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〜第10回〜

7人、晴れの受賞 岩手日報随筆賞

 岩手日報社主催の第10回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」贈呈式は18日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者7人と来賓、同賞前身の岩手日報文学賞随筆賞を含む歴代受賞者ら約60人が出席した。川村公司編集局長が選考経過を報告。東根千万億(あずまねちまお)社長が最優秀賞の花巻市石鳥谷町新堀、高橋久美さん(40)に正賞の「星の雫」像(照井栄氏制作)と賞状、賞金20万円を贈った。

 優秀賞の盛岡市東黒石野1丁目の高橋政彦さん(50)、田野畑村羅賀の上山(かみやま)明美さん(56)、滝沢市大釜の武田穂佳(ほのか)さん(17)の3人に賞状と賞金5万円、佳作の盛岡市青山1丁目の石川美鈴さん(40)、同市湯沢の柴田渚さん(38)、同市上飯岡の藤沢光恵さん(53)に賞状と賞金3万円が贈られた。

 東根社長は「家族への思いや自然と生命の関わりを印象的なエピソードに託して描きすばらしい作品ばかり。今回は、4年ぶりの男性入賞や、高校生の受賞があり、岩手の文芸振興を考える上で喜ばしい」とあいさつ。

 八重樫勝県教育委員長、鎌田英樹IBC岩手放送社長、詩人の城戸朱理(しゅり)選考委員長の祝辞に続き、受賞者を代表して高橋さんが「自分の病気をきっかけに、日常の中での生と死を考えた。岩手に生まれ育ち、この賞をもらえたのがうれしい」と謝辞を述べた。

 今回の応募総数は113編。予備選考を経て城戸委員長、平谷美樹(よしき)委員(作家)、千葉万美子委員(エッセイスト)が審査した。

【写真=第10回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」を受賞した前列右から、優秀賞・上山明美さん、最優秀賞・高橋久美さん、優秀賞・高橋政彦さん、同・武田穂佳さん、後列右から佳作・柴田渚さん、同・石川美鈴さん、同・藤沢光恵さん=18日、盛岡市愛宕下・盛岡グランドホテル】

(2015.7.19)


第10回岩手日報随筆賞決まる
−2015年−

 岩手日報社主催の第10回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の入選者が決まりました。

 最優秀賞は、花巻市石鳥谷町新堀、農業高橋久美さん(40)の「四月にツイート」が選ばれました。優秀賞は、盛岡市東黒石野1丁目、自営業高橋政彦さん(50)の「吸殻エレジー」、田野畑村羅賀、主婦上山(かみやま)明美さん(56)の「母が残してくれた、一枚の写真」、滝沢市大釜、盛岡四高3年武田穂佳(ほのか)さん(17)の「しるし」の3編です。

 佳作は、盛岡市青山1丁目、イラストレーター石川美鈴さん(40)の「小さな肩越しに見える夏」、同市湯沢、主婦柴田渚さん(38)の「七つまでは神の子」、同市上飯岡、支援学校非常勤職員藤沢光恵さん(53)の「最後の挨拶(あいさつ)」の3編。将来が期待される20歳未満の応募者が対象の奨励賞は該当作がありませんでした。

 贈呈式は18日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞の高橋さんに正賞のブロンズ像「星の雫」(照井栄氏制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞の3人に賞状と賞金5万円、佳作3人に賞状と賞金3万円がそれぞれ贈られます。

 今回の応募総数は113編。社内の予備選考を経た13編について、選考委員の詩人城戸朱理(しゅり)氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹(よしき)氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が審査しました。

(2015.7.12)


第10回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」
受賞者と作品紹介
 岩手日報社が2006年に創刊130周年を記念して創設した「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」は、第10回の今年、113編の応募があった。選考委員の詩人城戸朱理(しゅり)氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹(よしき)氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が6月23日、本社で選考会を開き、社内予備選考を通過した最終審査候補13編の中から、最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作3編を選んだ。最優秀、優秀賞の受賞作品を紹介する。

《選評》 題材に新たな視点を

 随筆を書くとなると、まず何を書くか、そして、どう書くかが問題になる。

 今年の応募作は、似た題材のものが多かった。具体的に言うと、母親や父親の思い出、介護や病、そして、子育ての苦労と喜びなどである。もちろん、そうした題材が、重みのあるものであることは言うまでもない。しかし、もっと独自の視点や切口で唸(うな)らせてくれる作品を読みたいと思ったのも事実だ。

 日々の営みのなかにも題材や重要なテーマは潜んでいる。ぜひ自分なりの題材を見つけて、清新な作品を書き上げてほしいと思う。

 最優秀賞「四月にツイート」は、作者の手術のための入院と退院後の静養という時間の経緯を背景に、野菜や鳥の声に生きている「今」の実感を語る作品である。

 自然だけではなく、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)のツイッターに着目したあたりも、主題を掘り下げるうえで効果を挙げているし、現在形で畳み掛ける文章のリズムも良かった。

 優秀賞「吸殻エレジー」は、最後まで最優秀賞を争った秀作。

 祖母が残した川柳がきっかけとなって、母とお喋(しゃべ)りしているうちに、思いがけず明らかになる祖母の夫への想(おも)い。出征して生死も分からぬ夫を偲(しの)ぶ祖母のエピソードが感動的だ。

 優秀賞「母が残してくれた、一枚の写真」も、一枚の写真に母が託した思いを描いて、印象深い。生後一歳で小児マヒのため、左足に障害を残した作者。それを苦にする母。作者を支えた一枚の写真は、形になった母親の愛情だったのだろう。

 それに対して、「しるし」は、「にきび」という、ささやかな題材から、思春期の心の揺らぎを描く爽やかな作品である。

 作者の気持ちの変化を描き切れていないところはあるが、にきびからでも一篇(ぺん)の随筆が書きうるということは重要だろう。

 生死に関わるような重大事ばかりが、随筆の題材になるわけではないことを意識して欲しい。

 (城戸選考委員長)


最優秀賞 四月にツイート 高橋 久美


 四月一週。入院の日が決まる。納屋で三年寝かせた味噌樽(みそだる)を開ける。蓋(ふた)を脇に置き、重しを持ち上げる。白と緑のカビが、たまり醤油(じょうゆ)の上に浮いている。味噌汁用の杓子(しゃくし)とボウルを使い、カビをすくう。甘い香りがもわりと漂う。味噌にカビは及んでいない。木べらでそっとなでる。つまんで口に運ぶ。角が取れたような塩味と豆の甘みの調和。微生物の息づく味。急に嬉(うれ)しくなり、大きめのボウルにもつもつと味噌を盛る。たまり醤油も別なボウルにすくって入れ、晒(さら)しでこして空き瓶に入れる。少量しか取れない貴重な調味料。三陸産の醤蝦(あみ)とフキノトウを刻んで入れたスパゲッティをこれで炒(いた)めたものが、春の定番になりつつある。

 週末、つかえて苦しい腹をなでながら畑仕事をする。シェリーという品種のジャガイモを植える。夏バテした時には、ジャガイモをふかす。塩とオリーブオイルを少々つけて食べると、疲れが取れていく。それが楽しみで、地表に芽が出てきた時は嬉しくて何度も厚みのある葉に触れてしまう。幅広の畝にはガーデンレタスと小松菜の種を蒔(ま)く。赤と緑の混在は美しく、畑のお気に入りの場所となる。ナスタチウムに金盞花(きんせんか)、食べられる花を添えてサラダを作ろう。色彩は心を満たす。

 四月二週。二度目の開腹手術。一度目は小さな子供が出てきた。今度は大きな腫瘍(しゅよう)が二つ。腹を切って子供を産んだり、腫瘍を取って生きようとしたりする。人間というものは不思議な生き物だな、と思う。他人の腹を切ってくれる人がいるからこそ、生きられることもある。ベッドから起き上がれない痛みに夜中、何度もナースコールを押す。訴えに応じてくれる人がいる。

 手術の翌日、雉(きじ)の声で目が覚める。窓の外には白い霧が立ち込めている。伴侶を求める力強い声に、痛みを一瞬忘れる。夜、流動食が始まる。重湯、葛湯(くずゆ)、スープ、味噌汁、どれも温かい。葛湯に手が伸びる。幼い頃、風邪を引くと母がよく薪(まき)ストーブの上で練ってくれたことを思い出す。昆布と鰹(かつお)だしの味噌汁は、すうっと身に染みる。食べるという行為の尊さを実感する。生きるために食べる。食べるから生きる。そんな言葉が頭をよぎる。自分や家族のために、この先どんな食事を出していこう。消灯後目を閉じ、納屋に眠る味噌樽のことを思い出す。

 四月三週。退院する。船酔いのような眩暈(めまい)がひどく、実家の世話になる。入院前、母に水遣(や)りを頼んだトマトとパプリカの苗がぐんと大きくなっている。長い間不在だった気がしてしまう。母は孫のために弁当を作り、保育園の送迎を続けてくれる。夫は一人、田の仕事に励む。私がいることを子供が喜んでいる。思うように動けない私は、ただ自分と向き合う。病む側からしか見えないものがある。健康である時、どれほど私は傲慢(ごうまん)であったか。治癒していく過程でまた見えなくなるであろう景色を、少しでも覚えておきたい。

 四月四週。穀雨という名のとおり雨が降る。翌日から晴天が続く。発泡スチロールの箱を利用した苗床で、きゅうり、オクラ、トウモロコシが育っていく。畑を見にいく。まるでダンスホールのようだと、思わず笑ってしまう。一面、踊り子草が覆いつくしている。ガーデンレタスが芽を出している。帰ってから、農薬を使わない野菜の育て方、雑草を生かす農法をネット検索する。同じ野菜でも、人それぞれに栽培方法が違う。これが正しいというものが、本当は存在しないことを無数の情報の中で知る。ふと、巷(ちまた)で使われる「ツイート」「ツイッター」とはどういう意味かと知りたくなる。調べてみると、「小鳥がさえずる」と分かる。(そうか、人もさえずりたいのだ。)胸が震える。ネット社会の中に個々の表現という命の根源を感じ、なぜか安心する。人は、自分のさえずりに応じてくれる相手を探しているのかもしれない。あの雉のように。

 週末、稲の種まきをする。動けない私は手伝いに来てくれた人の昼食を用意する。味噌とたまり醤油で味付けした豚汁を出す。たまり醤油が好評で、ただそのことが嬉しい。

 四月五週。自宅へ戻る。気がつけば桜は散り、緑が押し寄せている。味噌に始まり、鳥や草木、野菜の苗が、「生きる今」を次々と私に見せ付けた月。命ざわめく季節に沿いながら私も内から「今」を取り出して、並べてみればそれはさえずりのよう。ツイート、ツイート、生きてる限り終わることなく。私は時をピンで留めるように事象や湧き上がる感情を言葉に置き換える。誰かが応じてくれたら、と小さく願っている。

 田打ちが始まる。つがいの山鳩(やまばと)の羽音に驚いて振り向く。人参(にんじん)の芽が顔をのぞかせる。今年の梅漬けのことをもう考えている。



 《横顔》  等身大の言葉つづる

 卵巣のう腫の手術をした今年4月。入院前から退院後にわたる1カ月の出来事を、生き生きとした表現とツイッターのような簡潔な文章でまとめた。

 自身はツイッターを使わない。少し冷めた目で見ていたが、ツイートは「小鳥がさえずる」という意味だと知った時「だからみんなつぶやくのか」と感動した。

 その時の気持ちを表した「ツイート、ツイート、生きてる限り終わることなく」という一文を軸に、手術の数日後から病室で付け始めたメモを組み合わせ、作品に仕上げた。

 「佳作に入ればうれしい」との気持ちで応募したが、最優秀賞に輝いた。祖母と娘について書き初挑戦で優秀賞に入賞した昨年に続く受賞だが「実感があまりない」という。

 子どものころから手紙を書くのが好きだった。口ではうまく伝えられないことでも文字にすると分かってもらえた。高校の先生には「文章がおもしろい」と言われ「時々人に褒められたり、人とつながれたりするのが唯一、書くことだった」と振り返る。

 20代後半から随筆を手掛け始め、賞に応募。「等身大の普段使う言葉で、なるべく分かりやすいように」と心掛けている。

 執筆の支えは滝沢市に住む高校時代からの友人。応募前、一番最初に作品を読んでもらっており、特に食べ物の表現が好評だという。「最優秀賞を自分よりも喜んでくれた。受賞は率直な意見を言ってくれた彼女のおかげ」と感謝する。

 脱サラして新規就農した夫亮介さん(35)、「歌が大好き」という長女祿(さち)ちゃん(3)の3人暮らしに、今月から2カ月のヤギ「糀(こうじ)」が加わった。ヤギを飼うことは10年以上前からの夢。「北の文学」(岩手日報社発行)の69号に掲載された「山羊(やぎ)はまだ、来ない」と題したエッセーには、まだ見ぬヤギへの思いをつづった。

 「ようやくヤギが来た。ヤギ部門担当として農作業とヤギを組み合わせたり、ゆくゆくは、人の心を癒やすヤギセラピーなどをやりたい」と目を輝かせる。

 【たかはし・くみ】 盛岡市立高卒業後、実家の飲食店手伝いや障害者福祉施設、盛岡市動物公園などに勤務。13年から夫の新規就農に伴い、花巻市石鳥谷町で酒米作りに取り組んでいる。同町新堀。40歳。雫石町出身。


優秀賞 吸殻エレジー 高橋 政彦


 掃除中、本棚の奥から一冊の本を見つけた。亡き祖母が生前自費出版した自作の川柳句集だった。しばし片付けの手を休めてパラパラめくる。一編の作品に目が止まった。

 へそ曲がり どこの産婆が 取り上げた

 可笑(おか)しくなって、すぐにお袋に電話した。お袋は祖母の長女である。

 「へそ曲がりってじいちゃんのこと?」

 「うん、父さんのことだろうね」とお袋。

 大正生まれの祖父母が若い時分、結婚は今と比べ物にならないぐらい「家と家のもの」であった。結婚を決めるのは当人同士ではなく、周囲の大人たちだった。

 「母さんの場合、母さんの父親が勝手に決めてきたんだって。父さん、シャキッと背筋が伸びた日本男児だと評判だったようだから。母さんも納得して嫁いだらしいけど」

 「でも一緒に暮らしてみたら、へそ曲がりだったのが判(わか)ってきたと……」

 そこまで話して、電話のあっちとこっちで声を合わせて笑った。

 しばらくすると、豆大福を手土産にお袋がやって来た。話の続きがしたかったようだ。私たちはコーヒーを啜(すす)りながら昔話を続けた。

 「ここに来ながら考えたんだけど、へそ曲がりって父さんのことだけじゃないかもしれないなと思ってさ」。お袋が言う。

 お袋もまた祖母と同様、若い頃から川柳を趣味としてきたので、作品の真意を読み取って解説するのはお手のものなのだ。

 「へぇ、誰のこと?」

 「姑(しゅうとめ)。つまり旦那(だんな)を産んだ母親のことを遠回しに、へそ曲がりめ!って思っていたんじゃないかな」

 祖母の姑さん……私から見ると曾祖母である。今から四十年近く前、九十八歳で大往生したが、今でも頑固者だったとして一族の中では有名な伝説の女なのである。

 「なるほど。確かに子供心におっかないババアだと俺も思ってたもんな。漫画の『いじわるばあさん』に似てたよね」

 「確かに!」と、お袋は愉快そうに笑いながら「旦那のことを言っているように見せておいて、実はそれを生んだ親を皮肉って詠んだ可能性は大だな」と言った。「かなりの強情っ張りですな」と私も声を出して笑った。

 「厳しく嫁教育しようとしたんだろうけど、気分屋の婆(ばあ)さんだったから、教育の域を越えて理不尽なことも結構言ったんだと思うよ」

 話を聞きながら、家柄や周りの大人たちの都合で決められた相手と結婚生活していくというのはどんな感じなのだろうと考えていた。ともに生活するうち、やがては互いを認め、尊敬し合い、本当の夫婦となっていくものなのだろうか。それとも納得できず、本音も話せないまま、それが運命なのだからと割り切るしかなかったのか。

 「でも、いろいろあったようだけど、母さんは父さんのことを愛していたんだと思う」

 コーヒーを一口飲んで、お袋が呟(つぶや)いた。

 「私がずいぶん小さかった頃、父さんが戦争に行くことになって、出征祝いの宴会がうちで行われたんだよ」

 今思えばとても悲しい祝宴だ。私はお袋の話に身を乗り出して続きを聞いた。

 「古くからの友人や知人がたくさん集まって酒を酌み交わし、母さんは忙しそうにお給仕していた。宴会がお開きになって、父さんも酔って寝てしまった後、静かになった座敷で母さんは火鉢に捨てられている煙草(たばこ)の吸殻を一つずつ拾って袋に入れていた。私は母さんに何をしているのって聞いたんだよ」

 「何て答えた?」と私が聞く。お袋は軽く首を振って「ただ笑っただけだった」と言った。そして「だけどね」と続けた。

 「後で判ったんだけど、父さんが吸っていた銘柄の吸殻だけを拾い集めていたんだって。一度だけ見たことあるんだ。父さんが戦争に行った後、その吸殻に火をつけ吸っている母さんを。ポロポロっと涙を零(こぼ)しながらね」

 語るお袋の目にも光るものがあった。

 祖母は時折そうやって、取っておいた祖父の煙草の吸殻を出して来ては吸っていたようだ。私は、幼子を抱えながら、主なき家に残された嫁と、昔気質(かたぎ)の姑だけの生活を想像してみた。きっと淋(さび)しくて胸が張り裂けそうな夜が何度もあっただろう。そんな時、祖母は遠い戦地にいて生死も判らない夫を誰よりも近くに感じたいと思ったのではないか。一つの吸殻を挟み、唇と唇で夫婦は会話していたのかもしれない。

 「へそ曲がり達に囲まれて大変だったろうけど、その家族や川柳の心を拠(よ)り所にしながら幸せだったんだろうね。どうあれ家族が悲しい思いをする戦争は二度とあってはいけない。孫や曾孫(ひまご)やそのあとの時代もずっと」

 お袋の言葉は、懐かしい祖母の声と重なって聞こえた。



 《横顔》  祖母の姿、書き残す

 今年6月は祖母の13回忌だった。戦中、戦後と激動の時代を生きぬいた祖母の思い出をつづった。祖母も文章を書くのが好きだったので、入賞はうれしかった。初孫として役立てた気がした。

 小説の材料を探していた時に見つけた吸い殻をめぐるエピソード。現代と異なる家族関係と、その中で生きた祖母の姿をどうにかして書き残したいと思った。加えて「時代は繰り返す」とは言うものの、繰り返してはいけない戦争の歴史もあるというメッセージも伝えたかった。

 第5回岩手日報随筆賞(2010年)で佳作、小説が岩手日報社発行の「北の文学」68号(14年5月)で入選。エッセーやコラムを書き続け、紀行文も修練を積みたいと思う。09年から携わる自主制作映画とも連動させた作品も意識している。

 盛岡市東黒石野。50歳。宮古市出身。


優秀賞 母が残してくれた、一枚の写真 上山 明美


 今から三十二年前、私の結婚が決まった時「一生、大事に持っていなさい」と言って、母が私に手渡してくれた物。それはセピア色の一枚の写真でした。その写真には、一歳になって間もない私が、歩き始めたばかりなのか、慎重に一歩を踏み出そうとしている姿を近所の、お兄さん、お姉さん達が優しく見守っている様子が写っていました。どこの家のアルバムにも、ありそうな写真ですが、この一枚の写真が、のちに母や私にとって、大きな意味を持つ事になりました。

 この写真が撮られた数日後、私は高熱を出し、受診した病院の医師から親に告げられた病名は、「小児まひ」でした。正式な病名は「急性灰白(かいはく)髄炎(ずいえん)」。一般には「ポリオ」とも呼ばれ、後遺症として、四肢に機能障害が残る病気。ちょうど、この頃、岩手県沿岸ではこの病気が流行しており、それに私も罹患(りかん)してしまったという事です。初めて授かった子供が、わずか一歳で障害を背負う事を宣告された両親の気持ちは、いかばかりであったか、想像すら出来ません。常々、母は、「病気が流行(はや)っているから、隣町まで行って、予防接種を受けてきたのに。知り合いには受けていない子もいるのに、なんで、明美が」と話していました。今のように交通の便が良くなかった時代、隣町に行って来るのは一日がかりでした。そんなにして受けた予防接種だったのに、私は病気になってしまった。本当に悔しそうに話す母の顔が、今も浮かびます。

 病気により左足に障害をきたした私は、母と一緒に、宮城県にある温泉病院で、治療とリハビリの目的で、数カ月間を過ごしたようです。一歳になったばかりの私には、その時の記憶は全くなく、実家に残る古いアルバムの中に、病院での様子らしい写真が数枚ありますが、母は、この病院での事を、あまり話してはくれませんでした。障害を持った者に対して、まだまだ、偏見が強かった時代。もう一生、自分の足では歩けないかもしれない我が子を見ながら、母は何を思い、何を考えていたのか。「何もわからない明美は、いつも、無邪気に笑っていた。それが救い、生きる力だった」と言ってくれた母。良い伴侶を得て妻となり、子を持って母となり、幸せな家庭を築いてほしい。親なら誰もが願う、当たり前の、普通の幸せを、自分の娘は手にする事が出来ないかもしれない。その時の母の気持ちを思うと、胸が張り裂けそうになります。

 治療とリハビリの効果があったのか、私は跛行(はこう)ながら歩けるようになりました。生活に不便がなかった、とは言えませんが、不自由な左足を引きずりながら、近所の子供達と遊び、学校も、小学校、中学校、高校と、普通校で学ぶ事が出来ました。新しい仲間が出来る都度(つど)、「足、どうしたの?」と聞かれる事は、正直なところ、とても嫌でしたが、「病気」と軽く受け流していました。

 いつの頃からか、母は私に、一生、大事に持っているようにと言った写真を見せては、繰り返し話してくれました。「明美の足が悪いのは、けっして生まれつきではない。元気に生まれて、しっかりと自分の足で歩いたけれど、病気になってしまった。入院した時、同じ部屋に明美と同じ病気の子が六人いたが、補助具なしで歩けるようになり、自分の足で退院したのは明美だけだった。明美の足は生まれつき悪くはなかった。病気のせいだけど、一人で歩けるようになった。それだけでも、幸せだと思って、誰も恨んではいけない」。私を支えてくれた言葉です。こう言っていた母が、一度だけ、「病気にして、ごめんね」と泣いた事があります。足が悪い事で、私が希望する専門学校への入学が危ぶまれた時です。小・中・高校と、普通学校に通えた事などが考慮され、無事に入学する事が出来ました。「足のせいで、もし、明美が希望する学校に入れなかったら、ごめんね」と言って、泣いた母。私は、私の病気の事で泣いた母の姿を、初めて見たのでした。

 専門学校で学んだ資格をいかして、就職する事もでき、ほどなく、現在の夫と結婚。二人の子供にも恵まれ、孫もできました。結婚する事になった時、存在すら忘れかけていたあの写真を出して、昔のように、「足が悪いのは生まれつきではない。病気のせいだ」と話し、「証拠写真だから、一生、大事に持っていなさい」と言って手渡してくれた母。足の事を遺伝的な病気と疑われないように、という思いがあった事を、後から知りました。

 障害はあったけれど、卑屈になる事なく、前向きに生きてこられたのは、写真を見せては、私を諭してくれた母のおかげだと感謝しています。娘が障害者となった時から、将来の事を心配して、一枚の写真を大切に保管して手渡してくれた母。母が私に残してくれた写真は、今日も私を見守っていてくれます。

 母が残してくれた、一枚の写真。こんな素晴らしい物を、私に残してくれた、お母さん。本当に、ありがとうございます。



 《横顔》  感謝の思い行間に

 結婚する時に母から手渡された幼いころの写真は、いつも自分を支えた。幸せを願ってくれた母への感謝が行間からにじみ出る。

 7年前、26年間勤めた職場を辞めた。時間に余裕ができ、これまでの人生を振り返った時、子供のころには分からなかった親の心情が、自分も母となった今、少しは理解できるようになった。

 2012年「60歳のラブレター」家族の絆部門金賞、14年第21回日本一短い手紙一筆啓上賞佳作などの受賞歴はあるが、岩手日報随筆賞は初めての応募。書き始めると、家族のさまざまな思い出が頭を駆けめぐり、涙が止まらず、筆も進まなかった。

 それだけに受賞は驚きだが、これからも日々の生活の何気ない一こまを「おばさん目線」で表現していきたいと思う。

 田野畑村羅賀。56歳。宮古市出身。


優秀賞 しるし 武田 穂佳(ほのか)


 今朝、顔を洗うとおでこの辺りに違和感があり、鏡を見てみるとやはりにきびがあった。それも、けっこう大きい。仕方なく今日は前髪に分け目を作らずにヘアアイロンをあてた。家に帰ったら潰(つぶ)して薬を塗ろう。気分が落ちるのと一緒に食欲も失(う)せてしまって、ろくに食べないで家を出た。後ろからお母さんが何か言っているのが聞こえて、たぶんほとんど残してしまった朝ごはんのことだろう、小さな声で、「わかってるよ」と言った。

 外は雨が降っていた。青に赤い縁取りの傘はお気に入りで、いつもならさせば雨もおしゃれに思える。でも今日はただの傘だった。じっとりと湿った空気と生臭いにおいに、思わず顔をしかめる。水たまりは避けて歩いているつもりでも、知らないうちにローファーに雨が染み込んできた。だけどそれも、しばらく手入れをしていなかったしちょうどいいかもしれない。埃(ほこり)っぽいバスに乗り込んで、入り口のすぐ後ろの座席に座った。窓の外を見ると、黄土色に曇った北上川がざぶざぶと流れている。岩手山は怪しく雲に隠れていた。広い広い北上川の上をゆっくりと通り過ぎて、車内に視線を戻す。すると斜め前の制服を着た女の子と目が合って、すぐに向こうから逸(そ)らされた。それで私もハッとする。前髪に手をやると外で風に吹かれたせいか少し乱れていて、慌てて乱暴に整えた。……にきび、見てたのかな。自意識過剰だとわかっていてもそう思わずにはいられない。誰にも気づかれないように、細く長くため息をついた。

 雨粒をいくつも付けた窓ガラスに、今の私が映っている。だるそうに開かれた目、唇の辺りがむすっとしていて可愛(かわい)くない。ぶさいくな私の上を通り過ぎる、雨の盛岡の景色。ごっ、と小さな音を立てて、窓ガラスに頭を押しつけた。にきびがおでこに一つ付いているだけで、どうしてこんなに憂鬱(ゆううつ)だろう。

 思えば小さい頃は、にきびに酷(ひど)く憧れていた。少女漫画の主人公が鏡でにきびをじっと見つめた後、小さくため息をつく姿はとても大人びて格好いいものに思えたし、好きな男の子にそれをからかわれたりしているのも羨(うらや)ましかった。小学六年生になり頬にそれらしい赤いでっぱり(できものと呼べる大きさではなかった)ができた時、私の目には鏡の中の自分がいつもより新しく、素敵(すてき)に映った。にきびはいじると良くないということは調査済みだったから、必死でそのでっぱりを引っ掻(か)いて、わざわざ好きな男の子に見せに行ったりもした。だけどそのでっぱりは次の日はきれいさっぱりなくなっていて、肩を落としたのを覚えている。私だけの、特別なしるし。当時はにきびのことを、そんな風に思っていた。

 その夜、家に帰ってもいつも通り潰してしまおうという気持ちになれなくて、おでこを剥(む)き出しにしたまま洗面所で鏡の中のにきびをじっと睨(にら)んだ。──私だけの、特別なしるし。白く膿(う)んだそれにそっと指先をあてると、ビーズのようにぎゅっと硬くて、憎たらしいような、だけどいじらしいような不思議な気持ちになる。そして私はまるで自然に蛇口に手を伸ばしていた。ばしゃばしゃと顔を濡(ぬ)らして、薄緑の石鹸(せっけん)を丁寧に泡立てる。途中、今朝の女の子のことを思い出してたまらなくなりながら、にきびを撫(な)でるようにして顔を洗った。畳まれたばかりの、まだ外の匂いが残っているタオルで顔を拭いて、もう一度鏡を見る。私はにきびを潰さないことにした。にきびは青春のシンボルだ、という言葉を聞いたこともある。今朝のあの苦い気持ちも、今だけの、私だけの、特別なしるしなのだ。

 次の日鏡の前に立つと、いくらかましになったにきびに思わずにんまりとした。私はまた薄緑の石鹸で丁寧に顔を洗い、ふと思い立って洗面所の窓を開けてみる。すると朝の冷えた空気が流れ込んできて、まだ湿っている肌をひやりと撫でていった。昨日とは打って変わって晴天だ。青く高く、からりと晴れている。くっきりと像を結んだ岩手山は、なんだか満足そうに見えた。新しい空気を吸い込んで、ヘアアイロンの電源を入れる。

 今日は自転車で学校に行こう。きっと前髪は風に捲(めく)れて、おでこのしるしを見せびらかしながら。しゅるんと袖を通した制服の紺色が、いつもより明るく見えた。



 《横顔》  思春期の感情表現

 額のにきびをめぐって揺れ動く気持ちをみずみずしい文章でたどった。誰でも体験する思春期の感情が共感を呼ぶ。

 青春のシンボルとも呼ばれるにきびだが、できてしまうと憂うつになり、気になって楽しい時間も満喫できなくなる。

 しかし、薬を塗って小さくなっていくのを見るのがうれしい半面、少しさみしい気もする。こんな今だけの気持ちを忘れたくないという思いを込めた。

 高校では文芸部の部長を務める。受賞作は、先輩のアドバイスを受けながら、2カ月かけて書き上げた。部誌づくりなどで忙しく「いっぱいいっぱいになっていた」ので入賞が励みに。

 今回の経験を自信に変え、高校生活最後の県や全国の文芸コンクールに全力を注ぎたいと決意する。

 滝沢市大釜。17歳。同市出身。


(2015.7.12掲載)

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