21.移民
東北北部の構成複雑に

 7世紀半ばの大化の改新以来、朝廷は蝦夷(えみし)の地域を直轄支配地に組み入れる政策をとり、各地に城柵(じょうさく)を設置し、移民を送り込んだ。『日本書紀』に記載されている最古の城柵は、新潟平野に置かれた渟足柵(ぬたりのさく)と新潟県北部に置かれた磐船柵(いわふねのさく)であるが、これらの城柵には北陸地方一帯や信濃(長野県)から移民が送られたことが記されている。また、奈良時代の初期にも、数百戸から千戸もの移民が東日本の各地から、陸奥や出羽に送られている。移民は柵戸(きのへ)と呼ばれた。

 ○開墾に従事

 多賀城など多くの城柵が造営された奈良時代の前半には、城柵に鎮兵(九州へ送られた防人(さきもり)の東北版で、関東・中部地方から送られた)を配備する方式が考えられた。それまでは、城柵に配備されていたのは、移民のなかで兵士に指定された者や、陸奥国内の軍団所属の兵士で、食料自弁の短期間の交代勤務であった。ところが、鎮兵の場合は長期にわたって城柵に駐屯することから食料調達の方法が課題となり、それまで以上に多数の移民を導入して、積極的に農地の開墾事業にあたらせることにした。

 しかし、鎮兵制度は逃亡者が続出するなど欠陥も多かったことから、鎮兵を減らして軍団兵の割合を増やしたり、鎮兵の出身地を東国から陸奥国に変更するなど、さまざまな改変があり、最終的には弘仁6(815)年に廃止されている。

 鎮兵制度の動揺を補完したのも、組織的な移民であった。雄勝城・桃生(ものお)城が造営されると大量の移民が導入されているが、その詳細を神護景雲元(767)年に造営された伊治城(宮城県栗原市)の場合について見ることにしよう。

 伊治城が造営されると早速に、関東地方や東北地方南部の住民に対する移住奨励の命令がくだされ、神護景雲3年には2500余人の移民が送られたという記事がある。この地域は宝亀11(780)年に勃発(ぼっぱつ)した伊治公(こりはりのきみ)呰麻呂(あざまろ)の乱で荒廃したが、延暦15(796)年には、相摸・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後等の国から9000人もの民が伊治城に遷(うつ)し置かれたという記事もある。これらの移民は、郡内の各地に分住させられたと思われる。『倭名(わみょう)類聚(るいじゅう)抄(しょう)』によれば、栗原郡には4つの郷があり、その1つは「会津郷」という名である。おそらく、会津地方からの移民によって開かれた郷なのであろう。

 胆沢城や志波城が造営された際にも、多数の移民が送られている。延暦21(802)年正月には駿河、甲斐、相摸、武蔵、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野等の国の浪人4000人を発して陸奥国胆沢城に配すようにとの命が発せられており、『倭名類聚抄』には、胆沢郡の郷名として「白河郷」「下野郷」「上総郷」が、江刺郡の郷名として「信濃郷」「甲斐郷」の名がある。

 『倭名類聚抄』に掲載されている最北の郡は胆沢郡と江刺郡なので、それ以北の地域の状況は、具体的に紹介することはできないが、志波城や徳丹城の周辺にも当然に移民が送りこまれた筈(はず)である。盛岡市の盛南開発に伴って発掘調査が行われている台太郎遺跡などからは、関東地方に類似する構造の竪穴住居跡がみつかっているという。

 ○災害逃れて

 政策的な移民とは別に、飢饉(ききん)などの災害や兵乱を逃れ、多賀城の管轄領域から胆沢鎮守府の管轄領域へ、あるいは陸奥国と出羽国の境を越えての大規模な人々の動きもあった。

 さらに、朝廷の直轄支配地の外にあたる岩手県北部・秋田県北部や青森県方面への大規模な移動さえもあった。元慶3(879)年に出羽国で勃発した元慶の乱の収拾にあたった藤原保則(やすのり)は、事件がおさまりかけた段階で、さらなる征討行動に出るようにとの朝廷の指令に対し、出羽国の住民の3分の1は、苛政(かせい)に耐えかねて奥地に逃亡したと述べ、住民の疲弊ぶりを訴えて、命令の再考を求めている。秋田県北部や津軽地方への住民の大量流出があったのであろう。

 東北北部における平安時代の住民構成は、かなりに複雑なものがあったのである。

 【注】『倭名類聚抄』は『倭名抄』ともいう。源順(みなもとの・したがう)著、平安初期、930年代成立とされている。一種の国語辞典で、「郡郷部」には全国の郡ごとに郷名が列挙されている。

【写真=盛岡市向中野・台太郎遺跡で出土した奈良・平安時代の竪穴住居跡の一部。遺構からは関東系土師器(はじき)も同時に見つかった=2004年7月】


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