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32.安倍氏から清原氏へ
北東北の支配者が出現

 前九年の合戦は、清原氏が源頼義の側に立って参戦したことで決着した。事件後、第1の功労者とされたのは清原武則である。武則は従五位下の位を与えられ、鎮守府将軍に任命された。これに対して頼義は正四位下・伊予守(かみ)(伊予は愛媛県)に、頼義の長子・義家は従五位下・出羽守に任命されている。

 ○頼義の不満

 頼義が伊予守に任ぜられたことは、さほど評価が低いとも見えないのであるが、頼義はこれに不満であった。そして、安倍氏の残党を平定する必要があると称して陸奥(むつ)にとどまり、入京したのは事件が決着した康平五(1062)年9月からほぼ1年半も過ぎた康平7年2月のことであった。

 また、源義家も出羽守に任じられたにもかかわらず、父の任国の伊予と出羽は遠隔なので親孝行ができないという、あまり理由にもならないことを申し述べて、これを辞退したらしい。そして義家は、あらためて折から欠員だった越中守(越中は富山県)に任じてほしいと願い出ている。ただしこの願いは聞き届けられなかったらしい。

 頼義・義家親子の不満の原因は、清原武則が鎮守府将軍に任じられたことにあるらしい。それまでは東北の豪族が鎮守府将軍となったことはなかった。いわんや蝦夷(えみし)系の豪族が鎮守府将軍になるということは、考えられないことだったからである。

 安倍氏は在庁官人として実質的には鎮守府を掌握してはいたが、最後まで鎮守府将軍ではなかった。清原武則が鎮守府将軍となったことは、安倍氏の時代にもまして、鎮守府が蝦夷を支配するための機構から、蝦夷系豪族の力の拠点に変質したことを物語っている。

 『奥州後三年記』は、先には安倍貞任の祖先が六郡の主人であったが、前九年の合戦の結果、武則の子孫が奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手郡)の主人となったと記している。この記述のように、清原氏は安倍氏の継承者となり、奥六郡の新たな支配者となった。もちろん、清原氏の旧領ともいうべき秋田県地方に対する力は保持したままであったから、前九年の合戦後の清原氏の勢力範囲は岩手・秋田両県にまたがる広大なものになった。

 それまでの、安倍氏と清原氏の勢力圏が並び立つ状態だった北東北が、清原氏による統一的な世界に変じたのである。ただし、当初の段階では、防御性集落が盛行していた奥六郡以北や青森県域に対する清原氏の力はさほど強くはなく、抵抗勢力が存在したと思われる。これらの地域に対する清原氏の支配が強く及ぶようなったのは、清原武則の孫の世代に行われた延久の合戦を待たねばならなかった(第3回「延久の合戦」参照)。

 前九年の合戦の結果、清原武則が鎮守府将軍となったことで、武則をはじめとする清原氏一族の主だった人々は、胆沢・江刺などに居館を置くようになった。鎮守府の所在が胆沢だったからである。安倍氏時代の居館が手を加えられ、再び利用されたものも多かったであろう。そして、安倍貞任とその兄弟など、首領クラスの人物は斬(き)られたが、その下のランクの多くの人々は、そのまま清原氏の配下に組み込まれたにちがいない。

 安倍氏一族の重要人物のなかにも清原氏の中枢部に迎え入れられた人物がある。安倍頼時の娘、貞任の姉妹のひとりで、藤原経清の妻(平泉藤原氏初代清衡の母)だった女性である。経清は前九年の合戦の最後の場面で斬られ、その首は京都に送られ獄門に懸けられた。しかし彼女は勝利者である清原武則の嫡子、武貞の妻に迎えられた。この時にまだ幼かった清衡も、武貞の養子として清原氏に迎え入れられたのである。彼女は安倍氏と清原氏をつなぐ重要な役割を果たしたのである。

 ○両雄の姻戚

 ただし彼女の例が、安倍氏と清原氏にまたがる婚姻の唯一だったわけではないだろう。前九年の合戦の最終場面で厨川柵が落城した後、安倍正任は清原氏一族である大鳥(おおとり)山(やま)頼遠(よりとう)を頼って逃れている。頼遠は清原武則の兄・光頼(みつより)の子である。清原氏一族のなかでも前九年の合戦に参戦したのは清原武則と武則の縁者たちだけである。源頼義は光頼・武則兄弟に参戦を誘いかけたにもかかわらず、光頼はそれに応じていない。このことを考えに入れるならば、光頼は安倍氏とは姻戚(いんせき)関係があり、それ故に正任は頼遠のもとに逃れたのであろう。安倍氏と清原氏は北東北の両雄であったが、一方ではそれぞれが鎮守府と雄勝城・秋田城の在庁官人として、幾重にも重なり合う婚姻関係でも結ばれていたのであろう。

 安倍氏から清原氏への権力の委譲は、力によってなされたとはいえ、清原氏は安倍氏のすべてを抹殺したのではなく、安倍氏が基盤としたものを継承し発展させたと見なすべきであろう。その延長線上にやがて平泉藤原氏の時代が到来するのである。

 【注】『陸奥話記』が源頼義の功績は、漢代に匈奴(きょうど)と戦った将軍や坂上田村麻呂にも劣らないことを強調しているのは、頼義の不満に理由のあることを婉曲(えんきょく)に伝えるためであった。

【写真=奥州市前沢区の白鳥舘遺跡(中央)。北上川が三面を囲む要害の地。戦国時代まで継続して用いられたが、安倍氏・清原氏の時代にさかのぼる城館である】

(東北歴史博物館前館長・盛岡市出身、仙台市在住)


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