13.多賀城以前
「東」地域に八つの国

 陸奥国(むつのくに)が置かれたのは、蘇我氏が滅亡した大化の改新(645年)から数年後のことと考えられている。厳密にいえば、最初は道奥(みちのおく)国という名で、しばらくして陸奥国と改められた。「みちのおく」が「みちのく」の語源である。「みちのおく」は、都から東方にむかう道の終点という意味である。

 都とその周辺部の外側には、都の雰囲気からはかけ離れた「ひな(鄙)」の地域がひろがっていた。柿本人麻呂は琵琶湖のほとりにあった天智天皇の大津宮の廃墟(はいきょ)を訪れた時、天皇は「天離(あまざか)るひなにはあれど、近江の国の、楽浪(さざなみ)の、大津宮」に都をお遷(うつ)しになったのだが、それはどのようなお考えだったのだろうか、と詠んでいる。滋賀県はもはや都の周辺の地域ではなく、鄙と理解されていたことがわかる。鄙のさらに彼方(かなた)が東(あづま)である。もともとは、中部地方から東の地域が「あづま」であったが、碓氷峠(長野・群馬の県境)・足柄峠(静岡・神奈川の県境)より東だけを「あづま」とする用法もあった。

 城柵を設置

 『常陸国風土記』には、大化の改新後に即位した孝徳天皇の末年に、足柄峠以東の「あづま」の地域に8つの国が置かれ、そのひとつが常陸国(茨城県)なのであると記されている。道奥国は、この時に置かれた8つの国のひとつだと考えられている。道奥国は、「あづま」の地域の最奥の国として出発したのである(注参照)。

 「あづま」のさらに奥は、朝廷の直接支配が及ばない蝦夷(えみし)の世界とみなされていた。当時の地方制度は、地域の最有力な豪族を国(くにの)造(みやつこ)に任命し、それぞれの地域の支配をゆだねるものであった(国造制)。国造の任命があったのは、日本海側では信濃川の河口部まで、太平洋側は阿武隈川の河口部までである。当時は、ここまでが朝廷の直接支配が及ぶ「あづま」で、新潟平野・仙台平野以北の地域は、蝦夷の世界だったのである。

 大化の改新後、体制を一新した朝廷は、蝦夷の地を支配領域に組み入れる政策を展開させ、その拠点として城柵(じょうさく)を設置した。城柵が設置されたのは新潟平野・仙台平野以北の蝦夷の地域に限られる。この時期に設置された城柵は、新潟県北部の渟足(ぬたりの)柵(さく)(新潟平野)・磐船(いわふねの)柵(さく)(村上市)、山形県の都岐(つき)沙羅(さらの)柵(さく)(庄内平野か)・優(うき)嗜曇(たみの)柵(さく)(米沢盆地)などがある。

 都と同様に

 仙台市郡山(こおりやま)遺跡は、近年の考古学的調査によって、名取柵ともいうべき太平洋側最古の城柵であることが判明した。郡山遺跡は当初は仙台平野とその周辺を管轄するものであったらしいが、日本最初の中国風の都城として藤原京が造営されると、藤原京のスタイルをもとに大々的に作り直され、郡山遺跡は陸奥国の政治の中心として、重要な役割を与えられることになった。

 この段階の郡山遺跡の中枢部には、飛鳥寺(奈良県明日香村)の西にある飛鳥石神遺跡で発掘された池とほぼ同じ構造の方形石組の池が存在する。石神遺跡の池の周囲では、都にのぼった蝦夷が、天皇に対する服属儀礼を行い、饗宴(きょうえん)も行われたことがわかっており、郡山遺跡でも、飛鳥と同様な儀礼が行われたのであろう。

 城柵が設置される際には、陸奥国南部や関東・中部地方から兵士が動員され、移民も導入され、城柵が管轄する地域の各所に配備された。もちろん、このようなことは蝦夷との間に緊張関係をもたらした。史料は少ないが、伊治(これはりの)公(きみ)呰(あざ)麻呂(まろ)の乱や阿弖(あて)流為(るい)の抵抗に類する事件は、この時期にも多発していたにちがいない。

 なお、道奥国の領域は、はじめは「あづま」の部分だけであった。しかし、城柵の設置によって蝦夷の世界の一部も朝廷の直轄支配下に入ることになると、「あづま」の最奥という意味の道奥の名称は、必ずしも完全には体を現すものではなくなった。道奥国から陸奥国への名称の変更は、この点と関係すると思われる。

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 【注】八ヶ国を坂東八国(相模・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野・常陸)と解釈する説もあるが、安房国は奈良時代になってから上総国から分立したもので、孝徳天皇の時代に置かれたものではなく、八ヶ国は安房を除いた七ヶ国と道奥としなければならない。

【写真=仙台市長町郡山遺跡から発掘された石組の池(仙台市教委提供)。国の文化審議会は5月19日、郡山遺跡を国の史跡に指定することが妥当だと答申した】


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