17.坂上苅田麻呂と道嶋嶋足
武勇で功成し一族台頭

 天平宝字8(764)年9月、僧道鏡の栄進などで追い詰められた藤原朝(あさかり)の父・仲麻呂は、クーデターを企てた。この時、孝謙上皇は武名が高かった授刀(じゅとうの)少尉(しょうい)・坂上忌寸(いみき)苅田(かった)麻呂(まろ)と将曹(しょうそう)・牡鹿連(おしかのむらじ)嶋足(しまたり)らを遣わし、仲麻呂に擁立されていた淳仁(じゅんにん)天皇のもとにあった鈴印(れいいん)を奪回しようとし、これを迎え撃った仲麻呂の子・久須麻呂は両名に射殺されてしまった。この出来事が、結局は仲麻呂らが琵琶湖畔で敗死することにつながったのである。

 苅田麻呂と嶋足の功績は高く評価され、両名はともに勳二等を授けられ、苅田麻呂は大忌寸(おおいみき)・嶋足は宿祢(すくね)の姓(かばね)を賜(たまわ)った。苅田麻呂はその後も主として中央での武官の道を歩んだが、宝亀元(770)年には陸奥(むつ)鎮守将軍になっており、従三位まで昇進し、娘の又子は桓武天皇の後宮に入るなど、天皇の信任も厚かった。苅田麻呂の子が坂上田村麻呂である。坂上田村麻呂が阿弖流為(あてるい)らと戦い、胆沢城・志波城を築くことになる伏線は、仲麻呂の事件における苅田麻呂の活躍にあったのである。

 ○異例の出世

 嶋足は、もとの姓が牡鹿であることからもわかるように、陸奥国牡鹿郡の出身である。彼も中央で武官として出世し、下総(しもふさ)守・播磨(はりま)守なども歴任し、位階も正四位上まで昇進した。地方出身者としては異例の出世である。当時、天皇側近の警護にあたる中衛府(ちゅうえふ)に属する舎人(とねり)は、主として地方の郡司の子弟から選ばれることになっており、嶋足も舎人として上京し、武勇によって幹部に昇進していたものであろう。

 天平勝宝9(757)年に反藤原仲麻呂のクーデター計画が実行されようとした時(橘奈良麻呂の変)に、クーデター派は、仲麻呂派の数名の要人・武人を飲酒に誘い、決起に邪魔が入らないようにしたが、それに誘われたなかに苅田麻呂と嶋足も含まれていた。この話から、嶋足が武勇で名を得ていたこと、仲麻呂からも信任を得ていたこともわかる。

 ○もとは移民

 牡鹿連を姓としていた嶋足の一族は、以前には丸子(まるこ)という姓で、もともとは関東地方からの移民であったと思われる。嶋足が道嶋宿禰の姓を与えられたことで、一族も道嶋を名乗ることとなった。道嶋一族の主要な人物には次のような例がある。

 神護景雲元(767)年には、陸奥少掾(しょうじょう)(国司の三等官)となった道嶋三山(みやま)は、伊治城(栗原市)を造営の中心人物で、その功績により中央豪族並の従五位下を与えられ、陸奥国内の神祇(じんぎ)関係を統括する陸奥国の国(くにの)造(みやつこ)の職につき、少掾から大掾に昇進し、鎮守府の幹部である軍監(ぐんげん)も兼任し、神護景雲3(769)年には陸奥員外介(いんがいのすけ)(定員外の次官)にまで昇りつめた。

 道嶋大楯(おおだて)は、舎人として都に出ていた経歴があり、後に牡鹿郡の長官(大領(たいりょう))となっている。多賀城が焼き打ちされた、宝亀11(780)年の伊治公呰麻呂の乱の主人公・伊治公(これはりのきみ)呰麻呂(あざまろ)は、反乱に立ち上がった最初に、按察使(あぜち)の紀広純と大楯を殺している。大楯は常に、呰麻呂が蝦夷(えみし)であるという理由で呰麻呂をあなどり嘲(あざけ)っており、呰麻呂はそれを恨んでいたという。

 胆沢の蝦夷との戦いの武将のひとり、道嶋御楯は、最終的には外従五位下・鎮守副将軍に昇っている。御楯はまた、先には嶋足が任命された、陸奥国大国造にも就任している。

 陸奥国府や鎮守府には、現地の豪族がさまざまな形でかかわっていたのである。道嶋一族の人々はその好例といえるだろう。多賀城から胆沢城に鎮守府が遷(うつ)された以後も、道嶋一族と同じように現地の豪族がかかわりを持っていた。そのような豪族の中から、やがて安倍氏が台頭するのである。

【写真=石巻市北上町の北上川河口部。中央砂浜の外、白波が立っているところが太平洋。道嶋一族は石巻市から東松島市にかけての地域に勢力を築いた、移民系の豪族であったと思われる】


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