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24.秋田城・雄勝城
清原氏、徐々に勢力拡大

 平安時代の陸奥(むつ)国で多賀城の陸奥国府と胆沢城の鎮守府というふたつの政治・軍事の中心が並び立っていたように、出羽(でわ)国でも国府と秋田城・雄勝(おがち)城という複数の政治・軍事の中心が並存していた。

 平安時代の出羽国府の遺跡は、山形県酒田市城輪(きのわ)にあり、地名にちなんで城輪(きのわの)柵(さく)跡と呼ばれている。

 ○胆沢と連携

 秋田城の起源は、天平5(733)年に出羽柵が荘内地方から秋田村高清水岡に遷(うつ)されたことである。秋田城跡は秋田市高清水丘陵上にある。雄勝城の造営は、天平9(737)年に企画されたものの、雄勝村の住民の協力が得られなかったために後日の課題とされ、ようやく天平宝字3(759)年に造営された。雄勝城跡は秋田県大仙(だいせん)市(旧・仙北町)払田(ほった)にあり、遺跡のある地名によって払田(ほったの)柵(さく)と呼ばれている。 

 秋田城は雄物川の河口に位置し、秋田平野を中心とする地域の支配とともに、日本海航路による北方の蝦夷(えみし)との交流・接触の窓口となった。秋田城の責任者は出羽国の次官(出羽(でわの)介(すけ))がつとめることになっており、鎮秋田城(国)司といわれ、後には秋田城介ともいわれるようになった。

 雄勝城は仙北地方の支配にあたるとともに、創建段階では岩手県の北上川流域の蝦夷勢力に対して側面から圧力をかける意味もあり、胆沢鎮守府成立後も鎮守府と連携することもあった。

 秋田城の責任者は原則としては出羽介であったから、秋田城は雄勝城よりも上位にあった。雄勝城の責任者としては、出羽権掾(ごんのじょう)(掾は国司の三等官)が雄勝城城司であった例が知られている。

 ただし、胆沢鎮守府・雄勝城・秋田城は、陸奥国と出羽国の枠を超え、連携して事にあたることがあり、元慶の乱の時には、小野春風(はるかぜ)を鎮守将軍に任命して陸奥権介(ごんのすけ)の坂上好蔭(よしかげ)とともに乱の鎮定のために出羽に赴かせ、鎮守府の実務は前将軍の安倍比高(これたか)が行うことを命じている。

 秋田城や雄勝城も、多賀城や胆沢城と同じく、10世紀末までには政庁を中心に、その周囲に実務的な官衙(かんが)(役所)を配置する古代的な姿が消滅する。この時期から、秋田城や雄勝城でも在庁官人が活躍するようになるのであろう。

 前九年の合戦の最終場面で、源頼義は出羽仙北の俘囚(ふしゅう)主の清原光頼と舎弟武則に援軍を要請した。出羽仙北の俘囚主と記される清原氏は、雄勝城の在庁官人だったと思われる。

 ○辺境の政権

 ただし、前九年の合戦に参陣した清原氏の主要人物の名を見ると、清原武則の甥(おい)の橘貞頼の字は志万(しまの)太郎(たろう)であり、志万(しま)は男鹿島(男鹿半島)のことであろうから、清原氏一族が秋田城とは縁がなかったわけではないであろう。清原氏は、出羽国北部で仙北地方に限定するのではなく、より広範囲にわたって力をふるっていたと考えて良さそうである。

 雄勝城も、蝦夷の地域を治める機構から、蝦夷とみなされていた清原氏の勢力基盤へと変質していた。安倍氏が陸奥国北部で胆沢鎮守府を拠点として辺境地方政権を誕生させていたころ、出羽北部では、主として雄勝城を拠点とする、清原氏によるもう一つの辺境地方政権が出現していたのである。

 11世紀における秋田城介は、長和4(1015)年に(某姓)奉好(ともよし)という人物の在任が確認(『御堂関白記』)された後は、前九年の合戦の発端時の永承5(1050)年に平重成が任命されるまで、在任例を確認できない。この時期には実質的には清原氏が、雄勝城に加えて秋田城の実権も掌握していたのかもしれない。

 奥羽山脈をはさんで並び立っていた安倍氏と清原氏による辺境地方政権は、兄弟のような存在だったといえるかもしれない。

 【注】奈良時代には一時、秋田城に出羽国府が置かれていたとする説もある。また、創建時の雄勝城は、払田柵とは別の地にあったとする説もある。

(東北歴史博物館館長・盛岡市出身、仙台市在住)

【写真=雄勝城跡(払田柵)から奥羽山脈を望む。峠を越えると和賀川流域に出る】


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