10.栗原と志波
朝廷との関係に揺れる

 坂上田村麻呂以前、胆沢と志波の蝦夷(えみし)が北上川中流域の二大勢力であった。朝廷は早くから、さまざまに胆沢や志波に対して圧力をかけており、そのひとつが秋田県方面からの攻撃であったが(第6回参照)、宮城県北部の蝦夷の力を借りての攻勢も行われた。

 多賀城跡の南門内には日本三古碑のひとつ多賀城碑(天平宝字6=762=年・国指定重要文化財)が現存する。これには多賀城から蝦夷の国境までは120里(1里は500メートル弱)、すなわち60キロ程度だと記されている。奈良時代後半には、宮城県北部の栗原市方面はまだ蝦夷の世界だったことがわかる。

 この地域のリーダーが、伊治公(これはりのきみ)呰麻呂(あざまろ)(公は朝廷が蝦夷の族長に与えた称号)である。呰麻呂は、はじめは親朝廷派であり、神護景雲元(767)年に完成した伊治城(栗原市=旧築館町=城生野(じょうの))の造営にも協力的で、伊治城を中核施設として栗原郡が置かれると、呰麻呂はその長官(郡司)に任命されている。この時期、呰麻呂は、胆沢、志波方面の蝦夷との戦いにも出撃して戦功をあげており、それによって宝亀9(778)年には、蝦夷爵第二等(蝦夷専用の位階)から外(げの)従五位下(一般の地方豪族に与えられる位階)に昇っている。伊治公呰麻呂の評価はきわめて高かったのである。

 多賀城焼失

 ところがその直後、呰麻呂は反朝廷派に転じ、宝亀11(780)年3月には反乱にふみきった。多賀城が焼き打ちされた伊治公呰麻呂の乱の勃発(ぼっぱつ)である。発掘調査の結果、この事件によって、多賀城の主要部分はすべて焼け落ちたことが判明した。しばらくの間、多賀城はその機能を失ったにちがいない。この事件をきっかけに、朝廷側と蝦夷との対立は、ますます激しくなったのである。

 しばらくして、志波の蝦夷が親朝廷派に転じた。延暦11(792)年に、志波の蝦夷の胆沢公(いさわのきみ)阿奴志己(あぬしき)らが多賀城に使を遣わし、自分らは政府側につきたいのだが、伊治(これはり=くりはら)の蝦夷にさえぎられて目的を果たすことができない。ついては伊治村の蝦夷と戦ってでも目的を達したいと申し述べたというのである。多賀城は申し出を入れ、志波に物を与えている。伊治と志波とが戦った発端は、政府側の軍事行動に呰麻呂らが協力したことなのだが、それが伊治と志波とは仇敵(きゅうてき)関係となり、双方ともに相手側との戦いも辞さないという状況を生み出したのである。

 志波村のリーダーが胆沢公という名であることからすると、阿奴志己自身または父親は、胆沢地方出身であったのではないかと思われる。780年代には、胆沢の蝦夷と政府軍とが激しい戦いを交えており、とりわけ延暦8(789)年の戦いでは、政府軍は大敗している。その直後に征討将軍は、志波と和賀をも攻撃する必要があるのだが、食料を運ぶことなどに難があって不可能である旨(むね)を述べている。この時期には胆沢と志波・和賀は、同盟関係にあって同一歩調をとっていたのである。

 崩れた同盟

 ところがやがて、志波は政府側に接近する姿勢を見せるようになる。同盟が破綻(はたん)したのである。なお、胆沢の阿奴志己が志波のリーダーの地位についたのが、同盟破綻以前なのか以後なのかで、事情はいささかちがってくるが、もともとは胆沢の蝦夷の集団の指導者のひとりであった胆沢公阿奴志己が、親政府的な言動ゆえに胆沢地方の蝦夷からはじき出されて、志波地方の蝦夷の族長の地位におさまったという可能性もないわけではなかろう。

 しかしいずれにしても、蝦夷のリーダーは人々の意志の体現者であったから、阿奴志己は、志波の人々の考えを代表して多賀城にはたらきかけたにちがいない。志波の人々の方針変更の背景には、朝廷側との長期にわたる断絶による、経済的な事情もあったように思われる。そして、胆沢・志波・和賀の同盟が崩壊したことが、後の阿弖流為らの投降の伏線となってゆくのである。

 【注】コレハリは地名で、当初は伊治という漢字があてられていたが、難読ゆえであろうか、奈良時代の末には、コレハリと発音が類似する栗原という文字をあてるようになったのである。

【写真=蝦夷の時代の古墳跡とみられる盛岡市・飯岡才川遺跡で出土した円形周溝。志波の蝦夷の墓だったのだろうか=2005年10月の現地説明会】


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