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28.藤原経清と平永衡
安倍氏とつながり深く

 阿久利(あくり)河(がわ)の戦いを機に、安倍氏との全面的な戦いに突入した源頼義であるが、安倍氏が衣川の関を厳重に固めたため、安倍氏の本拠に突入することはできず、戦いはもっぱら衣川の関の南で行われた。この段階では、安倍氏の首領である安倍頼時の女婿・藤原経清と平永衡はともに、頼義の陣営に属していた。経清も永衡も、陸奥国の在庁官人として、陸奥守の命令には従わなければならない立場だったからである。

 ○疑いの視線

 永衡は頼義の前任の陸奥守だった藤原登任(なりとう)の郎従として陸奥国に来て、伊具郡(宮城県角田市・丸森町)に所領を有していた人物であるが、くわしいことはわからない。

 頼義は永衡が安倍氏がわに内通していることを疑い、永衡とその腹心の者4名を斬(き)った。『陸奥話記』によれば、永衡が銀色の冑(かぶと)をかぶって従軍しており、これは自分の所在を敵に示して、射させないようにしているのだと頼義に告げる者があったのだという。藤原経清は自分にも疑いが向けられることを恐れ、安倍氏がわが間道から国府多賀城を襲おうとしているという流言を流し、頼義の陣営が混乱した隙(すき)に、800人余りの私兵を率いて安倍氏がわに走ったという。

 経清はその後、安倍氏がわの最有力武将として活躍した。衣川の関より南の住民に国府の公印が押されていない請求書(白符)に従うように命じ、それを阻止できなかった頼義は大いに悔しがったという(第26回参照)。合戦の最後の場面で捕らわれの身となった経清に対し頼義は、この場になってもなお白符を使えるかとなじり、苦しみが長引くようにと、鈍刀で経清の首を刎(は)ねたという。経清・安倍貞任・重任の首は京都に送られ、獄門に懸けられた。経清が貞任らとならぶ大物とみなされていたのである。

 経清は藤原秀郷(ひでさと)を祖とする秀郷流藤原氏に属し、秀郷の五代の孫である。秀郷は10世紀半ばの人物で、むかで退治の話『田原(たわらの)藤太(とうた)物語』の主人公としても知られる。秀郷の家系は祖父の時から下野国に留住しており、秀郷の代にいたって平将門(まさかど)の乱を平定して下野・武蔵両国の守に任ぜられ、北関東における勢力を不動のものとした。

 秀郷の子孫は関東・東北地方の各地に勢力を築いた。また、鎮守府将軍となった者も輩出したので、鎮守府の在庁官人だった安倍氏とのつながりも生じたであろう。経清が安倍頼時の女婿となったのも、秀郷流藤原氏と安倍氏との間のさまざまな結びつきの一環と見ることができるだろう。

 経清は亘(わたりの)権(ごんの)守(かみ)とも亘理権(ごんの)大夫(たいふ)とも呼ばれた。亘(亘理)は阿武隈川の河口部(宮城県亘理郡亘理町・山元町)の地名であり、経清は亘理郡に所領があったのであろう。権守・権大夫(大夫は五位の通称)といわれているので五位の位階があり、陸奥権守の経歴を有したことも推測できる。

 源頼義は天喜5(1057)年9月、陸奥守としての立場で朝廷に対し、安倍頼時を討ち取った旨を報告した。しかしこれは、頼義が衣川の関を突破して得た戦果ではなく、青森県地方の豪族・安倍富忠と頼時との戦いの結果であった(次回参照)。朝廷では頼義のこの報告をどのように評価すべきかが議論されたという。

 ○貞任に大敗

 この年の末、頼義の陸奥守の任期が終了し、朝廷は藤原良経(よしつね)(能書家として有名な権大納言・正二位藤原行成の息)を新任の陸奥守とした。ところが頼義は戦いを拡大する姿勢を見せ、11月には頼時を継いだ貞任らと黄海(きのみ)(藤沢町黄海)で戦ったが大敗している。この戦いでは、貞任は金(こん)為行(ためゆき)の河崎の柵を営としていた。数百人の死者を出す敗戦のなかで、頼義はわずかに6騎に守られて脱出し、九死に一生を得たというのは、この時のことである。

 新任の陸奥守・藤原良経は、この戦いのことを聞いて赴任を辞退し、朝廷は良経には別の官職を用意し、頼義を陸奥守に重任した。この段階での朝廷は、一旦(いったん)は頼義の後任の陸奥守を任命しており、なお頼義を陸奥にとどめて徹底的に安倍氏と戦わせ、安倍氏を滅亡させることを期待してはいないことがわかるだろう。

 【注】『陸奥話記』は新任の陸奥守を藤原良綱とするが、他の史料により良経が正しいとされている。

(東北歴史博物館館長・盛岡市出身、仙台市在住)

【写真=県文化振興事業団埋蔵文化財センターが行った発掘で、大溝などが見つかった河崎の柵擬定地(一関市川崎町)。防御施設の存在が明らかになった=2003年8月】


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