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歩みつづり8人受賞 岩手日報随筆賞贈呈式

 岩手日報社主催の第12回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」贈呈式は15日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者8人と来賓、前身の岩手日報文学賞随筆賞を含む歴代受賞者ら約60人が出席した。川村公司編集局長が選考経過を報告。東根千万億(あずまね・ちまお)社長が最優秀賞の奥州市水沢区佐倉河、石川啓子さん(68)に正賞のブロンズ像「星の雫」(照井栄さん制作)と賞状、賞金20万円を贈った。

 優秀賞の盛岡市みたけ5丁目の多田有希(ゆき)さん(26)、盛岡市上田1丁目の熊谷千佳子さん(59)、花巻市東町の山口トヨ子さん(73)に賞状と賞金5万円、佳作の金ケ崎町西根の横田恵子さん(73)、盛岡市北松園4丁目の佐々木茂さん(70)、盛岡市小杉山の熊谷奈南(ななみ)さん(18)に賞状と賞金3万円を贈呈。20歳未満が対象の奨励賞は、盛岡市高松2丁目の盛岡三高3年、佐藤風花(ふうか)さん(17)に賞状と図書カード(1万円相当)を贈った。

 東根社長は「受賞の皆さまに心からお祝い申し上げます。今後も高い目標を秘め、創作意欲を高め、執筆に励まれることを期待します」とたたえた。高橋嘉行県教育長(代読)、鎌田英樹IBC岩手放送社長、選考委員長の詩人城戸朱理(しゅり)さんが祝辞。最優秀賞の石川さんは「書くことは歩んできた人生の確認となり、一歩前へ進むと新しい自分に出会える。それがうれしくて書き続けています。今まで支えてくださった方、ご指導くださった方に感謝します」とあいさつした。

 今回の応募は132編。城戸さん、平谷美樹(よしき)さん(作家)、千葉万美子さん(エッセイスト)が審査した。

【写真=第12回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」を受賞した(前列左から)優秀賞・熊谷千佳子さん、最優秀賞・石川啓子さん、優秀賞・多田有希さん、優秀賞・山口トヨ子さん、(後列左から)佳作の熊谷奈南さん、横田恵子さん、佐々木茂さん、奨励賞・佐藤風花さん=15日、盛岡市・盛岡グランドホテル】

(2017.7.16)


第12回岩手日報随筆賞決まる
−2017年−

 岩手日報社主催の第12回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」の入選者が決まりました。

 最優秀賞は、奥州市水沢区佐倉河、農業石川啓子さん(68)の「父の作品」が選ばれました。優秀賞は、盛岡市みたけ5丁目、大学生多田有希(ゆき)さん(26)の「痛みと生きていく」、盛岡市上田1丁目、家事手伝い熊谷千佳子さん(59)の「魔法のことば」、花巻市東町、山口トヨ子さん(73)の「のんべぇたちの攻防」の3編です。

 佳作は、金ケ崎町西根、横田恵子さん(73)の「遠い日の記憶」、盛岡市北松園4丁目、佐々木茂さん(70)の「父の紙芝居」、盛岡市小杉山、大学生熊谷奈南(ななみ)さん(18)の「オールトの雲」の3編。将来が期待される20歳未満の応募者が対象の奨励賞は、盛岡市高松2丁目の盛岡三高3年、佐藤風花(ふうか)さん(17)の「仮暮らしとカリグラフィ」が選ばれました。

 贈呈式は15日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞の石川さんに正賞のブロンズ像「星の雫」(照井栄さん制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞の3人に賞状と賞金5万円、佳作3人に賞状と賞金3万円、奨励賞は賞状と図書カード(1万円相当)がそれぞれ贈られます。

 今回の応募総数は132編。社内の予備選考を経た14編について、選考委員の詩人城戸朱理(しゅり)さん(委員長、神奈川県鎌倉市、盛岡市出身)、作家平谷美樹(よしき)さん(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が審査しました。

(2017.7.8)


第12回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」
受賞者と作品紹介
 岩手日報社が創刊130周年を記念して2006年に創設した「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」は第12回の今年、132編の応募があった。選考委員の詩人城戸朱理(しゅり)さん(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹(よしき)さん(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が6月22日、本社で選考会を開き、予備選考を通過した14編から最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作3編、20歳未満の応募者が対象の奨励賞1編を選んだ。最優秀賞、優秀賞の受賞作品を紹介する。

《選評》 題材選び、独自性光る

 西洋では、十六世紀、フランスの哲学者、モンテーニュによる『エセー』が、エッセイというジャンルの先駆となった。

 エッセイという英語は、ラテン語のexagiumを語源としており、「試み、試論」が原義。つまり、西洋におけるエッセイとは、書き手の感想や思索を筋道立てて論述するものなのだ。それに対して、わが国における随筆とは、清少納言『枕草子』を始めとする随筆の古典に顕著なように、実際にあった出来事や見聞したことについての感想を自由に綴(つづ)ったものであると言えるだろう。

 その意味では、どんな出来事を取り上げるか、そして作者の心の動きが鮮やかに書き止められているかが、随筆の価値を決めることになる。

 最優秀賞の「父の作品」は、その好例。

 岩手県人なら南部杜氏を知らない人はいないと思う。しかし、杜氏の家族の想いや暮らしぶりなどは見当もつかない。

 秋の終わりに蔵元に行き、正月も帰宅せず、春休みも終わるころ、ようやく帰ってくる父。父に家族の様子を細やかに書き送っては、力仕事もこなし、留守を守る母。

 南部杜氏の仕事に対する誇りと家族のありようを鮮やかに描いて、心に残る作品である。

 優秀賞「痛みと生きていく」は、あまりにも悲痛な作者の経験に圧倒される。体調不良で高校を中退せざるをえなかった作者が、痛みを乗り越え、新しい人生をつかむ姿が感動的だ。

 高齢化社会を迎え、介護が社会問題となった今、「魔法のことば」は誰にでも起こりうることを描いて示唆に富んでいる。

 十年前に始まった介護生活。積もっていく疲労。しかし、救いの言葉は思いがけないところにあった。

 「のんべぇたちの攻防」は、密造酒をめぐる祖父の時代の愉快な思い出。いつの世も変わらない庶民の力強さを、笑いとともに描いて、印象深い。

(城戸朱理選考委員長)


最優秀賞 父の作品 石川 啓子


 父を思うと、ほんのり日本酒の匂いが鼻の奥によみがえる。日本酒は神様に供える神聖なものとされており、その新酒の季節がやってくると、酒の蔵元では軒に青々とした杉玉をつるす。

 高校三年の冬、父が酒造りをしていた蔵のある福島県へ妹と二人で遊びに行ったことがある。洗浄する一升瓶の触れ合う音の中、父の案内で蔵を見せてもらった。

 私の身長の倍もある大きなタンクがいくつも並んでいた。タンクの中が見える所まで階段を上がると、父は言う。

 「醪(もろみ)は発酵が進むに従って盛んに泡を出すんだ。その音が聞こえるぞ」

 耳を澄ますと微(かす)かな音がつぶやいている。

 「あっ、聞こえる、聞こえた!」

 父は笑顔になった。思った通りの酒になる音、父はそのつぶやきと会話しているのである。

 蔵の一隅に父の部屋があった。専門書が並び、ここを中心に仕事をするのだと言う。初めて見る父の作業衣の白衣姿がまぶしい。蔵元の朝は早く、ゆっくり専門書をひもとく暇はないとのことであった。

 花巻市石鳥谷町は、「南部杜氏の里」といわれており、ここを中心として奥羽山脈と北上山地の間に広がる稲作地帯では、農家の後継者が農閑期を利用して全国に酒造りのため出かける歴史があり、それが後に、南部杜氏と呼ばれるようになったのである。

 近江商人によって岩手の酒造りが始まったといわれて三百三十年あまり、日本酒の文化は南部杜氏によって今も継承され、父もその中の一人であった。

 私が物心ついた頃、父はもう酒造りに携わっており、毎年父のいない正月を迎えた。秋じまいの後、カヤで南部曲がり家の北側を雪囲いすると蔵元へ行く。一度蔵に入ると酒を造り終えるまで家に帰ることはなかった。だから、父は郷(さと)の正月を知らないとばかり思っていた。だが、父は私たちの成長など、家の事は何でも知っており詳しかった。それは母の手紙からであった。母はきれいな字で父への手紙を書くと、私のランドセルのポケットに入れ、

 「農協前のポストに入れでけでなはん」

 とランドセルをポンと軽くたたくのであった。

 母は、祖父母と私たち姉妹を守り、男手が必要な仕事も一人でこなし、父のいない冬を季節の行事などで楽しませてくれた。

 そんな中で私たちは春を待った。友達の家に遊びに行くと、

 「啓子ちゃんの父さんいつ帰って来るの。お・み・や・げ何頼んだの?」

 とよく聞かれた。

 春休みも終わりに近い日、友達と石蹴りで遊んでいると、坂の下から久しぶりに聞く父の声がする。

 「おーい、啓子」

 「あ、父さんだ−」

 裏山でウグイスが鳴き、家族が全員そろうと、杜氏の里にも本格的な春がやって来るのである。

 お土産の父の造ったお酒をお隣に届けるのが、私の役目であった。生家の辺りは八戸南部藩の飛び地で、近所、どこの家でも酒造りに携わっていた。仕事を終えて帰って来ると、お互いの家族の無事を感謝して、それぞれの蔵元の自慢のお酒を交換したのである。

 頂いたお酒は来年の酒造りのヒントにと、父はお酒を口に含むと舌の上でころがし、「うん、甘口だな!」と一人ごちてゆったり味わっていた。食いしん坊で料理上手であった父は、外で気に入った酒のさかなに出合うと、家で試み母に伝授することもあった。

 父が四十八歳のとき、母は、突然彼岸に旅立った。父は留守を心配して酒造りをやめて家にいることを選ぼうとした。その潔さに未練はないのだろうか、本心はどうなのか尋ねてみると、

 「米作りの感性は酒造りにも生かされ、伝統ある日本文化の仕事は俺の誇りだ」

 人生の半分を家族と過ごすことのなかった父を、母の手紙が支えてくれたのだ。良い酒ができる。それは母との二人三脚のたまものであった。今度は、母の代わりに私たちが蔵元へ行く父を見送り、家を守った。

 妥協しない酒造りの道はそのまま父の人生観であり、それは時に頑固さとなって家庭に持ち込まれることもあった。が、農作業をしながら酒屋唄を謡うとき、それは解きほぐされていくのである。

 「酒造りには専門知識はもちろんだが、勘の鋭さや細やかさの中で、毎年、同じ仕事をしているつもりでも失敗することもあった」と母が亡くなってからも二十年続けた杜氏を振り返り教えてくれた。

 日本酒は「飲む宝石」といわれている。福島県以南で栽培される吟醸酒用の米、山田錦は五〇%余り削られると聞く。その米を私は見たことがない。けれど真珠のような米なのだろう。父は吟醸酒に力を入れていた。どこまでも淡い琥珀(こはく)色への挑戦があった。



 《横顔》  家族の絆、見つめ直す

 生家のある紫波町片寄では農閑期、近所のどの家も父親が酒造りの出稼ぎに行っていた。父親不在の正月が「当たり前」の地域。寂しいとは思わなかった。3年前に父・熊谷隆元(たかもと)さんが亡くなった後、ふと考えた。「いつも働く後ろ姿しか見ていなかった。自分の親って、どういう存在だったんだろう」−。

 自身は甘党で、お酒は飲まない。受賞作を書くために、図書館や花巻市石鳥谷町の伝承館に通った。南部杜氏の世界を裏側から描こうと、家族の思い出に酒造り330年余の歴史を組み込んだ。「歴史と伝統の陰にそれぞれの家庭があることを書きたかった」と振り返る。

 自身も2人の娘を育て、寡黙に家庭を守った母の大変さを知った。酒造りに誇りを持っていた職人肌の父。受賞作を書き上げ、「けれど特別な人じゃない。父も母も地域の人も、みんなで助け合って伝統を守った」と酒造りを介した家族の絆を改めて感じた。

 応募は4度目で、2011年には優秀賞を受賞している。随筆を書き始めたのは12年前。子育てを終え、交流を求めて文章教室に通ったことがきっかけだった。その後、文章サークルにも参加。亡き師には「向いているよ」とお墨付きをもらったが、本人は「言葉もあまり知らなくて…辞書と首っ引きで書いてます」と控えめに笑う。

 知り合いのいない奥州市に嫁ぎ、教室やサークルで得た仲間が「書くこと以上に大事な財産」。文章を添削し合うため「互いの生活や気持ちが分かる。困った時は友達が助けてくれた」と縁に感謝する。

 義父母の後を継ぎ、夫婦で農業を営む。原稿に向かうのは空がうっすら明るくなる午前4時前。普段は出荷する野菜を収穫する傍ら、文章が浮かぶと作業所に戻りメモを取る毎日だ。「書けるうちは日記代わりにでも書いていきたい。孫の成長とかもいいかな」。日々を大切に言葉を紡ぐ。

 【いしかわ・けいこ】 盛岡白百合学園高卒業後、東北銀行に勤務。退職後77年に結婚、民間会社を経て、義父母の農業を継ぐ。奥州市水沢区佐倉河。68歳。紫波町出身。


優秀賞 痛みと生きていく 多田 有希


 「今頃は体育かな…」

 病室の窓越しに晴れた空を見上げる。私には高校時代、青春を謳歌(おうか)した記憶がない。

 「これから楽しいことがたくさんある」

 期待でいっぱいだった入学式からたった一カ月。私は病院のベッドの上にいた。椎間板ヘルニアから来る腰の痛みと、手術後に起きたフェイルド・バック症候群、脳脊髄液減少症によるひどい頭痛とめまいで、私は授業中座っていることすらままならなくなっていた。

 勉強、部活、遊び。楽しいことにあふれていたはずの高校時代は、腰痛と頭痛、ストレスから来るぜんそくでつらいものとなっていった。私は、登校前にペインクリニックに通うことが日課となり、仙骨ブロック注射、局所麻酔、痛み止めの点滴、はり治療、さらには心のケアも必要と言われ心療内科への受診に至るまでできることは何でも試した。通院後、ガラガラに空いたバスに揺られ、やっとの思いで学校にたどり着くと、まぶしいほど皆が輝いて見えた。先生や友人には恵まれていたものの、できないことの多さに、自分に自信が持てなくなり、単位に追われ、精神的にも追い詰められていった。

 休学、留年、退学。最後はこの選択肢しかなく、私の最終学歴はこの段階で、「高校中退」になってしまった。

 「中卒かぁ…」

 高校を中退してから受けてきた面接で、担当者は決まってそこに食い付いた。高校をやめてから、自分の力で高卒認定は取った。しかし、大学に行くには自信の持てない体であったため、短時間の仕事を探していた。

 私にはできることが限られていた。重い物は持てず、立ち仕事もできない。学校を卒業することすらかなわなかった体である。その上、学歴は中卒だ。渋られるのも当然であった。

 就職先の見つからない私には、名乗れる所属がなかった。大学生活を送っている友人たちには「○○大学」、就職した友人たちには「○○会社」と彼女らには自分の名前の上に付ける所属があった。しかし私には名前の上に付ける所属がない。久しぶりに会う友人に

 「今何してるの?」

 と聞かれることが、何より怖くなった。私は古い友人と関わることを避けるようになり、一人の世界に閉じこもった。私には「無職」という肩書と、やっかいな痛みしかない。いつしか劣等感の塊になっていた。輝いている同級生たちに会う勇気が持てず、成人式には出られなかった。

 転機は二十一歳の夏に訪れる。母が、ある会社のパンフレットを持って仕事から帰ってきた。それを見ると、そこはパソコンを中心とした職業訓練をしている会社のようだった。しかも短時間である。私はすぐに面接を受けに行った。

 面接でまず、私は予防線を張った。

 「中卒です。腰痛のために立ち仕事もできません。それでも受け入れてもらえますか」

 所長は即答した。

 「全然良いですよ! やる気さえあれば」

 コンプレックスである学歴と健康状態を打ち明けた私に、所長は笑顔で答えてくれた。うれしかった。ここしかないと思った。

 その会社ではとにかくやる気を買ってもらえた。必要とされたパソコンの資格をとり、私はずっと失っていた自信を取り戻していった。この頃には、ストレスからひどくなっていたぜんそくがうそのように無くなっていた。尊敬する人のもとでやりがいを感じる仕事ができる。そんな自分がそこにはいた。

 「不幸な顔をするのはもうやめよう」

 と、そう思えた。頑張って働き続け、二十三歳になったとき、私には次の目標ができた。

 「大学で福祉の勉強がしたい」

 それは私のように社会で普通に生きていくことが困難な人の力になりたいと思ったのと、私を救い上げてくれた会社のような場所で自分も働きたいと思ったのがきっかけだった。

 目標ができたものの、私の体では普通の大学生活を送ることはできない。母に相談すると、通信の大学はどうかなと勧めてくれた。

 大学の説明会に行くと、社会人になってもなお学ぼうという意欲にあふれた人がたくさんいた。

 「生き方は一つじゃない。ここで頑張ってみよう」

 私は前向きだった。

 今年でその大学に入学して三年目になる。若い頃思い描いていた大学生活とは違うけれど、今は自分のペースを見つけ、勉強も軌道に乗っている。大学を卒業して、自分を救い上げてくれた会社のような温かい場所で、学校生活でつまずいている子や、社会に居場所がないという誰かの役に立てる人間になりたいと思う。

 生きている限りいつ何が起こるかわからない。しかし、どんなに先の見えない人生にも先がある。今、私の心は快晴である。



 《横顔》  形にしたかった経験

 「いつか形にしたい」と思っていた痛みと自分についてつづった。「自分の書いた文章を読んでもらえるだけでなく、評価してもらえたことに喜びを感じた」と受賞を受け止める。

 けがや病気の影響から同級生とタイミングが合わない生活を送ってきた。「『話す』機会があまりなく、自然と書いて表現することが多くなった」と振り返る。応募は母親の勧め。「体験や思い、葛藤など書きたいと思うことがたくさんあった」。原稿用紙5枚に収めることに一番時間を掛けたという。

 東北福祉大通信教育部で学ぶ。リポートの合間に書いた文章を本紙「日報論壇」に投稿してきた。「書くことを続けていきたい。次は長編に挑戦したい」。前向きに世界を広げていく。

 盛岡市みたけ5丁目。26歳。同市出身。


優秀賞 魔法のことば 熊谷千佳子


 母を歯医者に連れて行った帰り、福祉タクシーの運転手さんが「今日石割桜満開だからちょっと前通っていきますか」と言ってくれた。車椅子の母を思ってくれたのかとありがたくて少し弾んだ声で「見ていこうよ」と母の眼をのぞき込んだら、イヤというふうに顔をそらす。認知症で要介護5の母は歯の治療だけでへとへとなのだと思ったが「お願いします」と言って道を一本大回りして石割桜の前を通ってもらった。

 運転手さんは少しだけスピードを落としながら「今年はいつもよりピンクっぽいような気がするんだけど気のせいかなあ」と言ったのを受けて「いつもよりピンクだって」と母の肩をちょっとたたいて窓の外を指さしたが反応はない。あっという間に通り過ぎてしまう。気遣ってくれた運転手さんに申し訳ないなという気持ちと、母と一緒に桜を見るのは最後かもしれないなという感傷的な気持ちに支配されちょっと憂鬱(ゆううつ)になった。

 私はすぐさまその憂鬱を心の奥の方にある「あとで」と書いた引き出しに入れておくことにする。長年にわたる介護で培った私なりの技だ。とりあえず今は考えない。そうするとなんとなく感傷的な気持ちを俯瞰(ふかん)で見ることができて心が軽くなるような気がするのだ。そして「あとで」と思っていても新たな「あとで」が追加されて、しまいにはなんだったのかも忘れてしまったりした。

 十年前、介護生活が始まった頃には次々にやってくるどこに振り分けたらいいかわからない感情に負けて疲弊し暗澹(あんたん)たる気持ちになり、何か自分をうまくコントロールして気持ちを少しでも前向きにするテクニックが必要だと考え始めた。そんなときに「あとで」を思いついたのだ。いわば演劇の幕間のようなものだが効果てきめんで魔法の言葉だと思い、そう決めてからはなんでもかんでもその引き出しに入れた。

 しかし父の入院という事態から、もはや自分をちょっとだますような「あとで」という小技ではまったくどうにもならないくらいの忙しさに疲労困憊(こんぱい)してしまい、魔法の言葉はだんだん効果がなくなってしまう。しかも効果がなくなるどころかその引き出しに入れた数々の負の感情は澱(おり)のようにたまり、黒々とした訳のわからない恐ろしい大きな塊となって私を毒するようにさえなってきた。

 母に何の言葉もかけられない。好きな氷川きよしの曲を歌ってあげるのもいやだ。寝る前の手のマッサージもしてあげず、デイサービスから帰ったら一刻も早く寝てほしいと思い、なんでも急がせた。そして母が寝静まったあと自分の殻にこもり、その黒々とした恐ろしいモノと向き合いながらうんざりし「もうどうでもいい」と吐き捨てるように言った。その声は冷たく枯れて恐ろしく、私の正体を知り、自己嫌悪し、ほとんど眠れない夜が明けてまた一日が始まるのだ。

 うつろな気持ちで母の支度をし、ご飯を食べさせる。いつもなら無理にでも笑顔で元気に話しかけるのだがもうできなかった。

 そして夜、めいったまま無言でパジャマに着替えさせていると母が「ごめんや」とぽつりと言った。私ははじかれたように母を見た。その日初めて母の眼を見た。そこにはおびえたような眼のなかに私を気遣い、慰め、いたわり、感謝するさまざまな心があふれている。今まで一度も「ごめんや」などど言ったことはないのに、言えないはずなのに、絞り出されたその言葉に打ち抜かれた私は「大丈夫、大丈夫だよ、大丈夫」と母の背中や肩や手をなでながら何度も何度も繰り返した。

 母が大丈夫なのか、私なのか、それともどちらもなのか訳もわからず言い続けると母は「うん、うん」と言いながら安心したように少しおどけたように見えるいつもの顔をして笑った。

 私は黒々とした恐ろしい「あとで」の澱から解放されて正気になり母の眼を見て「おやすみ、またあした」といつもの声で言って規則正しい寝息が聞こえるまでそばにいて手を握っていた。

 なんのことはない、魔法の言葉は母が持っていたのだ。それはまやかしではない、技でもない、私の感情のすべてに寄り添い、救い、癒やし、認知症でさえも奪うことのできない母親という魂をまとった言葉だ。

 その言葉の力に私のただの感情のゴミ捨て場だった「あとで」の引き出しは消え「ごめんや」という小さい声がのこった。



 《横顔》  母への反省文つづる

 10年続いた母親の在宅介護は施設入所により終わった。「介護ロス」のような心の状態を受け入れられず、気持ちの区切りを付ける手段として書いた。応募するかどうかを迷いながら1カ月ほどして読み返し、手直しをした。

 「結果的に母への反省文のようになったと思う」。母親への愛情の裏返しのように重くなっていく心情を細やかに表現した。「うれしいというよりびっくりしたのが本音。介護というテーマは自己満足的になりがちなので」と驚く。

 高校卒業後、東京の短大に進学し就職。介護のために離職し、古里に戻った。これからも「書きたいエピソードがあった時に気ままに書いていきたい」。めいの熊谷奈南さんは前回優秀賞、今回は佳作に入った。

 盛岡市上田1丁目。59歳。同市出身。


優秀賞 のんべぇたちの攻防 山口トヨ子


 町内の公民館で定例の会合が持たれた日の午後、会も終わり腰を浮かしかけたときだった。役員の一人が数本の四合瓶を抱え、

 「良かったら、少し味見でもいかがです?」

 と、誘っている。「どぶろく」だった。遠野特区で買い求めてきたとのこと。

 そうと決まると、いける口の数人で手際よく机と椅子が片づけられ、畳敷きの床に思い思いの車座ができた。居並ぶ8人ほどの面々が見つめる中、乳白色を帯びた液体がトクトクと音を立てそれぞれのぐいのみに注がれていく。

 ふわっと、柔らかなアルコールを含む香りが辺りを包んでいった。口に含むと思いのほか甘い。が、キュッとした喉ごしがあらためて酒であることを実感する。どぶろくってこんなに奥深い味だったのかと意外な気がした。

 舌の先から、いつも一緒だった祖父と幼い日の私がふいに浮かんできた。

 子どものころ、育った地域では清酒に対しどぶろくのことを濁酒(だくしゅ)と名付けていた。

 昔から今に至っても、密造酒は御禁制となっている。20年代初めのころ、冠婚葬祭や特別な晴れの日のもてなしには表向き清酒が供されたが、部落の寄り合いや晩酌はもっぱら自家用のどぶろくだった。禁止となっていても清酒は高額で、日々の癒やしにはならなかった。

 そのころのどぶろくは度数もかなり低く、造り手によってはあまりにも雑味で、濁酒も売買さえしなければ案外大目に見てもらっていたらしい。だが法は法であった。時々、お上の通達で役人が村々を回り、密造酒を取り締まり現物を没収し、厳しい叱責(しっせき)があったと聞く。酒税務が来ると、静かな村は一変した。

 「シュゼム(酒税務)来たずョ」

 「シュゼムにめっけられで、もっていがれですまったんだど」

 田植えを前にしてよく晴れた日、祖父が恐れていた酒税務がついにわが家にやってきた。私はまだ学校に上がる前、5歳前後だった。

 役人は祖父を従え、家の中から外へとどぶろくを探しまわる。家族は息をひそめ遠巻きに見守っていた。

 最後に牛舎の前にきた。小屋の隅にわらを束ねて作った小盛りに役人の目が留まる。中のどぶろくが今まさに熟成の時をむかえていた。辺りは牛舎の匂いと、酒の香りが満ちている。中に親子の牛がいた。干し草を伸べると長いまつげの下から、うるんだ黒い瞳で私の手をなめていくおとなしい牛だった。

 造り手の祖父も観念していたらしい。その時だった。2頭の牛はいつにない祖父のようすに何かを察したのだろう、親子は白目をむき角をふり立て役人を威嚇(いかく)していった。結局役人は牛が恐ろしく、没収をあきらめ、

 「今度は見逃すが、ほどほどにしてくれ…」

 と、立ち去っていった。じいさんは危機一髪で牛に救われた。

 互いの失敗談を披露しながら、造り手もやめるどころかあの手この手の仕込み場所も考えた。仕上がりの味にも競っていた節があった。

 近所に遊び仲間のA子がいた。A子のバアチャンの造る酒は、殊のほかうまいとの評判らしかった。なんでも連れ合いのジイチャンが出稼ぎ先の蔵元で手に入れる一握りの「塊っこ」がうま味を醸し出しているらしい。蔵元の酵母菌がうま味のもとかもと、うわさだった。

 その日もA子の家でカクレンボに興じていた。天井が高く薄暗い納屋は隠れる場所に事欠かない、ひんやり湿り気を帯びた土間には使われていない農具や、脱穀を済ませた稲わらが積み上げられていた。隅にひときわ大きな丸いおけが伏せてあり、その裏側に三角のスペースがあった。急いでもぐり込もうとした時、ヒンヤリとした先客がいた。一升瓶に入ったどぶろくだった。

 酒税務をいかに撃退させたか。とか、絶対見つからないと思ったのに。とか、悔し紛れの憂さ晴らしの酒盛りは盛りあがっていく。

 祖父のオハコは、いつも例の牛小屋の件だ。巧みな話術もみがきがかかり、落ちが分かっていてもまるで古典落語のように皆は笑いこけた。時々、小声で話すところをみると、子ども心に「本当は悪いことなのだ」とうすうす分かりかけていた。大人たちが思うほど鈍感ではなかった。

 「やっぱり、特区のはうまさもちがうナハン」

 度数も味も今風になっていた。

 近所のじいさんたちは、いろり端に陣取り時折の煙に目をしばたたかせ、トロリとした白いお酒に目を細めていた。

 私は、祖父の傍らで時々はぜる薪のパチパチという音と揺らぐ炎を見つめていた。薪をつぎ足す父、鍋を気にかけ立ち回る祖母と母。吸い寄せられて、見飽きることはなかった。

 どぶろくにまつわる懐かしい人たちは、優しい情景を伴い淡い水彩画のように次々と浮かんでは消えていく。



 《横顔》  思い出を生き生きと

 幼少時、地域の家々ではどぶろくをこっそりと造っていた。当時の大人たちの思い出話や自身の体験を、いつも一緒にいた祖父の姿とともに生き生きと記した。地区の会合の後に飲んだ懐かしいどぶろくの味に「いつか書きたい題材」と構想を温めていた。

 執筆は毎回、期限ギリギリになるという。今回も3日ほどで書き上げ、締め切りの当日に見直して応募した。入賞の連絡を受けて「まさかと思った。こんな古い話で良かったのかと自問自答した」と振り返る。

 優秀賞は、2014年の第9回に続いて2度目。11年には岩手芸術祭「県民文芸作品集」で最高賞の芸術祭賞を受賞した。これからも「楽しみながら書いていく」と自分らしさを大切にする。

 花巻市東町。73歳。同市出身。


(2017.7.8掲載)

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