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30.北日本の防御性集落
10世紀は広範囲に分布

 八戸市の林ノ前遺跡からは、要害堅固なところに立地し、集落の主要部には大規模な堀をめぐらして敵の攻撃に備えた防御性集落であるにもかかわらず、異常な死をむかえた状況を示す人骨が発見されたりして、敵味方入り交じっての乱戦のなかで集落が終焉(しゅうえん)をむかえた跡が、昨日のことでもあるように残っていたのである(第29回参照)。

 ○蝦夷の世界

 当時の北日本は蝦夷(えみし)の世界であったから、この地域での戦いであるならば、政府軍が東北北部まで攻め入ったのではないかと考えてみたくなる。だが、数万規模の政府軍が東北地方に攻め入ったのは、9世紀初頭の坂上田村麻呂の時代が最後であり、その範囲も盛岡以南である。また、秋田城が焼き打ちされた元慶(がんぎょう)の乱(878年、第11回参照)の際にも、さほど大規模な戦闘が各地で行われた形跡はなく、戦闘が行われた地域も秋田城周辺など局部的である。

 蝦夷の集団間の対立が、時としては武力抗争に及ぶものであったことは、栗原(伊治)村対志波村の例(第10回参照)、爾(に)薩(さっ)体(たい)村・都母(つも)村・幣伊(へい)村対邑良(おら)志閇(しべ)村の例(第9回参照)で知られ、それは東北地方に限定されるものではなく北海道をも巻き込むものであった(第12回参照)。

 以上は9世紀までの史料に基づくものであるが、近年の発掘調査により、林ノ前遺跡など東北北部の防御性集落の最盛期は10世紀で、その分布は東北北部一帯から北海道に及んでいることが明らかとなった。また、防御性集落は稀有(けう)のものではなく、10世紀を中心とした時期には、過半以上の集落は何らかの方法で敵の攻撃に備えていたのではないかと考えられる。防御性集落を営んだのは蝦夷であり、その敵もまた蝦夷だったのである。

 安倍氏や清原氏が北方に勢力をひろげようとする段階の東北北部や北海道南部は、このような状況下にあった。安倍氏や清原氏は、蝦夷の集団間の抗争に介入して、勢力を北東北に拡大していったのであろう。そして、安倍氏や清原氏の後ろ楯(だて)を得た勢力が、次第に他の勢力を圧倒していったのであろうし、それらの勢力は安倍氏や清原氏と姻戚(いんせき)関係や擬制的な同族関係を結んで、安倍氏・清原氏の系列化に組織されていったと考えられる。

 ○抗争は下火

 前九年の合戦で源頼義の誘いに応じて安倍氏主流と袂(たもと)をわかった青森県東部の豪族・安倍富忠は、そのような人物なのであろう。富忠は、たまたま『陸奥(むつ)話記(わき)』に記録されることでその名が後世まで伝えられることになったのであるが、各地に富忠と同じような立場の人物が輩出していたにちがいない。

 前九年の合戦では、最終段階で清原氏が源頼義に味方したために安倍氏主流は没落し、安倍氏勢力は清原氏に吸収された。そして、前九年の合戦後に行われた延久(えんきゅう)(延久は年号)の合戦によって清原氏の勢力がより強力に北東北に及ぶようなった(第3回参照)。この段階で、北東北の住民の集団間の抗争は、清原氏によって抑えつけられて、下火になったにちがいない。こうして防御性集落の時代も沈静化するのである。

 その後清原氏は内部対立が激しくなり、後三年の合戦に至るが、最終的には清原氏の首長権は清衡に帰することになる。後三年の合戦の後、清衡は実父の藤原経清の姓を襲って藤原を名乗って平泉藤原氏の祖となるのであるが、安倍氏・清原氏が築きあげた東北北部に対する覇権は、清衡の力の重要な基盤であった。清衡は、平泉に拠点を置くと、白河の関から外が浜(青森市周辺の陸奥湾岸の地域)までの間の一里おきに、阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)を図絵した笠(かさ)塔(とう)婆(ば)を建てたというが、このようなことは北東北を掌握していなければ不可能であろう。

 平泉藤原氏の配下には、多くの防御性集落の時代を勝ち抜いた北東北の蝦夷系豪族の後裔(こうえい)が含まれていたにちがいない。源頼朝に追われた藤原泰衡は北海道に落ち延びようとしたが、その途中、平泉藤原氏数代の郎従、秋田比内(ひない)の河田次郎により贄(にえの)柵(さく)で討ち取られた。また、平泉藤原氏が滅亡した直後に、泰衡の郎従だった大河(おおかわ)兼任(かねとう)が主人の敵を討つと称して反旗をひるがえした大河兼任の乱があり、秋田県北部や青森県の多くの豪族が兼任に味方したらしい。河田次郎や兼任の乱に加わった北東北の豪族も、多くは防御性集落の時代の豪族の子孫なのだろう。そして彼らの多くは、北条氏など鎌倉時代に北東北を領した御家人の下に組み込まれ、北日本中世史の隠れた主役を演じたのである。

【写真=敵の攻撃に備えた防御性高地集落の一つ、黒山の昔穴遺跡(九戸村)の発掘調査=2004年10月6日撮影】

(東北歴史博物館館長・盛岡市出身、仙台市在住)


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