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晴れやか 7人受賞 岩手日報随筆賞

 岩手日報社主催の第11回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」贈呈式は16日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者7人と来賓、前身の岩手日報文学賞随筆賞を含む歴代受賞者ら約50人が出席した。

 川村公司編集局長が選考経過を報告。東根千万億(ちまお)社長が最優秀賞の盛岡市中太田、吉田澄江さん(77)に正賞の「星の雫」像(照井栄氏制作)と賞状、賞金20万円を贈った。

 優秀賞は、一関市山目の羽柴香子(よしこ)さん(43)、盛岡市小杉山の熊谷奈南(ななみ)さん(17)、金ケ崎町永沢の松本幸子(ゆきこ)さん(60)の3人に賞状と賞金5万円、佳作は、滝沢市室小路の佐藤薫乃(ゆきの)さん(18)、奥州市江刺区田原の佐藤京子さん(55)、宮古市藤原1丁目の中村キヨ子さん(66)に賞状と賞金3万円を贈呈。東根社長は「創刊140周年の記念すべき年に受賞された皆さまに心より祝意を申し上げる。今後もさらにレベルの高い作品に進化することを祈念する」とたたえた。

 八重樫勝県教育委員、鎌田英樹IBC岩手放送社長、選考委員長の詩人城戸朱理(しゅり)氏が祝辞。受賞者を代表して、最優秀賞の吉田さんは「記念すべき年に大きな賞をいただき、心も体も震えている。亡くなった夫のことを書くことで、大勢の人につながり、支えられて生きている」と感謝の言葉を述べた。

 今回の応募総数は150編。予備選考を経て、城戸氏、平谷美樹(よしき)氏(作家)、千葉万美子氏(エッセイスト)が審査した。

【写真=第11回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」を受賞した(前列左から)優秀賞・松本幸子さん、同・羽柴香子さん、最優秀賞・吉田澄江さん、優秀賞・熊谷奈南さん、(後列左から)佳作の中村キヨ子さん、佐藤薫乃さん、佐藤京子さん=16日、盛岡市・盛岡グランドホテル】

(2016.7.17)


第11回岩手日報随筆賞決まる
−2016年−

 岩手日報社主催の第11回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の入選者が決まりました。

 最優秀賞は、盛岡市中太田、吉田澄江さん(77)の「ワレモコウ」が選ばれました。優秀賞は、一関市山目、パート羽柴香子(よしこ)さん(43)の「父」、盛岡市小杉山、盛岡三高3年、熊谷奈南(ななみ)さん(17)の「石割桜」、金ケ崎町永沢、農業松本幸子(ゆきこ)さん(60)の「ねぎの花のように」の3編です。

 佳作は、滝沢市室小路、盛岡三高3年、佐藤薫乃(ゆきの)さん(18)の「いいね」、奥州市江刺区田原、主婦佐藤京子さん(55)の「おばあちゃんの日記帳」、宮古市藤原1丁目、中村キヨ子さん(66)の「朝の輪唱」の3編。将来が期待される20歳未満の応募者が対象の奨励賞は該当作がありませんでした。

 贈呈式は16日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞の吉田さんに正賞のブロンズ像「星の雫」(照井栄氏制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞の3人に賞状と賞金5万円、佳作3人に賞状と賞金3万円がそれぞれ贈られます。

 今回の応募総数は150編。社内の予備選考を経た13編について、選考委員の詩人城戸朱理(しゅり)氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹(よしき)氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子氏(一関市)が審査しました。

(2016.7.9)


第11回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」
受賞者と作品紹介
 岩手日報社が2006年に創刊130周年を記念して創設した「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」は第11回の今年、150編の応募があった。選考委員の詩人城戸朱理(しゅり)氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹(よしき)氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子氏(一関市)が6月14日、本社で選考会を開き、社内予備選考を通過した最終審査候補13編の中から、最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作3編を選んだ。最優秀賞、優秀賞の受賞作品を紹介する。

《選評》 清新な読後感与える

 経済成長著しい中国の覇権主義によって、東アジア、東南アジアの緊張が高まるなか、イギリスのEU離脱によって、世界に激震が走った。

 私たちが、歴史の転回点となる時代を生きていることを痛感せざるをえないが、それでも人間は、日々の暮らしを営んでいかなければならない。

 そのなかから、何を汲(く)み上げ、どう表現するか。随筆のむずかしさは、そこにある。

 最優秀賞「ワレモコウ」は、定年退職を半年後に控えて倒れた夫との結婚生活のあれこれを描いて感銘深い。

 十三年もの介護生活の果てに亡くなった夫。好きで一緒になったものの、気持ちがすれ違うことも、小さな諍(いさか)いも数えらないほどあった。しかし、夫が亡くなってみると、むしろ、恋情が募っていく。

 登山の思い出とワレモコウに託して、心情を語り、清新な読後感を残す。

 優秀作「父」は、かつて居酒屋を営んでいた父が運動会のたびに作ってくれた豪華なお弁当を題材に、父の臨終のときを淀(よど)みなく描く。ただ、お弁当、闘病から臨終、散骨と、いささか題材を盛り込みすぎたのが惜しまれる。

 それに対して、「石割桜」は、若者らしい都会への憧れと、故郷の素晴らしさを再発見する様子を生き生きと描いて、躍動感がある。

 優秀賞「ねぎの花のように」は、主婦が集まって、息抜きのための喫茶店をみんなで作る奮闘記。もう少し、経緯を具体的に語ると、さらに読み応えのある作品になったのではないだろうか。

 日本は昨年末で、六十五歳以上の高齢者が全人口の二十六・七%と、四人に一人が高齢者という時代を迎えた。

 それだけに、応募作は、介護と近親者の死を扱うものがあまりに多く、目新しさに欠けるきらいがあるのは否めない。

 日常のなかから自分なりの題材を見つけ、新しい主題に挑戦して欲しい。

 (城戸選考委員長)


最優秀賞 ワレモコウ 吉田 澄江


 その花の名を教えてくれたのは夫だった。早池峰登山の帰り道、小さな集落の崩れかけた土蔵のそばに咲いていた。

 やわらかな秋の午後の日ざしの中に、シュウメイギクやハギに交じって草丈一メートルほどに群生している。遠目には茶色に見える暗紅紫色の桑の実のような形の花を枝先につけ、天に向かって咲いている。

 車を止めて近寄ってみる。吾亦紅、ワレモコウといい、花びらはなく枝先のものは花穂(かすい)というそうだ。

 「俺、この花大好きなんだよな」。夫はワレモコウの群生の中に私を立たせてカメラを向けた。秋の陽を背にした夫は逆光の中にいて、その表情は見えずシルエットだけが眩(まぶ)しかった。

 いつも一緒の山歩きで、今まで何回もこの花に出合っているはずなのに、興味なく見過ごし、このとき初めて気になったのはなぜだろうか。秋の虫が鳴き始めていた。

 それ以来、ワレモコウという言葉の響きと控えめな花の色と形に惹(ひ)かれて、私にも大好きな花のひとつになった。

 夫がクモ膜下出血で倒れたのは定年退職を半年後に控えた九月、山はそろそろ秋に色づくころだった。一カ月以上も生と死の間を行き来し、医師や看護師の懸命の手当てで命だけを取り止めた。症状が落ち着いたと言われたときには心も言葉も失(な)くし、自分で体を動かすことさえできなくなっていた。

 長い長い入院生活が始まり、看病のための私の通院の日々が始まった。いくつかの病院を移ったが、どこの病院に行くのにも山の景色が目に入る。岩手山、早池峰山、姫神山、そしてそれらに連なる山々はかつて二人で登った山、しかし、もう決して一緒に行くことはない。朝夕、車から眺める景色は季節毎(ごと)に色を変え、思い出をかき立てる。

 寒い大雪の朝、夫は十三年の病床の生活に終止符を打った。

 手を振るでもなく別れの言葉もなく、黙って一人、背を向けて行ってしまった。追いかけることもできず、私は呆然(ぼうぜん)とたたずむ。

 この別れの前にも夫が元気だったころにはいくつもの分かれ道があった。そしてそこでは必ず私の方で別れて行くはずで、残されるのは私ではなく夫でなければならなかった。

 頑健で病気知らず、二日酔い以外に体調不良を知らない夫は、私が偏頭痛や風邪気味を訴えると「気持ちが緩んでいるから風邪もひく」と、思いやりのない言葉を投げつけた。子供たちの病気は全て私のせいにした。

 やり切れない思いの中で、決してそうはならないことを知りながら「別れたら…」と想像しては自分の気持ちを紛らわした。

 泥酔して帰った夜中の悪態に無性に腹が立ったとき、隣にいても心がすれ違って苛(いら)立ったとき、私は心の中で夫と別れ、置き去りにしてうっ憤を晴らしていた。

 好きで好きで一緒になったのに、日々の生活の慣れから時としてお互いのわがままが顔を出す。そして幸せのかけらを見落とす。

 小さな諍(いさか)いをくり返しながらそれでも三十年を共に暮らした。子供たちは独立し、夫は静かに定年退職の日を迎えるはずだった。

 退職したら二人で日本中を旅しよう。あちこちの山に登ろう、古い大きな木を訪ね歩こう、海辺で並んで座り沈む夕日を見よう。

 たくさんの約束をし計画を立てた。

 突然の病でなに一つ約束は果たされなかったけれど、心通わず物言えぬこの命、いとおしくいとおしく、ひたすら回復を祈り、動かぬ体をさすり一方通行の言葉をかけ続けた。

 そして私はふっと、夫が夫なりのやり方で私を包んでいてくれたことに気付いた。山登りの苦しさは日頃の少々の不満など何でもないことにしてしまうこと、山頂で仰ぐ満天の星空は自分の存在の小ささを思い知らせることなど、山行きで、スキー登山で、ドライブ旅行で、ふり返れば数限りなく私はいたわられ教えられていたのだった。

 ワレモコウは夏の終わりから秋彼岸のころにかけて花屋の店先にも並ぶ。単体では見栄えがしないのに他の花に添わせると引き立て役としての力を発揮する。以前、三十本ほどの真紅のバラにこの花を配したとき、お互いが引き立て合ってとても美しい花束ができた。

 ワレモコウが咲き、虫の声が聞こえ始めると、思いはすぐにあの秋の日につながる。土蔵はまだ壊れないで立っているだろうか。花たちは咲いているだろうか。あのころには気付かず、私は確かな幸せの中にいたのだ。過ぎて行った時間、走り去った年月は、逆光の中の夫の姿とともに今はもう、ボウッとかすんではるか遠い。

 秋彼岸、夫の墓前に菊やリンドウに添えてワレモコウを欠かさない。

 心の奥底で虫が鳴く。ワレモコウ、吾亦紅、吾も恋ふ、われも恋う…。



 《横顔》  夫の思い出 旅でたどる

 最優秀賞の知らせを受け取り、とっさに電話台の隣の仏壇に話しかけた。「最優秀賞なんだって、どうしよう」−。誰よりも先に驚きと喜びを報告したのは、あふれる思いを書きつづった亡き夫、好(よしみ)さんだった。

 受賞作「ワレモコウ」は、登山の途中に見つけた花とその花をめぐる思い出、夫の死と生前の思い出、そして登山を通して夫から受け取った思いを、緻密な筆致で書いた。野山の景色や夫が澄江さんにカメラを向ける描写は、その光景を脳裏に描けるほど鮮やかだ。

 文末の繰り返しが特に美しい。「ワレモコウ、吾亦紅、吾も恋ふ、われも恋う…」。夫の死から10年たってもなおあせない愛情に胸を打たれる。

 応募は3度目。夫の七回忌が過ぎた2012年、元気になった姿を恩人に伝えたいと応募した作品が優秀賞に輝いた。今年の応募作はその「返歌」と位置付け、気持ちにけじめをつけるつもりでまとめた。「もっともっと元気になりました、というメッセージ」と、支えてくれた周囲の人々への思いを込める。

 若い頃から自分の思いを大学ノートに書きつづる習慣があった。「不満や面白くなかったことなどの憂さ晴らしに書いていた」と笑う。一方で突然夫が病に倒れたときには、思いを書くことが澄江さんの気持ちを保たせた。

 夫の存命中はともに登山を満喫したが、「相棒」がいなくなってからは遠ざかっている。代わりに今はJR東日本の列車乗り放題の切符を利用し、数か月に一度鉄道旅行に出かける。「夫と行こうと約束していたところや、かつて行ったところを回っている」と、面影とともに現在の暮らしをを楽しんでいる。

 「夫が元気な頃の30年、病気の頃の13年、いろいろなことがあった。またぽつぽつと、いろいろな思いが出てくると思う」と澄江さん。胸の内からこぼれ出る思いを、また文章にしたためていくつもりだ。

 【よしだ・すみえ】 盛岡二高を卒業後、盛岡営林署(現・盛岡森林管理所)に就職。60年に好さんと結婚し、退職。以後は主婦、2人の息子の母として家庭を支え、93年に好さんが倒れてからは病院と自宅を往復する生活を続けた。盛岡市中太田新田。77歳。同市出身。


優秀賞 羽柴 香子(よしこ)


 「酒と煙草(たばこ)やめなきゃないんだったら死んだほうがいいな」。そう言っていた父が癌(がん)を患った。一昨年の六月、胃と胆のうと脾臓(ひぞう)を全摘出した。本人の希望で放射線治療も抗がん剤治療もしなかった。

 退院後、料理人だった父は前と変わらず母に美味(おい)しい料理を作り、大好きな海釣りへ母を連れて出かけ、大好きな酒と煙草を本人曰(いわ)く薬にして暮らしていた。何をするにも「最後かもしれないしな」と笑いながら、得意の竹細工で仏壇まで作って仕上げていた。

 昨年の五月の運動会に孫たちに届けてくれたお弁当は本当に最後になってしまった。私が子どもの頃から作り続けてくれていた父の豪華な運動会弁当。寿司(すし)屋でも修行した父のだし巻き卵、太巻きに飾り切りされたキュウリは職人技。から揚げ、漬け物も絶品だ。

 学生のころ、気分良く酔っ払った父から、自分は母親を幼い時に亡くし運動会の日も自分で作ったおにぎりを校舎の裏に隠れて食べたと聞いた。父の豪華なお弁当には特別な意味があったのだと知った。

 私も五人の母となり、今度は孫たちにと届くお弁当を開ける度、胸がいっぱいだった。

 普段も沢山(たくさん)おかずを作ってはタッパーに入れて持たせてくれた。いつも空で返す私だったが、昨年の十月、父の誕生日に生まれて初めて父にお弁当を作った。父が作ってくれていた私の大好物を、今はあまり食べられない父のために少しずつ詰めて届けた。

 何もしなければ四か月と言われていた父。手術から一年八か月、最期の日の朝まで母に朝食を作った。二月五日金曜日、その日父は痛みに堪えきれず病院に行き、入院となった。母から連絡が入ったのは夕方だったが、離れて暮らす大学生の娘を含め、家族が不思議とすぐに揃(そろ)った。冬で病院内は面会が制限されていたが、幼い子を含む大人数の私たちをすぐに通してくれた。私の中に覚悟ができた。

 病室に入った途端、看護師さんに呼ばれ、すでに強い痛み止めを入れていること、最後の痛み止めを入れると意識が戻らないことを告げられた。東京から向かっている妹が来るまでは待って欲しいとお願いし、病室に戻った。が、あんなに強い父が一点を見つめて、「ひでえ、いでえ」とうめいていた。

 すぐにでも痛みをとってあげたかった。変わってあげたい…心からそう思った。そんな状態でも、ベッド周りに立っている私たちに「疲れっから座れおめだぢ」と言う。「大丈夫、大丈夫」と返した私は、それでも父は絶対大丈夫と自分に言い聞かせていた気がする。

 仕事先から東京駅に向かい新幹線に飛び乗った妹を駅で迎え、すぐに父と対面させた。妹は前回帰省した時に父と些細(ささい)なことで喧嘩(けんか)したまま、お盆もお正月も帰省せず一年ぶりの再会だった。どうしても会わせたかった。痛み止めの点滴のせいか、言葉は出なくなっていた。手を握る妹を見て父はほんの少しだけ頷(うなず)いた。それだけで良かった。

 「よろしいですか」と看護師さんが最後の痛み止めを父の身体に入れた。反発するかのように何度も何度も目を開けようとしていた。父はこんなときまで強かった。四時間後、力尽きた父は息を引き取った。

 生前、「海に散骨して欲しい」と父は言っていた。すべて家族だけでひっそりと行うつもりで、近親者以外誰にも知らせず火葬場に行った。遺影とともに入った先には、父が元気な時に営んでいた居酒屋の常連さんたちが集まってくれていた。思いがけず、沢山の方々に見送っていただくことが出来た。

 桜の開花も聞こえてきた春、船を出して散骨してくださる方にお骨を預けに行った。母は「私は散骨するところはきっと見てられないな」と同行乗船はしないことにした。私は海岸から見送るつもりで予定の日を待った。

 「明日から荒れそうだから今日」と、急きょ変更の連絡を早朝に頂いた当日、私は新しい仕事の初日で海岸に行くことが出来なかった。散骨の瞬間、船からかけてもらいポケットで揺れる携帯電話に手を当てながら黙祷(もくとう)した。しかし、どうしても我慢しきれず、早めに終えた仕事先から海へ向かった。父が大好きだった海を眺め、波打ち際で海水に触れたら、ここに来ればいつでも父に会えるような気がした。心静かに帰路につくことができた。

 父の遺品を片付けていた母と妹が、広告の裏を利用した父のメモを見つけた。癌と分かってからの覚え書きや父の気持ちを表した言葉が残されていた。その中に「十月十八日 香子弁当届けてくれる。美味二〇〇点。最高だ。」と書かれていた。直接言ってくれたら良かったのに。父らしい。

 最後のお弁当から一年、今週末は運動会。もう父の豪華なお弁当はないけれど、父に二〇〇点をもらった弁当を再現して持って行こう。父が煮た黒豆を解凍してお重の真ん中に詰めて。



 《横顔》  愛する人の最期記す

 病気と正面から向き合い、自分らしい生き方を貫いた父親が2月に亡くなった。父親が好きだった海への散骨を終え、少し気持ちが落ち着いた。最愛の父の最期を書き留めたい、そんな思いが生まれた。

 書きたいことは頭の中にあったが、時間の余裕がなかった。応募締め切りが迫る中、「間に合うから書いて出してみたら」と夫が背中を押してくれた。感想を聞くことはできないが「父にも読んでもらいたい」との思いを胸に書き進めた。

 大学4年から小学3年まで5人の母。短大卒業後、地元で就職した。結婚、出産を経て、子育ての合間に心に残った出来事を短い文章にした。書くことは、子どもの頃から好きだった。「文章で賞をいただくのは小学校以来」と喜ぶ。

一関市山目。43歳。奥州市水沢区出身。


優秀賞 石割桜 熊谷 奈南(ななみ)


 帰りのバスでの乗客は、私だけだった。入口に一番近い席に座る。アナウンスの声だけが響く車内は静かだった。スマートフォンの電源を入れる。好きなアーティストの歌っている姿が、待ち受け画面に現れる。ロックを解除すると、そのアーティストの公式アカウントからメッセージが届いているのに気が付いた。「全国ツアー決定!」という文字が目に入る。私は小さくため息をついた。ずいぶん前に、この字面に期待することはやめていた。どうせ岩手には来ない。諦めながら、詳細と文字をタップする。北海道、宮城といつも見る地名が並ぶ。岩手という文字はどこにも見当たらなかった。思った通りだ。

 岩手は田舎だと思う。テレビで見るような都会の女子高生とは違って制服は地味だし、遊べる場所も少ない。見たいテレビ番組も岩手では放送しない、ということがよくある。盛岡を出て祖父母の家に遊びに行けば、周りには畑と田んぼしかない。

 「こんな田舎に来ないよね」

 ぼそっと漏らした独り言は、バスが揺れる音にかき消された。

 貸し切り状態のバスは、そのまま私を乗せて夕方の盛岡を走る。辺りにいる人は疎(まば)らだ。高校を卒業したら東京の大学に行きたいと言っていた友達の言葉が、ふと頭の中をよぎった。東京に行ったら、きっと今とは全然違った生活を送ることになるんだろうな。おしゃれな店があって、おいしいスイーツが食べられるカフェがあって。想像するだけで胸が躍るようだった。もし私が都会に生まれていたら、どんなふうに暮らしていたんだろう。現実とのギャップを考えるのも嫌になるくらい楽しそうなイメージばかりが浮かんできた。自分を慰めるために、耳にイヤホンを押し込む。好きな曲をかけて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。夕方と夜の、ちょうど真ん中。ゆっくりと日が沈んだ深い紫色の空が、町を包んでいた。いつもと同じでつまらない景色だ。退屈になった私は、スマートフォンを見る。すると、今朝、友達から写真が送られてきていたことに気が付いた。

 「桜咲いている!」

 可愛(かわい)い絵文字が添えられた文章と共に、私の手のひらで桜が満開に咲いた。友達から送られてきたのは石割桜の写真だった。私が毎日、バスで通り過ぎている桜だ。私は驚いた。もう咲いていたのか。全く気付いていなかった。私は顔を上げた。帰り道でも、バスは石割桜を横切る。まだ通り過ぎていなかった。よし、と心の中で小さくガッツポーズをした。ローファーのつま先が、ぱたぱたと動く。私は少しどきどきしながら石割桜が現れるのを待った。

 「次は、県庁市役所前、県庁市役所前です」

 そのアナウンスと同時に、私の目には大きな桜が映し出された。私は息をのんだ。そこにそびえ立っていたのは、ライトアップされた石割桜、初めて見た石割桜だったのだ。薄暗い空の下に、淡いピンク色の花びらが浮かび上がる。後ろの建物と、桜の花びらとの境界線がくっきりと見えた。堂々とした腕を惜しげもなく伸ばして、自分の美しさを誇っているようだった。まるでイヤホンが外れたときのように、私の周りから音が消えたようだった。

 遅い時間に帰ってくることがあまりないから、ライトアップされた石割桜を見たことがなかったのだろうか。いや、違う。私はただ、見ていなかったんだ。こんなに綺麗(きれい)なものに気付いていなかったんだ。

 一瞬で通り過ぎていく桜を見て、はっとした。私は、盛岡のいいところを全然知らないんじゃないか。知ろうともしなかったんじゃないか。私はずっと、テレビの向こうに広がる、きらきらした都会に憧れていた。そこにあるものが全て輝いて見えていた。羨(うらや)ましく思っていた。でも。

 私はもう一度、さっきの石割桜の姿を思い起こした。こんなに輝いているものが、ここにはあったんだ。どうして気付かなかったんだろう。胸の奥から、じわりじわりと後悔と期待が混ざったような感情が湧き出てきた。きっとここには、私がまだ知らない魅力がたくさんあるんだ。石割桜が、それを教えてくれた。

 いつものバス停について、私は立ち上がる。優しい風がスカートをひらりと揺らした。明日は朝の石割桜をよく見てみようかな。写真が撮れたら、それを待ち受け画面に設定してみるのもいいかもしれない。自分の中でそんな小さな目標を立て、自転車置き場に向けて足を踏み出した。



 《横顔》  文芸部で磨いた表現

 「今の私が感じたことをそのまま形にしようと思った」。都会への憧れと、古里のすばらしさを見過ごしていた自分。バス通学の見慣れた光景が一瞬で変化するような心の動きを弾むような文章で表現した。

 盛岡三高3年。文芸部で、仲間と高め合いながら表現活動に取り組んできた。昨年は全国高校文芸コンクールの随筆部門で入選した。高校生としての思いをつづることのできる最後の年。「できる限りのことに挑戦したい」。卒業した高校の先輩に勧められて応募した。

 初稿はプロット作りから2時間ほどで一気に書いた。作品に自信がないわけではなかったが「受賞は予想していなかった」と驚く。「大学生になっても、執筆を続けたい」。創作への意欲はさらに高まる。

盛岡市小杉山。17歳。同市出身。


優秀賞 ねぎの花のように 松本 幸子(ゆきこ)


 きっかけは、近所の奥さん達(たち)との立ち話だった。

 その日、ご主人と喧嘩(けんか)をしたという一人が、愚痴をこぼし始めた。すると、もう一人の奥さんも、つられたように辛(つら)い経験を話す。年齢的に、男性上位の時代を生きてきた方々だ。理不尽な話も多く、同情したくなる。しかし、この奥さん達のすごいところは、辛い経験を話しても、最後は笑い話に替えてしまうところ。その姿はたくましく、私も頑張って生きなければならないと、力を貰(もら)う。

 二人は、私に喫茶店を開業しなさいと、口を揃(そろ)えて言う。家の近くで、どこか息抜きできる場所が欲しいらしい。田んぼばかりのこの地域で、先祖から引き継いだ農地と日々格闘している私に、喫茶店の開業はどう考えても無理である。もちろんそれを承知の上での夢話だと思うが、息抜きの場に喫茶店を求める奥さん達が、とても素敵(すてき)だった。

 漂うコーヒーの香り、流れる音楽、綺麗(きれい)な器や珍しい装飾品、異空間のかもしだす雰囲気に浸る幸福感が、心をいやしてくれる。そして、なんといっても、寡黙にコーヒーを入れながらも、居心地を良くしてくれるマスターが居ることが一番。いくつになっても、時にはそういう場に身を置きたい気持ちは消えない。

 若い頃は、あまり地域の方々と話すことも無かったが、この頃は違う。私も積極的に会話をするようになった。声を出し自分を語り、また、人の話を聴くことで元気になってくる。それはきっと、そこに必ず笑いがあるからに違いない。

 喫茶店開業の話は、その後も妙に尾を引き、やがて月に一度くらいなら、母屋と別棟のわが家の離れを、息抜きの場に出来るのではないかと思うようになってきた。そして、誰もが気軽に集える場にしたいと、夢が膨らみ始めた。

 しかし、それを行動に移すには、問題があった。長年心の隅に抱えてきた、地域に対する悲観的しがらみだ。それを振り切るための自分との戦いがあった。

 悶々(もんもん)としながら日をおくっていたが、考えてばかりでは進展しない。思い切って「喫茶店があれば…」と言った奥さん達に相談した。わが家の迷惑にならないかと心配しながらも、喜んで賛同してくれた。色々なわだかまりが溶け始め、心の中が軽くなってきた。

 この地域も高齢化率は上昇し、高齢者だけの家族も多い。年々、行動範囲も狭くなっているに違いなかった。そんな人達が、すぐ近くに息抜きできる場があれば、自宅から一歩出て、少しは気分転換できるかもしれない。みんなの顔を見て、おしゃべりするだけでも良いではないか。

 そう意気込み、早速地域の方々に離れに集まってもらった。あらかじめ、私の思いを伝えていたものの、「女性部や老人クラブが有るではないか」「公民館だってある」などと、否定的な意見が出るのではないかと、内心とても不安だった。大先輩の女性達は、どう受け止め、やって来たのだろうか。

 賛同してくれた奥さんが口火をきり、話し合いが始まった。ことの成り行きを見守りながら、集まった一二人分のインスタントコーヒーを入れていると、「これはとっても良いことだと思うけれど、私は高齢なので、当番になっても皆さんのお世話はできないですよ」と、八〇歳代の女性が言う。家では、常にご主人の面倒をみている方なので、ここに来てまで人の世話をしたくなさそうな話し方だ。だが、「とても良いこと」という言葉が出た。この方も、やっぱり息抜きしたいのだ。本音で話してくれたことが、なんだかとても嬉(うれ)しかった。しかしその発言後、誰もが共感したように口を重くし、暗いムードになり始めた。

 この時、私には強い味方がいた。その方に、もし離れで活動が始まることになったなら、一緒にお世話を願いしたいと相談し、了承を得ていたのだ。その方と私の二人で、世話人を引き受けることを提案した。空気は一転して明るくなり、月に一度の集まりが決まった。

 集まりの名前は、「ねぎの花の会」と決定した。ねぎの花は、いつまでも長く咲くことから縁起が良く、天皇の輿(こし)の屋上に金の装飾として用いられているという。私達も、いつまでも凛(りん)とした花を咲かせ、前向きに生きて行こうとの想(おも)いを込めている。

 活動が始まり、まもなく一年になる。喫茶店には程遠い空間だが、マイカップと一〇〇円玉を握りしめ、みんながやって来る。地域というくくりの中に、みんなと一緒の居場所が有ることでもたらす、安心感のようなものもあるのだと、みんなを見ていて教わった。

 「来て良かった。家に爺(じい)ちゃんとだけ居たら、こんなに笑わないよ」「お世話になりました。またくるからね」と、誰に言うでもなく飛び交う帰り際のみんなの賑(にぎ)やかな声が、嬉しい。



 《横顔》  地域と自身見つめる

 家族が寝静まった夜中や夜明けが執筆の時間。少しずつ書き進めた。初めてとなる受賞の知らせを受けて「心臓がバクバク動き大変でした」。

 地域の女性たちの息抜きの場として、自宅の離れで月に1回集まる会を開く経緯を淡々と記した。農村地帯の地域社会の中で生きる意味や、地域の先輩女性の心情に思いをめぐらせながら、自分自身の内面を静かに見つめた。

 町社会教育指導員や県警の少年補導職員を務めた。5年前には大学の心理学科を通信教育で卒業した努力家の一面も。金ケ崎町でエッセー同人誌を発行する「ペンペン草の会」の同人。「これまでのように書き続けていきたい」。地域にしっかりと根ざして、仲間と創作に励む。

金ケ崎町永沢。60歳。同町出身。


(2016.7.9掲載)

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