| ■非凡さ見抜き積極的に紹介 |
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| 宮沢賢治 |
賢治は生前、岩手毎日新聞(明治32年発刊、昭和8年廃刊)に童話「やまなし」「氷河鼠の毛皮」「シグナルとシグナレス」などを発表している。岩手日報は批評や消息記事を載せて、中央で正当に評価されることの少なかった賢治を世に紹介することに努めている。
「校本 宮沢賢治全集」(筑摩書房)によると、生前に作品批評を掲載した新聞は、読売新聞と地方紙では岩手日報だけとなっている。
日報に載った二つの批評文の筆者は、盛岡中学在学中に賢治と知り合い、親交があった作家の森荘已池。
当時は本名「森佐一」や別の筆名「北光路幻」で書いている。
森は、賢治も作品を発表した詩誌「貌」に関する大正14年9月29日付の寄稿の中で、前年出版された詩集「春と修羅」を取り上げた。 |
| ■春と修羅絶賛 |
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| 「羅須地人協会」設立の記事・昭和2年2月1日夕刊 |
まず「この詩集はいちばん僕を驚かした。
(中略)彼は気象学、鉱物学、植物学、地質学で詩を書いた。
奇犀、冷徹、その類を見ない。
(中略)僕は十三年の最大の収穫とする」との詩人佐藤惣之助の評(同13年12月「日本詩人」12号掲載)を引用した上で、「この本(春と修羅)はいわゆる、具眼の詩人、具眼の大家には実に巨大な刺激を与えたらしい」が「現今の詩壇にはてんで理解されていない」と慨嘆。
「日本現下の詩壇はどうあろうとも郷土の人々だけでも、できるだけ、宮沢さんを理解しようと努め『春と修羅』を読んでほしいものだ」と訴えている。
賢治は13年に童話集「注文の多い料理店」も刊行。
花巻農学校教師を続けながら、草野心平主宰の同人誌「銅鑼」にも多数の詩を発表するなど精力的な文学活動を展開したが、昭和元年3月に農学校を退職。
羅須地人協会の活動をスタートさせた。
同協会の活動について2年2月1日付夕刊は「農村文化の創造に努む 花巻の青年有志が地人協会を組織し自然生活に立ち返る」との見出しで、賢治の顔写真入りで紹介した。
「羅須地人協会の創設は確かにわが農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目をひいている」と活動を後押しするスタンスで書かれた好意的な記事だったが、社会主義思想の実践と疑った地元署が事情聴取に乗り出す事態に発展した。
前年結成の労働農民党稗和支部に賢治が経済面などで支援していたこととの関連も指摘されている。 |
| ■病床の訪問記 |  | | 賢治を追悼する当時の学芸欄の特集紙面 |
3年には賢治が肺結核で療養生活に入ったこともあって同協会の活動に終止符が打たれる。
小康を得た6年から賢治は東山町松川の東北砕石工場技師嘱託となり、石灰肥料の販路開拓に奔走する。
しかし、同年9月、上京中に発熱。直ちに花巻に戻り病床に就く。
7年6月13日付では「病める修羅 宮沢賢治氏を訪ねて」とする詩人母木光(雫石町出身)の訪問記を掲載した。
賢治の病勢を気遣いながらも「宮沢氏の存在は、われわれのみの、岩手県のみの祝福であろうか。
(中略)そして沈黙と節度の巨(おお)きさもここまでくれば、たしかに畏怖すべき高価な人間芸術の一つではないか」と評価している。
しかし、この記事について賢治は、交友のあった母木への手紙の中で好意を感謝しつつも「わたしはこの郷里では財ばつといわれるもの、社会的被告のつながりにはいっているので、目立ったことがあるといつでも反感の方が多く、じつにいやなのです」と複雑な心境を述懐している。
「病気もよほどよくなられて今度も生きそうだとのお便り」との消息(7年6月13日付)が載った賢治だったが、ついに健康体に戻ることなく8年9月21日午後1時30分、永眠した。
23日付夕刊は「日本詩壇の巨星墜(お)つ」とする死亡記事を載せている。
その後、同29日付、10月6日付学芸欄で「宮沢賢治氏追悼号」を特集。
「疑獄元凶」(短編の梗概)、『寒峡』巻初の数首について」(花巻市出身の関徳弥の歌集の紹介文)、「春谷暁臥…(心象スケッチ)…」(一九二五・五・一一の日付のある詩)の遺稿三編を掲載した。
森は、昭和3年岩手日報に入社し学芸部記者となっており、遺稿掲載の経緯を紹介する一方、「森惣一」名で追憶記(上下)を執筆。
このほか多くの知人による追悼文や、逝去を悼む佐藤惣之助、高村光太郎らの手紙が載った。
一連の追悼記事は、12月8日付で掲載された賢治の追悼会での母木の講演要旨「ランボオ マラルメと宮沢さん」まで続く。
賢治を慕っていた関は「今にして話しておけばよかりしことつぎつぎ思ひ出でて空しき」などの挽歌20首(10月13日付)を寄せ、読者の胸を打った。 |
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