20.未発の「征夷」
八戸周辺まで支配狙う

 宝亀11(780)年に勃発(ぼっぱつ)した伊治公(これはりのきみ)呰麻呂(あざまろ)の乱後、政府軍と蝦夷(えみし)側との対決はますます激しくなり、政府側は4度に及ぶ大規模な作戦を展開させることになった。

 乱直後の戦いでは数万人規模の政府軍が動員された。延暦8(789)年には5万の軍が衣川まで軍を進めたが、阿弖流為(あてるい)のひきいる蝦夷軍との戦いで官軍は大敗した。延暦13(794)年の戦では副将軍の坂上田村麻呂が10万の軍をひきいて蝦夷と戦ったが、決定的な成果は得られなかった。延暦20(801)年には征夷(せいい)大将軍の坂上田村麻呂が4万の軍をひきいて蝦夷と戦い、結局は阿弖流為らが降(くだ)って、長期にわたった蝦夷の抵抗も一段落し、田村麻呂は延暦21(802)年に胆沢城を、延暦22(803)年には志波城を築いている。

 ○政策の変更

 延暦24(805)年の年末に、朝廷では桓武天皇の面前で、藤原緒嗣(おつぐ)と菅野(すがのの)真道(まみち)の2人の高官が、天下の徳政について論じあった。緒嗣は、「現在天下の苦しみの大本は軍事(蝦夷との戦い)と造作(平安京の造営)であり、このふたつを停めることが、人民を安んずることになる」と主張、真道は強硬に異議を唱えたが、天皇が緒嗣の論を是(ぜ)とする裁断を下し、数万規模の大軍を投入しての、直轄支配領域を拡大する政策は放棄され、岩手県北部・秋田県北部・青森県域は平安時代末まで蝦夷の世界であり続けることになったのである。

 ただし、胆沢城・志波城を築いた段階では、大規模な戦いはこれで終わりだという認識はなく、延暦23(804)年のはじめには、第5次の「征夷」が計画され、あらためて坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、副将軍以下の幹部も任命された。4万人から5万人規模の大軍を組織する予定だったらしい。しかし、蝦夷に対する政策の変更があったために、この作戦は中止されたのである。

 ○2村を攻撃

 その後、弘仁2(811)年には、文屋(ふんやの)綿麻呂(わたまろ)による「征夷」が行われている。この作戦は、陸奥・出羽両国の兵合せて2万6000人を発して、爾薩體(にさったい)・幣伊(へい)の2村を攻めるというものだったが、当初案通りには実行されず、政府側に属していた蝦夷出身者の軍を動員して両村を攻撃させるにとどまった。この時には、政府寄りの立場だった邑良志閇(おらしべ)村は、食糧援助をしてくれるなら、自分たちが以前から敵対関係にあった爾薩體村を襲撃すると出羽国に申し入れている。爾薩体村は、二戸市・一戸町一帯、幣伊村は、爾薩体村と都母村の中間の、八戸市とその周辺で、後の上閉伊・下閉伊よりも北である可能性が高い。邑良志閇村は、爾薩体村などからあまり遠くない地とみられるので、あるいは浄法寺周辺かもしれない(第9回「爾薩体村と幣伊村」参照)。

 蝦夷に対する大規模な作戦の見直しが行われた直後に、あまり大規模とはいえないものの、このような軍事行動が計画されたのであるから、未発に終わった第5次「征夷」の対象地は爾薩体村・幣伊村方面であったにちがいない。政府側にたつ邑良志閇村の存在も考慮されていたであろう。この「征夷」が実現していれば、胆沢城や志波城に相当する、「爾薩体城」あるいは「幣伊城」とでもいうべき城柵の造営も予定されていたであろう。

 第5次「征夷」の拠点としては、志波城が想定されていたと思われる。また、八戸周辺にまで及ぶ、新しい朝廷の直轄支配地の政治・軍事の中心としては、地理的にも胆沢城よりも志波城がふさわしい。志波城は胆沢城よりも規模が大きく、多賀城に匹敵する(志波城は一辺840メートル、胆沢城は一辺668メートル、多賀城は一辺ほぼ1000メートルの不整方形)。これも、志波城が果たすはずだった役割の大きさと関係するのだろう。多賀城から岩手に遷(うつ)す予定の鎮守府も、はじめは志波城に置くつもりだったのかもしれない。胆沢鎮守府ならぬ、志波鎮守府が置かれる可能性もあったのである。

【写真=男神岩(左)と女神岩の下を流れる馬淵川。二戸市から一戸町にかけてこの一帯が、征夷の対象となった古代の爾薩體村とみられる】


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