2.清衡の変身
藤原名乗り陸奥国の主

 平泉藤原氏の初代清衡の実父は藤原経清(つねきよ)という武人であり、母は安倍貞任(さだとう)らの姉妹のひとりである。藤原経清は安倍氏の女性を妻としていた関係で、前九年の合戦では安倍氏がたで活躍し、それゆえに源頼義にひどく憎まれ、苦しみが長引くよう、故意に切れ味の鈍い刀で首を斬(き)られたと伝えられる人物である。

 深刻な対立

 源氏は、前九年の合戦の最終段階まで、どうしても衣川の関を突破して、安倍氏の本拠地に突入することができなかった。源頼義は苦境を切り抜けるために、安倍氏とならんで東北北部を東西に二分する大豪族・清原氏に援軍を要請した。清原氏は、長期にわたる安倍氏と源氏の戦いでは、どちらの側にも味方をせずに、状況を展望していたが、源氏の切なる懇望を受諾するという形で参戦した。清原氏が投入した兵力は一万、源氏の兵力は3000たらずであったという。

 清原氏が参戦してからわずかに1カ月ほどの間に、衣川の関は突破され、厨川の柵(さく)も落城して安倍氏は滅亡した。事件後に第一の功労者とされたのが、清原氏の総帥、清原武則で、彼は鎮守府将軍に任ぜられた。源氏は勝者の地位には着いたが、東北地方を源氏の勢力下に置くという、ひそかな目的は果たすことができなかったのである。それに対して、清原氏は安倍氏の拠点だった衣川の関以北の「奥六郡」の地域の支配を認められた。

 清衡の母は清原氏が安倍氏の後継者となったことを一身に体現する人物として、清原武則の子の清原武貞の妻に迎えられた。清衡は武貞を継父とすることになり、清原氏の御曹司のひとりとなったのである。

 清原氏の総帥の地位は、武則・武貞の後、武貞の長子の真衡(さねひら)へと受け継がれたが、真衡の時代に深刻な内部対立が発生した。真衡に権力が集中したためといわれ、一族の長老の吉彦(きみこの)秀武(ひでたけ)が真衡の弟にあたる清衡や家衡(清衡の同母弟)とともに、真衡に対抗する兵をあげたのである。後三年の合戦の発端である。

 両派がしのぎを削って争っている最中に、源義家が陸奥守として赴任した。義家は、今度こそ源氏の力を東北に植えつける好機と見たのであろう、清原氏内部の争いに積極的に介入した。義家はまず、真衡の陣営に加担したが、真衡が突然に死んでしまった。討死(うちじに)ではないらしい。すると今度は、真衡の後継者の地位をめぐって清衡と家衡が対立し、義家は清衡を援助した。家衡と叔父の武衡は横手市の金沢(かねざわの)柵(さく)にたてこもって頑強に抵抗したが、ついに敗れた。1087年のことである。

 源氏の思惑

 義家は朝廷に対し、自分の行動は清原氏の謀反を討伐したものと主張したが、朝廷は義家の言を認めず、かえって義家の陸奥守の地位を解任してしまった。このような経過をたどって清衡は、清原氏の嫡宗(ちゃくそう)としての地位を自分のものとし、真衡の権力を継承した。

 後三年の合戦は清原氏一族の内部分裂に端を発した事件であったから、最終的には清衡が主導権争いに勝ち残ったことになる。そして後三年の合戦が決着した段階での清衡は、まだ「藤原清衡」ではなく「清原清衡」だったはずである。清衡ははじめ江刺郡豊田(とよだの)館(たち)(江刺市)を拠点としていたが、やがて平泉に本拠地を移した。それは康和(こうわ)という年号(1099−1104)の時だという説が有力である。

 清衡が豊田館から平泉に移るまでには10年前後の年次を要している。この間に清衡は、名も父経清の姓を襲って藤原清衡と名乗ることができるようになり、いわば清原から藤原へと変身した。またこの間に、衣川の関以北の奥六郡の主から、白河の関以北の、多賀国府の管轄領域を含む東北全域に力を行使できる公的なよりどころを得ている。それが陸奥国全域の軍事警察権を統括する押領使(おうりょうし)の肩書だったといわれている。

 この2つの変身があってはじめて、新時代の東北の都・平泉開府が可能になったといえるだろう。

【写真=清衡が、平泉へ進出するまで拠点を構えていた豊田館があったとされる江刺市岩谷堂の豊田館跡】


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