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23.胆沢鎮守府
政治・軍事の中心に並ぶ

 奈良時代には、東北地方の政治・軍事の要は多賀城であった。しかし平安時代初期に坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて盛岡市以南の地を朝廷の直轄支配地に組み入れると、多賀城を東北地方支配の要とする体制にも修正が加えられることになった。

 ○独自の任務

 最大の修正点は、鎮守府を胆沢城に遷(うつ)したことである。はじめのうちこそは、鎮守府将軍は国司の介(すけ)(次官)が兼ねるなど、鎮守府は多賀城に置かれている国府の出先扱いであったが、徐々に鎮守府は国府と同格に近い役所に変貌(へんぼう)していったのである。こうして、陸奥国内には多賀城の国府と、胆沢城の鎮守府との二つの政治・軍事の中心が並びたつことになったのである。鎮守府が管轄したのは胆沢郡以北であり、国府が直接に管轄する領域は、磐井郡・気仙郡以南であった。

 これによって、多賀城の役割も大きく変化した。鎮守府は胆沢郡以北の地域を管掌し、かつ朝廷の直轄支配の外の、盛岡市以北の地域の住民に対する窓口となるなどの独自の任務をもつことになったため、多賀城が蝦夷(えみし)と直接にかかわりをもつ割合が小さくなったのである。

 衣川の関は国府と鎮守府が管轄する領域の境界に置かれた関である。関は、通常は国と国の境に置かれるのが常態である。文献上から、衣川の関の存在が確認されるのは10世紀の後半からなので、その頃(ころ)には国府と鎮守府の管轄領域はそれぞれ一国に準ずる独立性を有するようになっていたことがわかる。

 10世紀後半を過ぎると、胆沢城は中心に政庁があり、その周囲に実務的な官衙(かんが)(役所)を配する古代的な姿が崩壊する。同じような変化は、多賀城でも見られる。多賀城の場合は、現在の多賀城市から仙台市の東部にかけての広い範囲に在庁官人の居館が点在する風景が想像できる。それが多賀国府である。胆沢鎮守府の場合も、多賀国府とほぼ同じような状況を考えて良いだろう。

 『今昔物語集』には、多賀国府の在庁官人の話がいくつかみられる。それらの話のひとつでは、多賀国府に勤務する在庁官人の筆頭は陸奥介で、大夫(たいふ)(五位の位階がある者)と呼ばれている。彼は多く国(くにの)庁(たち)に居り、あまり自分の家にはいない。家は国庁から百町ほど離れている。

 ○死闘重ねて

 関東地方から東北地方南部に勢力を築いていた坂東(ばんどう)平氏(へいし)の一員である平維茂(これもち)と、藤原秀郷(ひでさと)の流れを汲(く)む藤原諸任(もろとう)が、死闘を繰り返した話もある。この話では、両者は田畑のことで争いとなり、ついに牒(ちょう)(文書)を通わせて多賀城付近の原野で戦う約束をする。ところが、維茂の兵は3000人ばかりなのに対して、諸任は1000余人の兵しか動員できなかったので、兵力が劣る諸任は戦わずして常陸国に退いた。

 維茂は勝ち誇り、諸任が逆襲してくるとは思ってもみなかった。しかしやがて、諸任が大軍で襲来し、維茂は館を破られてほとんど全滅に近い負け戦となった。維茂は矢も尽きはて、かろうじて女装して逃れた。ようやく僅(わず)かばかりの郎党を集めることができ、沢胯(さわまた)(諸任のあざな)が勝ち誇って武装を解いて休息しているところを急襲して勝利し、沢胯の頚(くび)も取った。それから維茂は沢胯の家へ押し掛けて火を懸け、抵抗する者は射殺した、というのである。維茂は10世紀末から11世紀はじめの人物である。

 この時期の胆沢鎮守府の状況を伝える史料はほとんど知られていない。しかし、多賀国府の状況を胆沢鎮守府にあてはめると、胆沢鎮守府にも有力な在庁官人が育ってきていたと考えられる。胆沢鎮守府にも、さまざまな系統の在庁官人があったに相違ないが、その筆頭は安倍氏であった。前九年の合戦がはじまった段階の安倍氏の首領は、安倍頼時であるが、頼時は安大夫と呼ばれているので、五位の位階があったことがわかる。そして安倍氏は頼時の父、または祖父の段階ですでに胆沢鎮守府の在庁官人の筆頭だったらしいのである。

 安倍氏が在庁官人の筆頭として事実上胆沢鎮守府を掌握するようになったことにより、胆沢鎮守府の性格も大きく変貌することになるのである。

 【注】平維茂は、平貞盛の15番目の養子となり、鎮守府将軍にもなったことから「余五将軍」の名で知られる。

(東北歴史博物館館長・盛岡市出身、仙台市在住)

【写真=金ケ崎町にある鳥海柵(とのみのさく)跡。胆沢城跡にもほど近いこの柵は、安倍氏の最重要拠点であった】

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