16.藤原恵美朝臣朝狩
東北の支配体制固める

 藤原恵美朝臣朝★は「ふじわらのえみのあそんあさかり」と読む。多賀城碑の文面には、天平宝字6(762)年に多賀城が朝★によって大々的に改造されたことが記されている。

 朝★の父は藤原仲麻呂である。仲麻呂は藤原鎌足(かまたり)の曾孫、不比等(ふひと)の孫、武智麻呂(むちまろ)の子で、光明(こうみょう)皇后は仲麻呂の叔母にあたる。奈良時代の初期、不比等の4人の男子はそれぞれ高位高官にのぼり、藤原氏の権勢はゆるぎのないもののように見えたが、全国を襲った疫病のため天平9(737)年には藤原氏の四卿(きょう)が相次いで没するという、藤原氏の歴史にとっては最大の危機をむかえた。政権は藤原氏を離れて橘(たちばなの)諸兄(もろえ)に帰し、これに不満をいだいた藤原氏一門の広嗣(ひろつぐ)が大宰府において反乱を企てて討たれるということまであった(第14回参照)。

 藤原氏を救ったのが光明皇后である。天平感宝元(749)年、病弱だった聖武(しょうむ)天皇は譲位し、聖武天皇と光明皇后を両親とする阿倍(あべ)内親王が即位して孝謙(こうけん)天皇となったが、政治の実権は光明皇太后(聖武天皇譲位により皇太后)が把握し、藤原仲麻呂は光明皇太后の執政機関として設けられた紫微(しび)中台(ちゅうだい)の長官に任じられ、実力者としての地位を築いた。

 仲麻呂の権勢に対しては橘諸兄の子、奈良麻呂が大伴(おおとも)氏や佐伯(さえき)氏の有力人物とともにクーデターの機をうかがっており、天平宝字元(757)年にはついに橘奈良麻呂の変と呼ばれる事件が勃発(ぼっぱつ)した。この事件では、陸奥(むつ)鎮守将軍兼按察使(あぜち)に任じられた大伴古麻呂(こまろ)が赴任の途中美濃国(岐阜県)不破(ふわの)関(せき)で病と称して逗留(とうりゅう)し、関を占拠することなどが計画されていた。このころ、反仲麻呂派の佐伯全成(またなり)は陸奥(むつの)守(かみ)に任命され都から遠ざけられていた。

 ○強硬な対策

 事件直後、仲麻呂の三男の朝★は、佐伯全成に代わる陸奥守に任命されて任地に下り、ここでみずから反仲麻呂派の佐伯全成の勘問(おそらく拷問)を行い、全成はついに10年以上も前からの反仲麻呂派の動きをすべて自白した後、自経(じけい)(自分で縊死(いし))したという。

 橘奈良麻呂の変を強硬策でおさえた仲麻呂は、天平宝字2(758)年には右大臣(この頃(ころ)は仲麻呂の好みにより、官名も中国風に改められており、正式には太保(たいほ)といった。760年には太政大臣=太師(たいし)=に昇進)となり、勅命によって藤原の姓に恵美(えみ)を加え、名も押勝(おしかつ)となった。こうして藤原朝臣仲麻呂は藤原恵美朝臣押勝となり、朝★も、藤原恵美朝臣朝★と名乗ることになる。

 朝★はその後しばらく東北地方支配の最高責任者としてさまざまな面で手腕をふるう。多賀城の大改修のほか、桃生(ものお)城(宮城県石巻市飯野)と雄勝(おかち)城(秋田県大仙市払田か)の造営、秋田城の改修も朝★による。雄勝城の造営は大野東人(あづまひと)の時代に計画されたが、実現にはいたらなかったもの、秋田城は東人の時代に造営されたものの、整備が不十分だったのであろう。雄勝城は岩手県地方の蝦夷(えみし)の動きを側面から牽制(けんせい)する役目も果たした。

 ○官制を整備

 やはり東人が基礎づくりを行ったが、組織としては不備があった鎮守府の官制を整備し、独立した機構としたのも朝★である。整備された鎮守府は、後に胆沢城に遷(うつ)し置かれ、「平泉への道」に重要な役割を果たすことになる。

 朝★は東人の後継者として、東北地方の支配体制を固めたのである。これら一連の動きは蝦夷を強く刺激した。桃生城の焼き打ち事件、按察使が殺され多賀城が襲撃される伊治(これはりの)公(きみ)呰麻呂(あざまろ)の乱、阿弖流為(あてるい)の登場などはすべて、朝★の時代に推進された政策の遺産である。しかし、朝★自身はその遺産を眼にすることができなかった。

 都では、僧道鏡の台頭によって、恵美押勝の権勢にかげりが見え始め、天平宝字8(764)年には反乱に追い込まれ、ついにはわずかに妻子数人と共に琵琶湖畔の船上で捕らえられ、首を刎(は)ねられた。この時、朝★も父や兄弟たちと運命を共にしたからである。

◇       ◇

 【注】「★」は「狩」と同じ文字である。

 ※★=臈の「月」が「けものへん」

【写真=多賀城政庁正殿。朝★の改造時に正殿の前面は石敷きの広場とされた】


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