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26.前九年の合戦発端
地方と中央勢力の衝突

 前九年の合戦は、源氏の立場からすれば、後三年の合戦とともに、後に天下を握る源氏が大をなすにいたった出発点となった記念すべき出来事であった。これは一面の真実である。しかし、源氏の立場を離れて事件を見るならば、前九年の合戦は、胆沢鎮守府を掌握して辺境地方政権を形成しつつあった安倍氏が多賀国府管掌下の京都の中央政権の領域を侵犯したことから起きた事件であり、この目で見ると、前九年の合戦もこれまでとはちがった面がさまざまに見えてくる。

 ○安倍氏南へ

 前九年の合戦の基本史料の『陸奥(むつ)話記(わき)』の冒頭には、安倍氏の勢力は安倍頼時(はじめは頼良といった)の祖父の時代には奥六郡を覆うようになっていたこと、頼時の時代になると勢力はさらに衣川の外まで及ぶようになり、租税を納めず力役(りきえき)も務めなかったことが述べられている。

 そこで陸奥守の藤原登任(なりとう)は、秋田城介(じょうのすけ)に任命されたばかりの平重成(しげなり)とともに、鬼(おに)功部(こうべ)(宮城県大崎市鳴子温泉鬼首(おにこうべ))において安倍氏と一戦を交えたのであるが、陸奥守の軍は大敗した。安倍氏の勢力は、大崎市あたりにまで及んでいたのかもしれない。

 安倍氏が、衣川の関を南に越えて多賀国府の管轄範囲にまで勢力を伸ばすようになっていたことは、事件が本格的に展開するようになった段階の記述ではあるが、磐井郡内に河崎の柵、安倍宗任の叔父・僧良昭(りょうしょう)の小松柵、石坂柵などがあったこと、気仙郡司の金(こん)氏一族のなかには、安倍氏側に属して戦った者も多いことなどからも知られる(第8回参照)。そして安倍氏は、衣川の関より南の諸郡の住民が、本来であれば多賀国府に納入すべき租税を徴収し、国府が発行した公式の請求書(陸奥国の公印が捺(お)してあることから「赤符(せきふ)」といった)には従わず、藤原経清が発行する請求書(公印がないので「白符(はくふ)」といった)に従うように命じ、源頼義はこれを制することができなかったともいう。

 安倍氏は実質的に鎮守府を掌握し、相対的にではあるが京都の中央政権からは自立して、辺境地方政権を樹立する傾向をみせていた。一方、多賀国府は安倍氏勢力と直接に向き合う京都の中央政権側の最前線という性格を有するようになっていたのである。

 前九年の合戦の発端の際、陸奥守・藤原登任とともに安倍氏と戦った平重成は、多賀国府の在庁官人の雄であった余五将軍・平維茂(これもち)の子であり、維茂が有していた軍事力を継承していたと考えられる。安倍氏の動きに対する中央政権の対応は、当初は多賀国府の有力在庁官人の力を利用しようとするものだったのである。

 ○絶大な権威

 しかし安倍氏は、陸奥守藤原登任が考えた以上に強力であった。鬼首(鬼功部)の戦いの結果は、京都の中央政権にとって大きな衝撃であった。安倍氏が勝に乗じて、さらに多賀国府の管轄領域に浸透するようになる状況だけは阻止しなければならない。そのためには、従前の陸奥国司や多賀国府の有力在庁官人以上に、安倍氏に対して強く圧力をかけ得るような人材を登用する必要があった。そのような条件にあてはまる人物として浮上したのが源頼義であった。頼義は永承6(1051)年に陸奥守に任ぜられ、多賀国府に赴任した。ただし、この段階で源頼義に安倍氏追討の命令が出ていたかどうかは確かではない。

 頼義が陸奥守として赴任した早々の永承7年5月、京都では一条天皇の中宮。後一条・後朱雀天皇の母、上東門院彰子(道長の娘)の病による大赦が行われ、安倍氏の罪も大赦の対象となった。頼義が陸奥守として赴任したことにより、安倍氏が恭順(きょうじゅん)の姿勢をとったからであろう。その後、頼義は鎮守府将軍も兼務することになった。安倍氏の首領・頼良(よりよし)は、名前が頼義と同音であることをはばかって頼時(よりとき)と改名するなど、一層の低姿勢ぶりを示した。安倍頼時は鎮守府将軍・源頼義の代官という立場だったのであろう。

 頼義のように京都において強固な基盤を有し、摂関家や朝廷と深く結びついて国家の治安維持にあたる「都の武者」(中央軍事貴族)は、地方の武士からは貴種と見なされる存在で、その権威は絶大であり、京都が頼義を陸奥守に任命した効果は絶大であった。この段階での京都は、安倍氏を滅亡させることなどは考えてもいなかったのである。

 【注】鬼功部は『陸奥話記』の原文には鬼切部とある。藤原登任の妻は平重成の叔母である。重成は秋田城介の立場で秋田方面から兵を進めた可能性もある。

(東北歴史博物館館長・盛岡市出身、仙台市在住)

【写真=陸奥守の軍が、安倍氏によって大敗した合戦場といわれる宮城県・鳴子温泉鬼首】


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