12.津軽と渡嶋
集団の対立抗争激しく

 878(元慶2)年3月に勃発(ぼっぱつ)した元慶(がんぎょう)の乱は、秋田県北部の12の蝦夷(えみし)の村が同盟して秋田城を焼き打ちした事件であった。朝廷は藤原保則(やすのり)を派遣し、保則は硬軟の策を使いわけながら事件の解決にあたり、さしもの大事件も年を越すことなく落着した(第11回参照)。

 保則は反乱軍の背後を牽制(けんせい)するため、津軽や北海道(史料には渡嶋(わたりしま)とある)の住人に働きかけている。事件後に、津軽や北海道の人々は、その功績を申し述べて賞賜を要求し、朝廷側もある程度はその要求を認めざるを得なかった。津軽や北海道の住人が反乱軍に攻撃をかけたことはなかったが、反乱軍に圧倒されつづけていた政府軍が優勢に転じた大きな理由は、北の人々が背後から反乱軍に圧力をかけたことだったのである。

 当初の段階では、朝廷側は津軽の人々の動向をつかみかねていた。津軽の人々が反乱軍に同調しているという見解と、そうではないとする相反する見方があったという。ただし、津軽の蝦夷の間では戦いは通常のことであり、きわめて勇猛であるという点には異論がなく、もし津軽の蝦夷が反乱軍に加担するようなことになれば、それに対抗することは難しく、事件のなりゆきも予断を許さないというのが、朝廷側の認識であった。

 記述消える

 津軽の住民は、複数の集団に分立し、互いに抗争しており、それ故(ゆえ)に常時軍事的な緊張状況にあったのであろう。このような状況は、津軽だけのことではなく、爾薩体(にさったい)村、幣伊(へい)村、都母(つも)村の3村同盟と邑良(おら)志閇(しへ)村の抗争の例でもわかるように(第9回参照)、東北北部では通有のことであった。そして、北海道の一部も、確実にその連鎖のなかにあった。保則が津軽だけではなく北海道の住民に対しても、反乱軍へ圧力をかける行動を期待することができたのは、そのためである。

 855(斉衡2)年には陸奥国の奥地の俘囚(ふしゅう)が互いに殺傷しあったため、非常に備えるために援兵2000人を発し、近くの城の兵士1000人を選んで危急に備えたという。また、875(貞観17)年には北海道の住民が80艘(そう)の水軍で、秋田、飽(あく)海(み)両郡に押し寄せたことがあった。893(寛平5)年には北海道と東北北部の住民が戦闘をしようとしているので、警備を厳重にするようにとの命令が出されている。

 これらの記録から、東北地方北部から北海道にかけての地域で、集団相互間の対立抗争が激しくなっていたことがわかるであろう。抗争は、集落間の小競り合いなどというものではなく、かなりの規模のものだったようである。

 歴史書によって、東北北部から北海道の住民の動きを年表にまとめてみると、集団間の対立抗争に関する記述は9世紀後半で消え、北日本の激動の時代はおさまったかのように見える。しかし、本当にこのように見て良いかどうかは、9世紀後半までのことは朝廷が自ら編纂(へんさん)した歴史書に記されているが、それ以後の歴史は主に貴族の日記に頼るほかはないという事情を考慮する必要があった。

 防御性集落

 朝廷が編纂した歴史書には、京都から遠く離れた北日本のことでも、大きな出来事は記されている。ところが、貴族の日記には、彼らの生活に直接の関係がないことは記されない。そのために、北日本の動乱は、まるごと文字による歴史から消えてしまい、11世紀の前九年の合戦や後三年の合戦は、長い間格別のことがなかった北日本に唐突におきた事件だという印象を与えていたのである。

 最近の考古学研究により、盛岡市・秋田市以北、少なくとも道南までの北日本には、堀や土塁で集落を囲んだり、集落を高い山の上に移し、自然の渓谷とその斜面を天然の堀とするなど、さまざまな方法で敵の攻撃に備えた集落(防御性集落)が多数存在することが判明した。防御性集落の盛期は、10世紀後半から11世紀前半である。この時期の北日本は、9世紀にもまして抗争が激化していた。防御性集落が、北日本の激動の時代を現代によみがえらせてくれたのである。

 激動の時代のなかから、どのようにして安倍氏・清原氏や平泉藤原氏が台頭したのかが新しい問題として浮上してきたといえよう。

【写真=青森県五所川原市(旧市浦村)の十三湖。北日本海上交通の拠点遺跡として中世までさかのぼる十三湊遺跡がある。大化改新直後の、安倍比羅夫日本海遠征のころの伝承も残る。津軽蝦夷の拠点だったか】


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