18.伊治公呰麻呂の乱
朝廷側へ不信感募る

 多賀城が焼き打ちされたことで知られる伊治(これはりの)公(きみ)呰麻呂(あざまろ)の乱が勃発(ぼっぱつ)したのは宝亀11(780)年3月のことである。

 ○功績を評価

 呰麻呂は宮城県北・栗原地方の蝦夷(えみし)の族長である。この地域には乱の13年前にあたる神護景雲元(767)年に伊治城(栗原市城生野(じょうの))が造営され、同年中に伊治城を中心施設として栗原郡が置かれた。呰麻呂は、新設された栗原郡の長官(大領(たいりょう))に任命されたのである。呰麻呂は伊治城の造営にも、栗原郡を建てるにあたっても功績があると認められたからであろう。その後、呰麻呂は外従五位下を与えられている。呰麻呂は部下をひきいて胆沢や志波方面の蝦夷との戦いに加わり、功績があったのである。坂上田村麻呂の時代以前、朝廷は胆沢と志波を朝廷の直轄支配地に組み入れようとして、しばしば遠征軍を送っていたのである(第6回参照)。

 朝廷の信任も厚かった呰麻呂であるが、徐々に朝廷側に対する不信感が増大していった。時の東北支配の最高責任者であった按察使(あぜち)の紀(きの)広純(ひろずみ)は、伊治公呰麻呂や牡鹿(おしか)郡(石巻市周辺)大領の道嶋(みちしまの)大楯(おおだて)などをひき連れて多賀城から伊治城に出向いた。造営中の覚(かくべつ)城の状況を視察するためである。この機会をとらえ呰麻呂は広純と、呰麻呂を夷俘(いふ)であるという理由で常にあなどっていた大楯を伊治城に殺したのである。大楯は、伊治城造営で中心的な役割を果たした人物として特記されている道嶋三山(みやま)の同族である(第17回参照)。

 その後、呰麻呂は広純の部下の介(すけ)(次席の国司)大伴真綱(まつな)を呼び、わざわざ囲みの一角を開いて彼を出してやり、しかも多賀城まで護(まも)り送ったという。真綱は多賀城に帰りつくと、多賀城を反乱軍から守る手段を講ずることなく、掾(じょう)(国司の三等官)の石川浄足(きよたり)と共に逃げ去ってしまった。数日後、反乱軍は多賀城に押しよせ、倉庫の物を奪い、放火した。多賀城跡の発掘調査では、この事件の時の焼土、焼壁、焼瓦(が)が広範囲にみつかっている。多賀城は一時まったく機能を失ったことがわかる。

 ○城柵の造営

 朝廷が蝦夷の地域を直轄支配地とする流れは、親政府的な蝦夷の集団の住地に対する影響力を強めてゆき、その地域を政府側の直轄支配地に組みいれても大きな問題はないと判断すると、蝦夷や兵士、移民などを動員して城柵を設置し、城柵が完成するとそれを中心施設として郡を置き、移民を導入し、強硬派の蝦夷がいた時には彼らを他の地方へ強制移住させるのである。伊治城の造営と栗原郡の設置もほぼこの流れで行われた。

 伊治城造営直後の神護景雲3(769)年には2500人余りの農民を伊治村に置いた記録があり、伊治公呰麻呂の乱以後ではあるが、延暦15(796)年にも相摸、武蔵、上総、常陸、上野、下野、出羽、越後などの国々から9000人を伊治城に移している。

 蝦夷の反乱の多くは、城柵の造営に関連して起きている。多賀城が置かれた神亀元(724)年の直前にも、伊治公呰麻呂の乱と同じく按察使が殺される事件が起きている。天平9(737)年に雄勝城を建設するために大軍を送った際には、政府軍の雄勝入りが拒否されている。ただし、この時は政府側が雄勝への強行突入を見送ったため、戦いにまではいたらなかった(第14回参照)。

 宝亀5(774)年には、蝦夷が桃生(ものう)城を襲撃している。蝦夷は橋を焚(や)き道を塞(ふさ)いで往来を絶ち、桃生城の西郭を破り、鎮守の兵は蝦夷軍の勢いを支えることができなかったという。この当時、桃生城と伊治城とは陸奥国における朝廷直轄支配地の最前線の城柵と位置づけられており、2つの城柵の管轄下の地域には、大量の移民が送りこまれていた。桃生城襲撃は、伊治公呰麻呂の乱と同じ背景の出来事であり、伊治公呰麻呂の乱の前ぶれといえる事件であった。

 伊治城の次に予定されている、大規模な城柵を造営する予定地は胆沢と志波であった。阿弖流為(あてるい)らの戦いの直接の原因は、城柵の造営とその後にくる大量の移民の導入を目前にしての強い反発だったのである。

 【注】伊治はコレハリと読む。コレハリは現地語の地名で、それに漢字をあてた際、当初は伊治と記したが、読みにくいからであろうか、間もなくコレハリと発音が類似する栗原という文字をあてるようになったものである。

【写真=多賀城政庁復元模型(東北歴史博物館) 奈良時代後半。伊治公呰麻呂の乱により、多賀城の政庁も完全に焼失した】


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