3.延久の合戦
清原氏、北東北全域に力

 平泉藤原氏初代の清衡は、きびしい後三年の合戦を生き残り、義兄真衡(さねひら)の後をうけて、清原氏の領袖(りょうしゅう)となった。真衡には強大な権力が集中していたらしく、後三年の合戦も、一族の長老らがそれに対して反抗したことに端を発する。

 ところで、前九年の合戦と後三年の合戦の中間にあたる延久2(1070)年、時の陸奥守(むつのかみ)・源頼俊(よりとし)は清原貞衡(さだひら)とともに、「衣曾(えぞの)別嶋(べつしま)の荒夷(あらえびす)」と「閉伊(へい)七村の山徒」を追討した大規模な作戦を敢行した。

 近年はこの事件を、年号によって「延久の合戦」と呼ぶようになった。歴史上、前九年の合戦、後三年の合戦に匹敵する重要な事件だったという意味もこめられた名称である。貞衡の「貞」と真衡の「眞」とは字体がよく似ており、清原貞衡とは実は真衡のことだという説が有力である。真衡の権力の根源は鎮守府将軍の地位に由来していたのであろう。

 すぐに恩賞

 延久の合戦については、前九年の合戦や後三年の合戦のように詳細な記録は残されていない。わずかに、『朝野(ちょうや)群載(ぐんさい)』という法令書に載っている延久3(1071)年5月5日付の一通の宣旨(せんじ)と、「御堂(みどう)関白記(かんぱくき)」(藤原道長の日記)を道長の孫の関白・師実(もろざね)が抄写した「御堂摂政別記」の裏(うら)文書(もんじょ)として残った応徳3(1086)年正月廿(20)3日付の一枚の古文書によって、概略が知られるだけである。

 この時に作戦行動の対象となった衣曾別嶋と閉伊七村は、具体的にはどの地域のことなのであろうか。衣曾嶋(えぞがしま)であれば北海道のこととして良いが、「別嶋」というからには、北海道本島のことではないだろう。当時の状況から考えて奥尻島ではないから、北海道に近く、しかも島同然の下北半島あたりのことである可能性が高い。閉伊七村は岩手県北部を中心とする広大な地域で、あるいは青森県東部をも含んでいたかもしれない。

 応徳3年の古文書では、源頼俊は閉伊七村と衣曾別嶋の荒夷を討ち随(したが)えた功績の賞として、欠員となっている讃岐守(さぬきのかみ)への任命を求めている。応徳3年は後三年の合戦が終結する前年で、作戦行動が実施された延久2年からは16年もたっている。それまで、源頼俊に対しては特段の恩賞もなかったことがわかる。ところがもう一人の当事者である清原貞衡は、事件後ただちに鎮守府将軍に任命されている。

 朝廷も評価

 前九年の合戦では最後の最後まで、源氏は安倍氏の堅陣を崩すことができず、切羽詰まった源頼義(よりよし)は、清原氏を主人筋と仰ぐと受け取られかねないほどに辞を低くして清原氏の援助を請い、よくやく安倍氏を倒すことができた。この時、清原武則(たけのり)が率いる軍は1万余、源氏勢はわずかに3000ほどであったというから、事件は実質的には清原氏の軍事力で決したことは明らかである。朝廷による事件後の評価も清原武則がもっとも高く、武則は東北の人間としてははじめて鎮守府将軍に任命された。

 延久の合戦後に貞衡が鎮守府将軍に任命されたことは、前九年の合戦の際の清原武則の鎮守府将軍任命と比較できるであろう。延久の合戦を決定づけたのも、清原氏の軍事力であったに相違ない。応徳3年の文書で源頼俊は、前九年の合戦の賞として源頼義が伊予守(いよのかみ)に任命された先例をあげ、自分の功績も源頼義に匹敵するものではないので、讃岐守に任じてほしいと述べている。延久の合戦は、いわば第2の前九年の合戦だったのである。

 朝廷の思惑は別のところにあったかもしれないが、延久の合戦によって清原氏の力は東北北部に強く及ぶようになった。清衡は、真衡の時代に培われた力を、そのまま継承した。東北地方全域を支配した平泉藤原氏の力の一半は、すでに清原氏の時代に準備されていたと考えて良いだろう。

【写真=延久の合戦で荒夷を清原貞衡らが追討したという衣曾別嶋は、青森県の下北半島ともみられる。本州最北端の下北半島・東通村尻屋崎付近は、寒立馬(かんだちめ)で知られる】


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