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113回にも及ぶ作品を掲載
「閑天地」:明治38年6月7日〜7月18日(21回)
 石川啄木は、27年間の生涯のうち岩手日報に短歌、評論、随筆などを113回にわたって作品を掲載している。

 岩手日報は啄木にとって、文学活動のよりどころだったといえる。

 岩手日報に啄木の作品が最初に登場したのは明治34年12月3日。

 啄木は旧制盛岡中学4年の16歳のときである。

 盛岡中学の文芸グループ「白羊会」の仲間とともに、現在の岩手日報の学芸欄にあたる「文苑欄」に短歌6首が掲載された。

 筆名は「翠江(すいこう)」である。

 「迷ひくる春の香淡きくれの欄に手の紅は説きますな人」「夕くれを落葉に人の笛の手はわななく指にふし乱れけり」といった短歌で、生活を歌う独自の作風はまだ現れていない。

 啄木は翌35年の盛岡中学中退までに、文芸評論「寸舌語」「五月乃文壇」などの11本もの原稿を寄せ、掲載されている。

 文学で身を立てようとした啄木は、岩手日報を鍛練の場として、自信を深め、文学で生きようとする決意を固めていった。

貴重な原稿料
石川啄木と妻節子
 文学家を目指して上京したのは、盛岡中学を退学した35年10月。

 しかし生活資金を得られずに古里に戻る。その後節子と結婚をする。

 ところが38年、初の詩集「あこがれ」の刊行のための上京中に宝徳寺の住職だった父・一禎が宗費の滞納で解任される。

 以後、啄木一家は最後まで生活苦にあえぐことになる。

 新婚の様子などを書いた21回連載「閑天地」などの新聞の原稿料は、啄木にとって貴重な収入源だった。

 岩手日報社と啄木を結び付けた人物に、主筆の福士政吉(筆名・神川)、客員新渡戸仙岳らがいる。41年9月16日の啄木の日記によると、啄木は福士との関係で寄稿するようになったようだ。

 福士は啄木の才能を高く買い、入社を勧めさえした。

 仙岳は、啄木が盛岡高等小学校に在席していた時の校長。父・一禎の短歌の先輩だった。

 啄木は仙岳に書簡で原稿掲載を依頼し、仙岳は啄木の願いを即座に聞き入れた。

 百回通信と、その前の5、6月に連載した「胃弱通信」はいずれも東京から古里にあてた便り形式をとっている。

 5回連載の「胃弱通信」では盛岡人の“微温的気質”に対し、画期的な提言を行った。

 市民負担を強いてでも市役所を大きく新築し活発化を図ること、赤いネクタイなど新しいおしゃれを取り入れ「地味」と評されないよう心掛けること、形、装飾とも古いままの南部鉄瓶は売れなくて当然だーなどと厳しく指摘した内容だ。

天才の死追悼
死亡記事
明治45年4月16日
啄木の死を知らせる記事
 啄木は「百回尽きたら又百回」と長期連載を計画していたが、体調の悪化で28回で終わってしまった。

 42年11月21日の「百回通信・二八」が、啄木の岩手日報掲載の最後の原稿となった。

 45年4月13日、啄木は貧困の中で病死する。

 3日後、岩手日報は死亡記事を掲載した。

 大正13年の13回忌には一ページの追悼記念号を組んだ。

 県内文人らによる評論、感想、追悼の文を掲載している。
死亡広告
明治45年4月16日
長女京子の名で出された
 



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