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31.清原氏の参戦
東北二分、安倍氏滅ぼす

 源頼義は強引に安倍氏との戦いをはじめてはみたものの、源氏優勢の状況を作ることができないまま、康平5(1062)年春には、二期目の陸(む)奥(つの)守(かみ)の任期が終了することになった。朝廷はその後任に高階(たかしな)経重を任命し、経重は陸奥に赴任した。朝廷は頼義が陸奥に居座って戦いを続行することを望まなかったのである。朝廷には安倍氏を滅亡させるまで追い込む意思はなかったことがわかるだろう。

 ○頼義の依頼

 『陸奥(むつ)話記(わき)』は「陸奥国の人民が前陸奥守の源頼義に従い、新任国司の命に従わなかったので、高階経重はなすところがなく都にもどった」と記している。しかし実際は、安倍氏との戦いに決着をつけることができないままに新任の国司をむかえ、都に帰任しなければならなくなった頼義が、戦いを継続すべく新任国司の就任を実力で妨げたのであろう。

 事件の決着を急ぐ頼義はしきりに清原氏の援兵を求めた。これより先、すでに頼義は腰を低くして出羽の山北(せんぼく)(雄物川の中上流地域)の俘囚(ふしゅう)の主、清原光頼とその弟・武則に「常に奇珍なものを贈って」援軍を要請していた。また、後三年の合戦の際に清原武衡・家衡が金沢柵に立てこもり、源義家がこれを攻めた時、清原氏方の千(せん)任(とう)丸(まる)という人物は、源義家方に対し、汝(なんじ)の父の源頼義はどうしても安倍氏を倒すことができないので、清原武則に対して名簿(みょうぶ)を捧(ささ)げ(従者の礼をとること)、清原氏の力でようやく安倍氏を倒すことができたではないか。そうであれば、この戦いは従者の側が主人の側を攻めていることになると、罵言(ばげん)をあびせている(『奥州後三年記』)。

 結局、清原氏は頼義の求めに応ずることになり、武則にひきいられた1万余人の軍は陸奥国に出陣した。この時、頼義がひきいた軍勢は、源氏の将兵と多賀国府の在庁官人をあわせても、3000人に過ぎなかったというから、清原氏の兵力がいかに多かったかがわかる。こうして、天喜4(1056)年の阿久利(あくり)河の戦いからだけでもほぼ6年の間、頼義の軍だけではどうしても突破できなかった衣川の関は、清原氏の参戦によって簡単に破られ、1カ月たらずの戦いで厨川の柵も落城して、安倍氏は滅亡するのである。

 頼義は生虜(いけどり)となった藤原経清を責め、汝は先祖相伝(そうでん)の源家の家僕(かぼく)である。それなのに年来朝威をないがしろにし、旧主を軽蔑(けいべつ)したのは大逆無道である。今日白符(はくふ)を用いることができるか、さあどうだ、と言ったという。頼義は経清を深く憎んでいたので、苦痛が長引くように鈍刀で経清の首を斬(き)った(第28回参照)。

 安倍貞任は剣を抜いて「官軍」に斬りかかり、「官軍」は鉾(ほこ)で貞任を刺し、大きな楯(たて)にのせ6人でかついで頼義の前に運んだ。頼義は貞任の罪を責めたが、貞任は頼義に一面して死んだ。また弟の重任も斬った。しかし宗任は自ら深い泥に身を投じて逃れてしまった。

 ○一族の運命

 貞任の子の13歳になる千世(ちよ)童子は美少年で、鎧(よろい)をつけて柵の外に出て能(よ)く戦い、勇ましい祖先の風格があったので、源頼義は助命しようと思ったが、清原武則が小義を思って後の害になることを忘れてはいけないと言い、ついに斬られた。ほどなく貞任の伯父の安倍為元、弟の家任は帰降した。また数日を経て宗任らも帰降した。

 貞任の首は厨川でさらされた。後に源頼朝が藤原泰衡の首を獲(え)た時に、泰衡の首をさらした時には貞任の前例にならっている(第5回参照)。

 安倍正任は、初め出羽国の清原光頼の子・大鳥(おおとり)山(やま)太郎頼遠(よりとう)の許(もと)に隠れたが、後に宗任が帰降した由(よし)を聞いて出てきたという。頼義が清原氏に援軍を求めた時には、清原光頼とその弟の武則に対してであった。ところが実際に出陣したのは武則であり、光頼が動いた形跡はない。清原氏一族でも、事件への対応は決して同じではなかったのだろう。正任と頼遠は縁戚(えんせき)関係があった可能性が高い。

 康平6(1063)年2月16日、安倍貞任・藤原経清・安倍重任の首が京都に献ぜられ、3人の首は四条京極から西に進んで、朱雀大路にいたり、西の獄門に懸けられ、見物人でにぎわったという。

 前九年の合戦は東北北部を東西に二分しその東側をおさえていた安倍氏と、西側をにぎっていた清原氏のどちらが勝ち残るかという戦いでもあったのである。

【写真=鳥海柵跡(金ケ崎町)から奥羽山系を望む。峠を越えた秋田県がわは清原氏の本拠地であった】

(東北歴史博物館前館長・盛岡市出身、仙台市在住)


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