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27.源頼義の登場
北の産物、勢力強化狙う

 源頼義の陸奥守としての任期が終了する天喜4(1056)年まで、多賀国府側と安倍氏との間で緊張関係が高まったことは知られていない。頼義の権威の前に、安倍頼時はひたすら低姿勢だったからである。京都の朝廷が頼義を陸奥守に任命し、ついで鎮守府将軍も兼務させたのも、安倍氏が衣川の関を越えて多賀国府の領域に侵攻する姿勢をやわらげる効果を期待してのことであった。

 ○殺傷口実に

 朝廷や京都の貴族の関心は、砂金や馬、あるいは鷲(わし)の羽などの北方の産物が確保できるか否かにあった。安倍氏が実質的に鎮守府を掌握し、より北方の地域にも勢力を及ぼして、それらの産物を安定的に京都に送ることができる体制は、決して不都合なものではなかったのである。もっとも、安倍氏が直接にこれらの産物を京都に送ったのではなく、陸奥守や鎮守府将軍の手を介していた。彼らはこれらを摂関などの上流貴族に送り、さらに有利な官職を得る手がかりとしていたのである。

 頼義は陸奥守の任期終了にともない、兼務していた鎮守府将軍の務めを果たすために鎮守府に数十日滞在し、頼時は頼義一行を歓待した。『陸奥(むつ)話記(わき)』によれば安倍頼時は、駿馬(しゅんめ)、金宝の類を悉(ことごと)く頼義と、士卒に献上したという。

 頼義らはこのようなもてなしを受けた後、鎮守府から帰途についた。『陸奥話記』は一行が阿久利(あくり)河(がわ)のほとりで野営した際、権守(ごんのかみ)藤原説貞(ときさだ)の子、光貞・元貞らの陣に何者かが侵入し、人馬を殺傷するという事件が起きたと、伝える。頼義は犯人を頼時の子・貞任と断定して罪に問おうとした。

 この事件の真偽については、さまざまなことが考えられ、まったくのでっち上げである可能性もあながち否定できない。しかし、頼義は事件を口実に安倍氏に対して行動に出たことは確かである。「駿馬、金宝の類」のさらなる増額を要求したというのが、真相なのかもしれない。安倍氏は強くこれに反発し、戦いとなった。実質的には、前九年の合戦はここから始まる。怒った頼時は衣川の関を閉ざし、頼義の軍は衣川の関を突破できなかった。頼義は安倍氏の実力を肌で感じることになったのである。

 朝廷はすでに、藤原良(よし)経(つね)を新任の陸奥守に任命していた。良経は能書家(三蹟(さんせき)のひとり)としても知られる権大納言・正二位藤原行成の息で、武人ではない。このような人物を陸奥守に任命したことからも、朝廷には安倍氏を打倒する意思がなかったことがわかる。しかし戦いが始まったことを知った良経は、陸奥守就任を辞退した。そこで、良経には別のポストを与えて頼義を陸奥守に再任し、頼義の要請によって頼義に対して頼時を追討するようにという命令を発した。頼義の軍事行動は事後承認されたのである。源氏と摂関家とのパイプがものを言ったのであろう。

 ○利用を優先

 当時東国は、坂東平氏と藤原秀郷(ひでさと)を祖とする秀郷流藤原氏が優勢であり、源氏は南関東の一部に勢力があったとはいえ、全体としては坂東平氏や秀郷流平泉藤原氏に後れを取っていた。頼義は、金や馬などの東北北部の産物、そして交易によってもたらされる北方の産物をおさえて、源氏の勢力強化をねらったのであろう。

 頼義の陣営には源氏の将兵のほかに、多賀国府の在庁官人も多く含まれていた。ただし、多賀国府の在庁官人たちには、坂東平氏や秀郷流藤原氏に属する者も多かったし、そのなかには藤原経清のように、積極的に安倍氏とつながりを求め、利益を得ていた者も少なくなかったはずである。多賀国府の在庁官人のすべてが、頼義に積極的に協力したとは思われないのである。

 頼義による軍事行動は、金や馬、さらには北方の産物を安定的に貢納することを条件に、衣川の関以北において安倍氏が相対的にではあるが自由に勢力をふるうことを容認していた体制が崩壊することにつながる。この体制はそれなりに機能していたから、京都の側としてはこの体制の全面的な崩壊は、必ずしも望ましいことではなかった。前九年の合戦後には、清原氏が胆沢鎮守府の機構を全面的に掌握し、北東北全域を勢力下におさめることになるが、それもひとつには、京都側が安倍氏の時代の体制を維持することを最優先させたからなのであろう。

 【注】頼義の後任の陸奥守を藤原義綱とする史料もある。阿久利河を「あくとがわ」と読む説もある。

(東北歴史博物館館長・盛岡市出身、仙台市在住)

【写真=阿久利河の候補地の一つ。宮城県栗原市志波姫】


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