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25.衣川の関
中央政権と攻防の砦か

 胆沢鎮守府と多賀国府の管轄領域の境に置かれていたのが衣川の関(衣の関)である。

 平安時代中期、衣川の関の名は良く知られており、清少納言の『枕草子』の全国の有名な関を列挙した章段(第111段)にも、逢坂(おうさか)の関、須磨の関、白河の関などと並んで衣の関があげられている。また、藤原道長と同時代の著名な歌人、藤原実方(さねかた)が陸奥(むつの)守(かみ)となって多賀城に赴任した時に実方と同行した、やはり歌人として知られていた源重之(しげゆき)は、衣川の関の長(をさ)が老いてしまったのを見て「昔見し 関守(せきもり)見れば 老ひにけり 年のゆくをば えやはとどめぬ」(『夫木和歌抄』)と詠んでいる。

 関は通常は国境に置かれるものであるが、衣川の関は陸奥国のまっただなかにある。これは関のありかたとしては異例であるが、鎮守府と多賀国府の管轄領域はそれぞれ国に准(じゅん)ずる扱いであったことを反映しているのである。

 ○郡の境界上

 衣川の関の位置は、厳密にはわからない。しかし、おおまかには現在の奥州市衣川区と平泉町の境となっている衣川の流れに近い所、すなわち当時の胆沢郡と磐井郡の境界上であったにちがいない。ただし、当時の郡境は現在のように厳密には定められていなかったかもしれないし、関には人や物の通関をチェックする施設だけではなく、関守の宿舎や、関を守る兵士の駐屯施設など、さまざまな施設が付随していたであろうから、中尊寺のある丘陵上なども含む部分が、広義の衣川の関だったと考えたほうが良いかもしれない。
 鎮守府は、もともとは朝廷が蝦夷(えみし)の地域を支配するために置いたものである。ところが、安倍氏が実質的に鎮守府を掌握するようになったことから、鎮守府の性格は大きく変質し、蝦夷と見なされていた安倍氏の権力拠点となった。これにより、衣川の関の性格も変貌(へんぼう)し、京都の中央政権の支配が強く及ぶ地域と、なかばは中央政権の力が及ばない蝦夷の世界との間を隔てる関門となった。そして最後には、安倍氏や清原氏が中央政権の出先である多賀国府側の攻撃を防ぐ砦(とりで)としての役目をになうことになったと考えられる。

 これをシルクロードの世界に例えるならば、衣川の関は敦(とん)煌(こう)西郊の陽(よう)関(かん)や玉(ぎょく)門関(もんかん)に相当するということもできる。盛唐(せいとう)の詩人・王維(おうい)は「西のかた陽関を出づれば故人(知己)なからん」(ここを越えればもう知っている人に会うことはないだろう)と詠んでいる。陽関・玉門関のかなたは、もはや漢民族の世界ではなく、胡人の世界であった。明代には、敦煌の東方にあたる嘉峪(かよく)関(かん)がその役目をになっている。

 北京郊外の万里の長城線上にある居庸(きょよう)関(かん)、あるいは山海(さんかい)関(かん)などもある。居庸関は北京からモンゴルに入る要路上に置かれたもの、山海関は万里の長城の東の基点で、華北と中国東北部の境界上の要衝である。シルクロードや北京に近い中国のこれらの関は、いずれもほぼ北緯40度付近に位置している。興味深いことには、衣川の関の位置もほぼこれらと同じ緯度上にある。

 ○一定の自治

 安倍氏が掌握する衣川の関以北の地は、安倍氏が京都の中央政権の権威を大きく損なうような行動に出ないかぎり、暗黙のうちに一定程度の自治が認められていたのであろう。具体的には、一定量の砂金、馬、あるいは北方からもたらされる鷲(わし)や鷹(たか)の羽根、海獣の皮などを陸奥守に提供すること、多賀国府の官人、あるいは名目的に任命される鎮守府の官人が胆沢鎮守府管内で行う交易活動を妨害しないこと、などだったと思われる。

 関の周辺は、シルクロードの場合でも、国境の雰囲気がただよう緊張感に満ちた場であったが、一方では漢人・胡人が入り交じって日常的には交易活動を展開する場でもあった。後に、平泉藤原氏が東北の都として平泉の地を選ぶことになるのも、平泉周辺のこのような歴史を背景とした選択だったのである。

(東北歴史博物館館長・盛岡市出身、仙台市在住)

【写真=衣川の流れと関山(かんざん)丘陵】


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