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29.安倍富忠と防御性集落
地形生かし襲撃に備え

 源頼義は天喜4(1056)年、阿久利(あくり)川(がわ)の戦いを演出して安倍氏と戦端を開いた。しかし安倍氏の手ごわさは頼義の予想を遥(はる)かに超えており、頼義の軍はどうしても、衣川の関を突破することができなかった。ところが頼義は、突如として天喜5年9月に朝廷に安倍頼時を討ち取ったと報告した。だがそれは、頼義の軍が安倍氏と戦って得られた戦果ではなかったのである。

 ○策略で勝利

 『陸奥(むつ)話記(わき)』には頼義が朝廷に送った公文書が引用されている。それによると、頼義は気仙郡の郡司・金(こん)為時らを奥地に派遣し、その地の俘囚(ふしゅう)に対し、頼義に味方するように説得させた。これに応じて、※屋(かなや)、仁土呂志(にとろし)、宇曾利(うそり)の3地域の夷(い)人は、安倍富忠という人物を首領として兵を発し、為時に従おうとした。これを知った安倍頼時は、自ら現地に出向いて事の利害を陳(の)べようとした。しかし安倍富忠は伏兵を設けて頼時を待ちうけていた。そして2日間の戦いの末、頼時は流れ矢に当たって負傷し、鳥海(とのみ)の柵までたどり着いたが、ここで死んだ、というのである。

 下北半島の恐山山麓(さんろく)には宇曽利川の名もあり、宇曽利は下北地方である。※屋と仁土呂志も青森県東部であることは間違いないだろう。

 安倍富忠とはいかなる人物であろうか。安倍を姓としており、しかも頼時が事の利害を説得しようと出向いたというからには、頼時らと無関係ではあり得ない。しかし富忠が、頼時やその子・貞任などの直系の縁者だったわけではないだろう。安倍氏の勢力がこの地域に伸びてきたことで、安倍氏の勢力下に組み込まれた青森県東部の族長だったと考えたい。ただし、その過程で安倍氏と婚姻関係を結んだことなどは想定しても良いだろう。

 ○動乱の蝦夷

 前九年の合戦前夜の北日本は、多くの集落が敵の襲撃に備えて守りを厳重にしていた防御性集落の時代である。集落の構造は、集落の周囲に大規模な堀や土塁をめぐらしたり、集落そのものを深山に移し、渓谷や断崖(だんがい)を天然の堀に見立てるなど、その地域の地形によってさまざまである。岩手県北部では、八幡平市(旧西根町)暮坪遺跡や子飼沢山遺跡、九戸村黒山の昔穴遺跡のように、集落を深山に移す例が圧倒的に多い。

 八戸市林ノ前遺跡は、急斜面を登りきった丘陵上に大規模な堀をめぐらすタイプの防御性集落である。集落内には鉄製の鏃(やじり)や馬の骨が散乱しており、後ろ手に縛()られたままで放置された人骨、無造作に投げ捨てられたかのような状態で発見された頭蓋(ずがい)骨などの発見もあって、話題を呼んだ。林ノ前遺跡の状況は、鋭い武器で刺されたり、切られたりした傷跡の残る人骨を含む90体以上の大量の人骨が溝のなかから散乱した状態で発見された鳥取市青谷(あおや)上寺地(かみじち)遺跡の姿と通ずるものがある。

 青谷上寺地は弥生時代の遺跡で、「倭国(わこく)乱れ、相攻伐すること歴年」(『魏志(ぎし)倭人(わじん)伝(でん)』)の一端が示されているといってよい。『魏志倭人伝』の時代の西日本は動乱のさなかにあった。そして平安時代の蝦夷(えみし)の世界もまた、動乱の時代を迎えていたのである。西日本の動乱では、有力なクニが徐々に周囲のクニを統合する方向に進んだ。北日本の蝦夷の世界でも、有力な集団が周囲の集団を傘下におさめてゆく動きがあったに相違ない。

 安倍氏主流は、北日本の各地で進行していた蝦夷の集団相互の争いに介入し、また争いの勝利者を自己の陣営に組み入れていったのであろう。さらには擬制的な同族関係の構築をはかった可能性もあるだろう。安倍富忠は青森県東部の蝦夷の集団をまとめつつあった大豪族で、一旦(いったん)は安倍氏主流の系列に組み込まれ、安倍を名乗ることになったのであろうが、頼義もまた富忠の力を利用しようとしたのである。

 富忠の勢力は、下北から八戸付近にまで及んでいた可能性が高い。林ノ前遺跡は青森県東部における最大級の防御性集落である。出土品のなかには飾太刀の優品もあり、多賀国府との接触も想定できる。林ノ前遺跡は富忠の拠点だったのではないかとする説が主張される所以(ゆえん)も一概には否定できないだろう。林ノ前遺跡に見られた壮絶な戦いは、あるいは富忠の裏切りによって父頼時を失った貞任の報復だったのかもしれない。

※=「施」の方が金

(東北歴史博物館館長・盛岡市出身、仙台市在住)


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