19.伊治公呰麻呂の乱以後
桓武朝 威信かけ征夷へ

 秋田の雄物川中流域に雄勝城が造営されたのは天平宝字3(759)年内で、翌年正月には按察使(あぜち)兼鎮守将軍・藤原朝◆(あさかり)以下の関係者に対して論功行賞が行われた。雄勝城の造営作戦は、天平9(737)年に大野東人(あづまひと)によって実施されたものの、現地住民の協力が得られず失敗に終わり、その造営は先送りになっていたものである(第14回参照)。

 ○按察使殺害

 雄物川中・上流域と胆沢から志波にかけての地方との間には奥羽山脈があるが、両地域間には何本もの峠道が通じており、古くから相互間の往来があった。したがって、胆沢・志波地方の住民にとって雄勝城の完成は、いわば脇腹に刃が突きつけられたようなものであったにちがいない。

 雄勝城と同時進行の形で、天平宝字3(759)年内には宮城県の海岸部(海道(かいどう))には桃生(ものお)城(石巻市北部)も完成した。そして神護景雲元(767)年には、宮城県栗原地方(山道(さんどう))に伊治城が築かれたのである。岩手県方面に対する包囲網の完成といって良いだろう。

 志波に対する攻撃は、まず出羽側から行われた。雄勝城が拠点となったのであろう。しかし、宝亀7(776)年と宝亀8年の戦いは政府軍の敗退に終わっている。胆沢に対する攻撃は、宝亀7年に3000人の陸奥国の兵士をもって行われたとあるのが初見である。これらの戦いでは、栗原郡の長官に取り立てられていた伊治公(これはりのきみ)呰麻呂(あざまろ)が、政府軍に属して活躍している。政府側はさらに、胆沢との戦いにそなえて覚●(かくべつ)城の造営を決定した。

 このような状況のもとで勃発(ぼっぱつ)したのが宝亀11(780)年3月の伊治公呰麻呂の乱なのである。事件は按察使の紀(きの)広純(ひろずみ)が覚●城造営地の視察に出向いた際に起きたとある。東北地方支配の最高責任者である按察使が殺害され、多賀城が焼き打ちされた伊治公呰麻呂の乱が各方面に与えた影響はきわめて大きかった。しきりに征討軍敗戦の報がもたらされるなかで、翌年の正月には伊勢の斎宮に美しい雲があらわれたとして天応と改元され、4月には光仁天皇は皇太子の山部(やまべ)親王への譲位が行われた。桓武天皇の時代のはじまりである。桓武天皇は、父天皇の権威と朝廷の威信を大きく損ねてしまった、蝦夷(えみし)との関係の打開を最大の課題として即位したのである。

 伊治公呰麻呂の乱により、政府側による胆沢・志波方面への作戦は、ふりだし以前に戻らざるを得なくなったといえよう。こうして、数万規模の軍を編成しての「征夷(せいい)」が行われることになったのである。桓武天皇の時代の大規模な軍事作戦は、延暦8(789)・同13・同20年の3回行われている。延暦8年の戦いでは、5万の軍が衣川まで軍を進めたが、政府軍と阿弖流為(あてるい)のひきいる蝦夷軍との戦いで政府軍が大敗したことは、よく知られている。

 ○中央の攻勢

 坂上田村麻呂が指揮をとるようになったのは延暦13年の戦いからで、この時は10万の軍が動員されたが、大きな成果はなく、4万の軍による延暦20年の戦いで、ようやく胆沢の阿弖流為らを降(くだ)すことができたのである。坂上田村麻呂は坂上苅田麻呂(かったまろ)の子であるが、苅田麻呂と道嶋嶋足(しまたり)とは行動を共にすることが多かった(第17回参照)。道嶋一族は牡鹿郡に基盤をもつ豪族で、陸奥国内に強い影響力を有していたから、田村麻呂の起用はそのあたりも考慮してのことであっただろう。延暦8年の戦いでも政府軍の幹部だった道嶋御楯(みたて)は、延暦23(804)年の「征夷」人事では、征夷大将軍の坂上田村麻呂を補佐する3人の副将軍の1人(他の2人は都の貴族)に抜擢(ばってき)されている。

 ただし延暦23年の「征夷」は実行にはいたらず、朝廷の直轄支配は結果的には雫石川の線まで北進して止まることになり、胆沢や志波は古代国家の支配が及んだ地とその外側の世界との境界の地域としての特色のある歴史を歩むことになったのである。

 【注】覚●城は造営が完成したかどうか確かではない。造営地については、岩手と宮城の県境付近とする説と、宮城県大崎市内とする説とがある。

【写真=実りの秋の胆沢平野。古代、胆沢の地は志波とともに国家支配の及んだ地域と、及ばなかった地域の境界としての歴史を歩んだ】

◆=「臈」の「月」が「けものへん」

●=「敝」の下に「魚」


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