11.元慶の乱
蝦夷が秋田城焼き打ち

 元慶の乱は、878(元慶2)年3月に秋田県北部の蝦夷(えみし)が秋田城駐在国司の苛政(かせい)を訴え、秋田城などを焼き打ちした事件である。朝廷は、出羽国のほか陸奥、上野、下野の諸国の兵士も動員して事態を打開しようとしたが、反乱軍は秋田河(雄物川)以北の地域を自分達(たち)の地とする要求を出すなど、一時はきわめて強力であった。

 蝦夷の村は、ほぼ郡に匹敵するか、またはそれよりもやや狭い範囲の複数の集落の集合体である。反乱軍は、秋田市以北から米代川流域にかけての12の村々の連合勢力であった。12の村の名と、その比定地は次の通りである。秋田城に近い地域の村が、比較的狭いようだが、これは大きい集団が分断された結果であろう。

 上津野(かづの)(鹿角市)、火内(ひない)(大館市)、榲(すぎ)淵(ふち)(北秋田市鷹巣・阿仁)、野代(のしろ)(能代市)、河北(かわきた)(山本郡三種町琴丘・森岳)、腋本(わきもと)(男鹿市脇本)、方(かた)口(ぐち)(三種町八竜地区浜口)、大河(おおかわ)(南秋田郡五城目町・八郎潟町)、堤(つつみ)(南秋田郡井川町)、姉(あね)刀(と)(五城目町)、方上(かたがみ)(潟上市昭和・天王)、焼(やけ)岡(おか)(秋田市金足)。

 国司の苛政

 平安時代には、朝廷は直轄(ちょっかつ)支配領域を拡大する政策はとられることがなかったので、出羽国では秋田郡が最北の郡で、秋田県北部は朝廷の直轄支配領域ではなかった。それにもかかわらず、反乱軍は国司の苛政を訴えたのである。そして、事件を解決するためにとくに京都から派遣された藤原保則(やすのり)もその点を認めた上で、さまざまな工作を行なっている。

 朝廷の直轄領域外の住民に対する苛政とはどのようなものだったのだろうか。直轄領域外の住民から重税を取り立てたということである筈(はず)がない。苛政の実態は、蝦夷に対して不公正な交易を強要したことであった。

 菅原道真(みちざね)の詩に「哭(こく)奥州(おうしゅう)藤(とう)使君(しくん)」(『菅家(かんけ)後集(こうしゅう)』)という作品がある。901(延喜元)年に亡くなった陸奥守・藤原滋実(しげざね)の死を悼んだものだが、滋実の下僚には財貨にいやしい者が多く、彼らは蝦夷との交易によって金、皮衣、鷹、馬などを入手し、それらを都に持ち帰って贈物とし、さらに有利な官を得ようとしていること、蝦夷との交易はうまく行けば利益が莫大であるが、交易におけるトラブルがもとで変乱となることがあること、などが述べられている。ちなみに、藤原滋実の父の興(おき)世(よ)は、元慶の乱の時の出羽守で、滋実も乱の時には父にしたがって出羽国におり、事件の収拾に一役買っている。

 交易品目には、アシカ(海獣)の皮、独●(どくかん)(山犬のような動物)の皮、砂金、昆布などもあった。秋田城や胆沢城の重要な任務には、交易によってこれらの北方の産物を入手することがあり、後に安倍氏や清原氏が力を得ることができた理由の一つに、交易を掌握し、その利益を独占したことがあげられるだろう。

 年内に収束

 これらと交換に蝦夷にわたった品物は、鉄製品、繊維製品、須恵器、米、酒、塩などであった。蝦夷の側でもこれらの品物はもはや必要欠くべからざるものになっていた。元慶の乱は、年を越すことがなく解決している。蝦夷がわもこれらの品目を長期にわたって入手できなければ、生活が成り立たないような状況だったことが、さしもの大乱が年内に収束した大きな理由であろう。

 ただし、徐々に12村の結束が緩んできたことも述べておく必要がある。朝廷側の分断策もあったのであろう。藤原保則が小野春風らの部下を反乱軍の拠点に派遣し、一方では秋田城司の苛政を認め、反乱軍のリーダーたちに対して、国府まで出頭するように求めると、数十人が小野春風に従い出羽の国府にやってきた。保則がそのなかに反乱軍の重要人物2人が含まれていないことを指摘すると、彼らはしばらくの猶予を請い、数日後に両名の首を献上してきた、という。

【写真=秋田市に復元整備されている秋田城外郭東門】

●=狩の「守」が「干」


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