積み上げ、頭よりも高くささげて庭にひざまずいていたのに、真衡は五そうの君という奈良法師との囲碁に夢中で、秀武のほうを見向きもしなかった。怒った秀武は出羽へ逃げて行き、真衡は秀武を攻めるために出陣した。

 真衡に比して劣勢だった秀武は、清衡・家衡のもとへ使(つかい)をやり、真衡に従者のように扱われているのに、お前たちは安らかな気持ちで過ごすことができるのか。思いがけないことがあって、真衡は私のもとへ攻め寄せてきた。真衡の留守をねらい、お前たちは真衡の妻子を殺し、家を焼き払うが良い。そうすれば真衡は力を失うだろう。真衡の妻子が殺され、家を焼き払われたと聞くなら、自分の白髪の首を真衡にとられても、さらさら憂(うれい)ではない、と言い送った。

 ○拠点を襲撃

 清衡・家衡は喜んで真衡の館を襲撃し、道筋にあたる胆沢郡白鳥村(奥州市前沢区)の在家(ざいけ)400余を焼き払った。清原氏時代の白鳥一帯は、真衡の拠点の一部だったのだろう。真衡は清衡・家衡と戦うために出羽から戻ってくると、清衡・家衡は軍を引き、真衡はなお兵を集めて自分の本所も固め、ふたたび吉彦秀武をも攻めようとした。清衡・家衡、真衡の館も胆沢郡周辺にあったのである。このようなことが何度もくりかえされたらしく、真衡は陸奥と出羽の間をあわただしく往来せざるを得なくなり、真衡が留守の時は、養子の成衡が真衡の館を守って清衡・家衡と戦うことになった。

 このようにしてはじまった後三年の合戦は、清原氏一族の内部対立が高じて戦いにまで発展したもので、清原氏が反乱を企てたという性格の事件ではない。この段階では源義家は事件とは何の関係もなく、義家がかかわりを持つようになるのは、清原氏一族が2つに分かれて戦っているさなか、義家が陸奥守に任ぜられてから後のことである。真衡が出羽に出向いている隙(すき)に清衡・家衡に攻められて危機に瀕(ひん)した成衡に対し、義家は自ら軍をひきいて介入し、真衡・成衡の陣営を援(たす)ける行動をとったのである。ここにいたって事件は大きく展開することになる。

 【注】閉伊(へい)七村は岩手県北部を中心とする地域、衣曾別嶋は下北半島と考えておきたい▽延久の合戦後、清原貞衡は鎮守府将軍に任じられた▽貞衡は真衡と同一人とする説と別人とする説とがある▽五そうの君は奈良・薬師寺の僧だった。

(東北歴史博物館前館長・盛岡市出身、仙台市在住)


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