1.平泉開府の意味
国府区域に勢力伸ばす

 またがって

 最近の平泉に関係する最大のニュースは、衣川北岸地区の発掘調査が行われ、都市平泉の範囲が現在の平泉町内に限るのではなく、現衣川村の領域にも広がっていることが確認されたことであろう。これを歴史的にいえば、都市平泉の範囲は胆沢郡と磐井郡にまたがっていたということにほかならない。

 坂上田村麻呂の時代に、阿弖流為(あてるい)らの激しい抵抗を抑えて盛岡市以南が朝廷の直轄支配地に組み入れられ胆沢城が築かれると、多賀城から胆沢城に鎮守府(ちんじゅふ)が移された。胆沢鎮守府が直接に管轄したのは胆沢郡以北・岩手郡以南の「奥六郡」といわれた地域である。

 一方、磐井郡は多賀城に置かれていた陸奥国府(多賀国府)の管轄領域の北端にあたる。胆沢鎮守府は、制度的には多賀国府の統括のもとにあったが、胆沢鎮守府と多賀国府はそれぞれ別の地域を管轄領域としたこと、胆沢鎮守府は朝廷の直接支配の外の北方の住民(蝦夷)との窓口となるという多賀国府とは異なる任務をあわせもっていたことから、次第に多賀国府と同格に近い存在になっていった。平安時代の陸奥国は、多賀国府と胆沢鎮守府という2つの政治の中心が並立していたのである。

 『枕草子』の、全国の有名な関所の名を列挙している「関は」の章段には、衣の関(衣川の関)も登場する。関は隣接する国の境界に置かれるのが常態で、衣川の関のように一国の内部に関が置かれるのは異例である。衣川の関は、胆沢鎮守府と多賀国府の管轄領域の境界に設けられた関であり、多賀国府と胆沢鎮守府の管轄領域は、それぞれ一国に準ずる存在であったことを物語っている。

 鎮守府の最高位責任者は鎮守府将軍であるが、平安時代中期になると鎮守府将軍は現地に常駐しないようになり、現地の有力豪族である安倍氏が、在庁(ざいちょう)官人(かんじん)として鎮守府の実権を掌握するようになった。同じころ出羽国でも清原氏が勢力を伸ばしていた。

 辺境に政権

 前九年の合戦の最後の段階で源氏の側に味方した清原氏は、事件後には清原武則・真衡の2代にわたって鎮守府将軍に任命され、名実ともに鎮守府を掌握して安倍氏の力を発展的に継承した。前九年の合戦と後三年の合戦の間にくる延久(えんきゅう)年間には、第2の前九年の合戦ともいうべき事件もあり、清原氏の勢力は広く青森県地方にも及ぶようなっていたと考えられている。清原氏は、強大な力を保つ一方で、朝廷の支配からは半ばは独立した勢力を築いた。後三年の合戦で勝利者となった清衡は、その力を継承した。

 安倍氏・清原氏は鎮守府を基盤とした勢力であったから、磐井郡以南に進出することは問題行為とされた。ところが清衡(平泉藤原氏初代)は、磐井郡平泉に中枢を置く都市づくりに着手できたのである。これは清衡が多賀国府の管轄範囲にも勢力を及ぼすことができるようになったことを象徴する行為であった。

 鎮守府と国府の管轄領域にまたがる新時代の東北の都・平泉の成立(平泉開府)は、500年もの時間を要した長い古代東北の歴史の到達点であり、中世辺境政権第一号・平泉の船出でもあったのである。

【写真=藤原氏が勢威を誇った平泉の拠点地域。北上川の西岸に沿って柳之御所遺跡、中尊寺の位置する関山(ほぼ中央)、毛越寺大泉が池北側の塔山(左手)が見える=一関支社・高橋照雄撮影】


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