WWW http://www.iwate-np.co.jp

〜第9回〜

輝く感性に栄誉 岩手日報随筆賞贈呈式

 岩手日報社主催の第9回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」贈呈式は19日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者7人と来賓、同賞の前身の岩手日報文学賞随筆賞を含む歴代受賞者ら約60人が出席した。川村公司編集局長が選考経過を報告し、東根千万億社長が最優秀賞の雫石町西安庭、小川クニさん(83)に正賞の「星の雫」像(照井栄氏制作)と賞状、賞金20万円を贈った。

 優秀賞の奥州市水沢区南大鐘の佐藤洋子さん(63)、花巻市石鳥谷町新堀の農業高橋久美さん(39)、同市東町の山口トヨ子さん(70)の3人に賞状と賞金5万円を贈呈。

 佳作の奥州市水沢区中田町の神田由美子さん(62)と同市前沢区新城の臨床検査技師沼倉規子さん(63)に賞状と賞金3万円、20歳未満対象の奨励賞は盛岡市向中野の岩手大2年佐々木もなみさん(19)に賞状と図書カード(1万円相当)が贈られた。佳作の盛岡市名須川町の中村幸子さん(64)は都合で欠席した。

 東根社長は「子どもを守る母の強さ、家族への思い、古里賛歌と、岩手の随筆賞にふさわしい受賞作ばかり。今後も創作意欲を高め、執筆に励んでほしい」とあいさつ。

 八重樫勝県教育委員長、鎌田英樹IBC岩手放送社長、詩人の城戸朱理(きどしゅり)選考委員長の祝辞に続き、受賞者を代表して小川さんが「ますます書く意欲が湧いてきた。これからも勉強を重ね、人の心に響く文章を目指したい」と謝辞を述べた。

 今回の応募総数は112編。予備選考を経て城戸委員長、平谷美樹(よしき)委員(作家)、千葉万美子委員(エッセイスト)が審査した。

【写真=第9回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」を受賞した前列右から優秀賞・高橋久美さん、最優秀賞・小川クニさん、優秀賞・佐藤洋子さん、同・山口トヨ子さん、後列右から佳作・沼倉規子さん、同・神田由美子さん、奨励賞・佐々木もなみさん】

(2014.7.20)


第9回岩手日報随筆賞決まる
−2014年−

 岩手日報社主催の第9回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の入選者が決まりました。

 最優秀賞は、雫石町西安庭、小川クニさん(83)の「ゆりかごごっこ」が選ばれました。優秀賞は、奥州市水沢区南大鐘、佐藤洋子さん(63)の「アゲハチョウ」、花巻市石鳥谷町新堀、農業高橋久美さん(39)の「素敵な板挟み」、花巻市東町、山口トヨ子さん(70)の「おもかげ」の3編です。

 佳作は、奥州市水沢区中田町、神田由美子さん(62)の「オシラサマ伝説」、奥州市前沢区新城、臨床検査技師沼倉規子さん(63)の「蓬餅(よもぎもち)」、盛岡市名須川町、中村幸子さん(64)の「最後の言葉」の3編。将来が期待される20歳未満の応募者が対象の奨励賞は、盛岡市向中野、岩手大2年佐々木もなみさん(19)の「あなたが育てた私の世界で」が選ばれました。

 贈呈式は19日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞の小川さんに正賞のブロンズ像「星の雫」(照井栄氏制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞の3人に賞状と賞金5万円、佳作3人に賞状と賞金3万円、奨励賞は賞状と図書カード(1万円相当)がそれぞれ贈られます。

 今回の応募総数は112編。社内の予備選考を経た14編(奨励賞対象作品を含む)について、選考委員の詩人城戸朱理(しゅり)氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹(よしき)氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が審査しました。

(2014.7.13)


第9回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」
受賞者と作品紹介
 岩手日報社が2006年に創刊130周年を記念して創設した「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」は、第9回の今年、112編の応募があった。選考委員の詩人城戸朱理(しゅり)氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹(よしき)氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が6月25日、本社で選考会を開き、社内予備選考を通過した最終審査候補14編の中から、最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作3編、奨励賞1編を選んだ。最優秀、優秀賞の受賞作品を紹介する。

《選評》 まず読者を意識して

 随筆は、自由にテーマを選んで、気の向くままに書く文章なわけだが、自由と言っても、独りよがりでは読者の共感は得られないし、気ままと言っても、構成がしっかりしていないと、伝えたいことが伝わらない。随筆を書くのならば、まず読者を意識してもらいたいと思う。

 随筆では、まず文章力が問われることになる。読みやすく、意味をはっきりと伝えるという点で、今回の候補作は、いずれも高い水準を示していた。

 最優秀賞「ゆりかごごっこ」は、後妻の子供というだけで、いわれないいじめにあった幼少期の思い出と、母への複雑な想(おも)いを描いて感銘を呼ぶ。

 感情的で激しい性格だった母。母性的なところがなく、優しくされた思い出もない。しかし、年齢を重ねて、ようやく分かる想いがある。母親との和解に至る心の動きが、巧みに描かれている。

 優秀賞「アゲハチョウ」は、三十年以上前に、息子が風疹をこじらせて入院し、なんとか一命をとりとめたときの記憶を、アゲハチョウの幼虫を飼育した思い出と重ねて物語る。

 子供を案じる母親の切迫した気持ちとアゲハチョウにまつわる記憶の対比が、効果を高めている。

 「おもかげ」もまた、遠い記憶から、家族の肖像を描く作品である。

 三歳で水死した長女。六十余年前の長女の面影を宿した石地蔵を探し続けた父。家族の絆をあらためて感じさせてくれる。

 「素敵な板挟み」は、二歳半の娘の新鮮な世界の見方と八十八歳になる祖母の言葉に相通じるものを発見する作者の視点が素晴らしい。

 すべてのエピソードが有機的に結びつき、読後感も爽やかだ。

 候補作は、過去の思い出に材を取るものが多かったが、それだけに昔の話と今の思いという時系列をきちんと分けて書いて欲しいという声と、過去を振り返るだけではなく、自分が生きる今を書いた作品を読みたいという意見があったことを報告しておきたい。

 (城戸選考委員長)


最優秀賞 ゆりかごごっこ 小川 クニ


 さくらさくら

 やよいのそらは

 みわたすかぎり

 かすみかくもか

 あの日のことを、八十年経(た)った今も、鮮明に思い出す。大きな農家の庭先で、私たちは「ゆりかごごっこ」をしていた。年長のふたりが向かい合って両手をつなぎ、そこに小さな子を乗せて、「さくらさくら」の歌に合わせて揺らす、という遊びである。

 私の番がきて、その手の上に腰掛けようとしたとき、そこの家のおばさんが、ガラッと戸を開けて外に出てきた。そして「こら、やめろ。その子を乗せるな」と言う。「どうして?」と怪訝(けげん)な顔をする子どもたちに、「そいつはごけのこっこだからよ」と言った。

 ごけのこっこ、って何のことだろう。三歳の私が初めて耳にする言葉だった。家に帰ったら聞いてみよう。私は忘れないように「ごけのこっこ、ごけのこっこ」と、歌うように呟(つぶや)きながら、家に続く坂道をのぼった。

 私の母は五人の子のいる父のところへ嫁ぎ、そして私が生まれた。後家(当時は「後妻」を、このように言うのが一般的だった)の子として生まれたということが、私のその後の人生に、ついて回った。

 小学校に上がると、いじめが始まった。下校時に、笹藪(ささやぶ)に隠れて待ち伏せし、石をぶつける子たちがいた。冬はそれがぎっちりと握った雪玉に代わった。姉のお古を着て学校に行くと、後家の子だから汚いと言い、たまに新しいものを着ていくと、後家の子のくせに生意気だ、と髪を引っ張った。

 私がいじめられたのは、単に母が後妻であるという理由からだけではなかったかもしれない。母は激しい性格の人であった。少しでも口ごたえをすると、そばにある物−茶碗(わん)でも火箸でも包丁でさえも−が飛んでくるので、履物をはく間もなく、裸足で外へ逃げなければならなかった。火傷(やけど)しそうな真夏の土の熱さも、痛みにも似た雪の冷たさも、私の足裏が覚えている。

 母の激しさは家の外にも向かっていた。周りに合わせず、感情のままにものを言うので、近所との諍(いさか)いも多かったようである。

 そのような母を私は、恥ずかしく思い、反発し、憎みさえした。母がそんな人間だから、私はこんな目に遭うのだと。私は母を反面教師とし、「ごけのこっこ」と呼ばれる悔しさをバネに、生きてきたように思う。

 母への見方が変わったのは、母が九十歳を超えた頃だった。施設の庭を母の車椅子を押しながら歩いていた。庭の隅の数本の桜の木々が、絶え間なく花びらを散らしていた。木の下に車椅子を止めて、今来た方を見ると、散り敷いた花びらの上に、車の跡が二本くっきりと沈んで見えた。なんだか交じり合わなかった私たちの人生のようだと苦笑しかけたそのとき、思い出したのだ。

 小学三年生の春だった。学校帰りの道で、突然男の子たちに取り囲まれ、押さえつけられた。怖くて悲しくてあーんと泣いた私の口に、道に落ちていた乾いた馬の糞(ふん)を入れて、「ごけのこっこ、やーい」とはやし立てながら逃げていった。村の財産家の息子が、お菓子や飴(あめ)で言うことを聞く子分たちに命じて、やった仕業であった。

 ゲーゲー吐きながら泣いている私を見て父は、かわいそうにと涙をこぼした。母は、いくら何でも許せない、と言って、私の手を引いてその子の家に怒鳴りこんだが、「子供のけんかに親が出てくるなんて、みっともない」と嗤(わら)われ、相手にされなかった。私たち母子は、手をつなぎ、しょんぼりと家に帰った。

 一つ思い出すと、また一つ、と母が私のために憤ってくれた場面が浮かんできた。

 それまで私は、早くに亡くなった父の優しさだけを懐かしみ、徹底して母を認めなかった。母は乱暴でがさつでおおよそ母性的な人とは思えなかった。しかしあの日私の手を引いて、身分違いの家の主人に立ち向かわせたものは、子どもを守ろうという母性でなくて何であろうか。

 若くしてたくさんの子どもたちを育てなければならなかった母は、ゆりかごを揺らすようにゆったりとおだやかに、子どもに接することができず、不器用に激しく揺さぶり続けていたのかもしれない。

 母は風に流れる桜を見ていた。私はなぜか泣きたいような気持ちになっている自分に戸惑い、再び車椅子を押して、歩き始めた。

 それから五年後、母は亡くなった。炎がふっと消えるように、実に静かに。あの激しかった母の最期とは思えぬほどに。

 今私は、「ゆりかごごっこ」のゆりかごに乗れなかった三歳の私に、言ってあげたい気がする。ごけのこっこ、でいいじゃないの。あなたのおかあさんは、不器用だけれどもたしかにあなたを愛していたのよ、と。



 《横顔》  母がいて私がいる

 「積み重ねがあって現在の私がある。今の自分が幸せ」−。小川クニさんがほほ笑みながら振り返る半生は、結婚、出産、離婚、北海道の小学校勤務、再婚、夫との死別と文字通り波瀾(はらん)万丈だった。

 子どものころいじめっ子に対して抱いた「この人がたよりなんぼかえらい人になる」という思いを原動力に、盛岡市立女子商業学校(現・盛岡市立高校)に進み、岩手師範学校(現・岩手大)で教員資格を取得。働きながら4人の子どもを育て、うち3人は、自分と同じ教員になった。

 過去2回の応募では佳作。本作では「ごけのこっこ(後妻の子)」に生まれて受けたいじめや、その一因と考えた母への反感、そして年を重ねて気付いた母の愛情を描いた。桜がつなぐつらい過去と穏やかな今。随筆を締めくくる肯定の言葉は、母にも自らにも許しを与えているように響く。

 「激しい性格」と記す母の逸話は、書き切れなかったことが多い。早生まれで体が小さかった小川さんの小学校入学を1年遅らせようと、役場に直談判に行ったこと。兄弟姉妹の中で小川さんを一番叱りつけたこと。子どもたちに頼らずに自ら手続きして老人施設に入ったこと−。

 「一番叱られたのに、最後は一緒にいたのよ」。19年前に亡くなった母を思い返す顔は穏やかだ。

 定年後は自由な時間を読書やちぎり絵、パッチワークを楽しんで過ごしていたが、80代を前に物忘れに悩むように。「ものを考えてまとめ、文章に書くことがぼけ防止になる」という娘の助言をきっかけに、随筆を書き始めた。

 夜、布団に入ったときに翌日何を書くか、書き出しをどうするかなどのアイデアが思い浮かぶ。書きたいときを逃さず、翌朝起きても思い出せるよう、枕元にはノートと鉛筆を置いている。

 今年は原稿を送る際、郵便局で「優秀賞がもらえるように」手を合わせ、思いがけず「最」の字まで付いてきた。「浮かれて部屋をスキップしようとしたけれど、足が痛くてできなくて」−。ちゃめっ気たっぷりに語った。

 【おがわ・くに】 岩手師範学校を卒業後、結婚、長女の出産、離婚を経て24歳で北海道にわたり、小学校教員に。約10年の北海道生活を経て岩手県に戻り、江刈小、安庭小などに勤め91年定年退職。雫石町西安庭。83歳。同町出身。


優秀賞 アゲハチョウ 佐藤 洋子


 木々の緑が風に揺れる中、ブロック塀の上に小さな緑色の塊が見えた。近づいてみると、特徴的な眼状紋。思ったとおり、アゲハチョウの幼虫だった。辺りには、餌になりそうな柑橘(かんきつ)類の木々は見当たらない。それでも何かの葉の上に移してやったほうがいいのかもしれないと思ったのだが、幼虫に触れるのがふと躊躇(ためらわ)われて、そのまま通り過ぎてしまった。

 小学生の頃、私は大きな菓子箱で幼虫を育て、羽化するのを何度も観察した。餌は枝に棘(とげ)のある枳殻(からたち)のつやつやとした葉だ。遊び友達は気味悪がったが、きれいなアゲハチョウになると思えば、緑色の幼虫もかわいらしく見え、そっとつまみあげて新しい葉の上に移してやることなど、当時は平気だったのだが。

 息子が幼稚園児だった頃のことだから、随分前のことになる。夫の転勤で移り住んだ地の、隣家の玄関先に山椒(さんしょう)の木があった。ある日のこと、鳥の糞(ふん)のような黒いものが、あちこちの葉の上に見えた。それは、卵から孵(かえ)ってまもないアゲハチョウの幼虫だった。

 早速隣人に、幼虫一匹と山椒を一枝いただき、時々餌になる葉をとらせてほしいとお願いした。世話係を息子にして、虫かごで飼いはじめると、黒い小さな幼虫は、日に日に大きくなり、数回脱皮を繰り返して緑色になった。その変化を、私の幼い頃と同じように息子も面白がり、飽きずに世話をしていた。

 近所の医院で風疹と診断され、薬を飲みながらも家で元気だった息子の様子が突然おかしくなったのは、そんな時だった。

 明け方、病院の入り口で、意識のない息子を搬送してくれた救急隊員に、礼を言って頭を下げると、

 「お母さんねえ。子どもが熱を出してひきつけを起こすなんて、よくあることなんですよ。しっかりしてくださいね」

 という言葉が返ってきた。うろたえるばかりの頼りない母親への、激励だったのだろうが、折悪(あ)しく夫が出張中で、昨夜来一人で息子の病状の悪化を心配していた私には、酷(ひど)くこたえる一撃だった。私がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。私は頭を下げたまま、ただ黙って何度も何度も頷(うなず)いた。息子をこんな目に遭わせてしまったのは、母親として注意が足りなかったせいだ。もう随分前の出来事なのに、あの時の痛みはいまだに鮮明だ。

 搬送先の医師は、難しい病状なので、すぐに県庁所在地の大きな病院に受け入れを要請しなければならないと説明した。そして、新たに救急車で一時間ほどかかって運ばれた病院では、命をとりとめても障害が残る可能性があるという診断で、即入院となった。

 私にできることは、ただひたすら祈ることだけだった。疲れ果て、知り合いもなくうつむいて入った薄暗い給湯室の片隅では、数日前に同じような症状で亡くなった子がいるらしいという噂(うわさ)が、ひそやかに囁(ささや)かれていた。

 息詰まるような数日が過ぎ、幸いにも病状は落ち着いたのだが、退院はまだ先で、日夜病室での付き添いが続くこととなった。

 遠い実家に預けられた娘は、後日、「おばあちゃんと毎日お散歩に行って、お地蔵さまにお兄ちゃんの病気が治りますようにってお祈りしていたから治ったんだよ」と少し大人びた調子で得意げに言った。幼いなりに彼女も、精いっぱい戦っていてくれたのだろう。

 退院のめどがたった頃、夫と付き添いを交代して、慌ただしく後にした家に久しぶりに帰ることができた。電車を乗り継いで帰った無人の小さな借家は、ひっそりと静まり返り、見慣れた家がなんだかよそよそしく見えた。今までの疲れがじわじわと体を浸してくるような気がして、のろのろと家に近づくと、テラスの虫かごの中に何か動くものが見えた。

 いつ羽化したのだろう。アゲハチョウが、かごの中で懸命に羽を動かしていたのだ。駆け寄って虫かごの扉に手をかけた時、「病床の息子に見せたらどんなに喜ぶだろう」という思いが脳裏をかすめた。が、健気(けなげ)にも生き抜いた蝶(ちょう)をこれ以上閉じ込めてはおけなかった。

 ひらりとかごの外に出たアゲハチョウは、黒縁の黄色い大きな羽を優雅に翻し、ゆっくりと自由を満喫するように辺りを飛び回ってから、静かに夕空へ飛び去っていった。

 「さよなら。元気でね」。アゲハチョウの去った茜(あかね)色の空を見上げていると、体中の強張(こわば)りがとけていくような気がした。息子の回復を心の底から信じることができたのは、その時だったのかもしれない。

 あれから三十年以上。母親としては相変わらず頼りないが、子どもたちは無事成長し、「生きていてくれるだけでいい」と祈った時のことを思い出すと、ただそれだけで、すべてに感謝の気持ちが湧いてくる。

 あの塀の上の幼虫も、逞(たくま)しく生き抜き、美しく力強い羽を持つアゲハチョウにきっとなるだろうと思った。



 《横顔》  文章磨き、これからも

 風疹にかかり入院した息子。付き添いから戻ると、飼育中のアゲハチョウが羽化していた。その姿に励まされた体験をつづった。

 昨年夏に道ばたで見かけた幼虫。薄れかけていた出来事がよみがえってきた。あの時、羽化したチョウは、自分に生命の奇跡に気付かせてくれたのではないかと。そして、子どもが元気でいてくれることだけが、親の誰でもが願うことだと。

 岩手日報随筆賞には何度も応募してきたが、結果は出なかった。数年前に仕事を辞めたのを機に、もっと文章を磨こうと決意。昨年は三好京三随筆賞で佳作。あきらめかけていたエッセーへの挑戦に励みとなった。

 読むことと書くことで自分が支えられてきたと感じる。結果はどうあれ、これからも書き続けていきたいと思う。

 奥州市水沢区南大鐘。63歳。福島県郡山市出身。


優秀賞 素敵な板挟み 高橋 久美


 「お母さん、ハッピーバースデーみたい」

 二歳半になる娘が、目を輝かせながら私を見上げる。何のことかと、娘の目の前に置かれた小さなビスケットを覗(のぞ)く。

 楊枝(ようじ)で突いたほどの穴が、円状に九つ開いた丸いビスケット二枚の間に、薄黄色のレモンクリームを挟んだ素朴な菓子。娘は、それを器用に一枚ずつに離し、クリームの付いた方を自分の前に置き、付いていない方を私に渡す。娘の見つめるクリーム付きのビスケットをよく見ると、穴を塞(ふさ)いでいた分のクリームが、ポコポコと九つ突起して円を描いている。その姿を、娘はバースデーケーキと表現したのだと気付く。

 瞬間、ふっと何かから解き放たれたように、清々(すがすが)しい風が体を通り抜けて行く。娘の柔らかな頬に肌を擦(こす)り付けたくなる。

 かつて、幼かった私の目には、拾い集めて大切にしていた石や木の実は宝石のように映った。いつの間にか、石は石に、木の実は木の実になった。それらを、もう一度宝石だと言い、見せに来てくれる存在。それが子供だ。「想像や感動を表現すること」は「生きること」であると全身で訴えてくる。そのような日々が私にもあったことを、そして今も体の奥底に記憶されていることを、射抜くように思い出させてくれる。

 気が付けば、私も四十歳になろうとしている。若い頃は、少し無理をして飲んでいた苦いブラックの珈琲(コーヒー)を、

 「酸味の少ないタイプが好き」

 などと、楽しむようになった。人生の折り返し地点で、やっと苦味の魅力を知りつつあるというところであろうか。

 対して、娘はまだ母乳を欲しがる。三度の食事や、おやつとは「別腹(べつばら)」らしい。理屈では切り離せない自然の欲求として受け入れている。四十年前の母乳の味など、私は覚えていない。好奇心から、飲んでいる最中の娘に

 「ぱいぱい、美味(おい)しい?」

 と聞いてみた。

 動きを止め、乳房から顔を離して娘は答えた。

 「おいしい」

 「ぱいぱい、どんな味?」

 「ジュースみたいな味」

 なるほど、と唸(うな)った。ジュースの味を知ったからこその表現。言葉で表現する以前の味が母乳なのだと味覚の原点をあらためて知った。

 しばらく間を置いて、同じ質問をすると、

 「お母さんの味」

 という答えだった。お母さんの味について、こちらが真面目に考えてしまうことになった。

 この先、娘はさまざまな経験を積み、さまざまな表現を覚えていく。いつの日か、珈琲の苦味に魅力を感じた時、何を想(おも)うだろうか。「四十歳のお母さんみたいな味」と表現するはずも無いが、考えるだけで楽しい。

 珈琲と言えば、先日、八十八歳の祖母が入院した。ガンで胃を切除して以来、食が細くなり、唯一の楽しみは珈琲だった。砂糖と乳児用粉ミルクをたっぷりと入れたものを日に数回。多くの経験を積んで生きてきた祖母が、苦い珈琲と母乳に似た粉ミルクを融合させることを、こじつけ気味に私は面白がっていた。

 しかし、とうとうその珈琲も水さえも受け付けなくなってしまった。見舞いに行くと、ベッドに横たわり、うつらうつらとしていた。声をかけると目を開け、私と気付くまで数秒かかったが、いつものように穏やかな口調で話し始めた。

 「こうやってね、天井を見ながらいろいろ考えるの。百まで生きようと思っていたけれど、この頃無理かもなあって思うの。年は取りたくないわねえ、おばあちゃんになっちゃって」

 私の返事を待たずに、呟(つぶや)きのように祖母の話は続いた。

 「でもねえ、おばあちゃんは幸せだと思うの。子供たちも孫たちも、こうして会いに来てくれるし。いろいろな所へ旅行にも行けたし。寝ながら思い出していると、幸せだなあって思うの」

 痩(や)せて小さくなった祖母の声は、か細く、想像や感動を伝えたいという衝動は感じられなかった。けれども、不思議と白金のような輝きのある表現だった。祖母は、自分の人生を表現することで、やはり生きている。私のまだ知らぬ世界を生きている祖母の痩せこけた頬に、そっと触れたくなった。

 生まれて間もない者と、やがて去りゆく者は似ているのかもしれない。どちらも、技巧的ではない。両者を見ていると、表現とは、生きることとは、技巧的ではない方が、逆に研ぎ澄まされた光を放つのではないかと思う。

 二つの光、娘と祖母に挟まれた私は、多分レモンクリームだ。黙々とビスケットを食べる娘の横で珈琲をすすりながら、

 「ハッピーバースデー」

 と、命の輝きを密(ひそ)かに称(たた)える。



 《横顔》  新鮮な感動を励みに

 幼い娘の行動と祖母の言葉には新しい発見がある。新鮮な感動をもらって輝く日々の暮らしを生き生きと記した。

 自分をかわいがってくれた祖母が入院。これまで何も恩返しできなかった。祖母が今生きていることの尊さを文章にしたいと思った。

 原稿用紙5枚という長さには挑戦した経験はない。その壁を越えようと5月に入ってから書き始めた。しかし、下書きがほぼできた締め切りの1週間前に娘が骨折。一時は応募をあきらめたが、思い直した。

 家事や育児の間に、気持ちを落ち着けて書くのは難しかったが、夫の協力や友人の応援で書き上げた。

 最近、娘が自作の話や替え歌を歌っている。面白くて仕方がない。今は良きライバルとして刺激を受けている。

 花巻市石鳥谷町新堀。39歳。雫石町出身。


優秀賞 おもかげ 山口 トヨ子


 新緑に誘われ、いつもの散歩コースを外し少し遠くまで足を延ばしてみた。

 家並みが途切れたあたりにお寺がある。しばらく来ない間に境内を囲む塀際に、立派な「地蔵菩薩(ぼさつ)」が建立されていた。塀から覗(のぞ)く上半身は右手に錫杖(しゃくじょう)、宝珠を左手に載せ佇(たたず)んでいる。お顔を見ていたら、父が亡き娘のために探し歩いた地蔵仏を思いだした。

 もう三十年余りも前になる、明治生まれの晩年にさしかかった父と、お地蔵さんを求めて石材店めぐりをしたことがある。父は、田植えの終わった農閑期の合間を縫い、私の暮らす町までバイクに跨(またが)りやって来た。

 大抵の石屋さんは国道4号線沿いにある。老人のバイクは危険ということで私の運転の出番となる。父は八十歳近くになっていた。

 石材店の広場に並べられた真新しい石はどれもキラキラと輝いていた。道みち、父が話すには御影石に浮き彫りされた童子の石仏を買いたいということだった。

 じっと見つめる父、それからが長い。時には吐息を洩(も)らし腰をかがめて、ためつすがめつの姿に(あぁ、気に入ったのがないナ)見ていてそう思う、この石屋さんで三店目だ。

 私たちきょうだい五人の長姉は、三歳のとき大人の高下駄を履き家の前の池に過って落ち亡くなっていた。きょうだいの生まれるまえのこと、洋子という名前だったという。

 どんな子どもだった? 色白だった? 目はパッチリしていた? 鼻は高かった? 当時のこととて写真すらない洋子に、私たち姉妹の想像はきりもなく膨らんでいった。そのたびに父はいつも同じことを言う。

 「暗いところに霊が出るっていうからナ、俺は夜になると洋子に会えるかもしれないと、わざと淋(さび)しい暗がりを歩いたもんだ」

 きょうだいの内で誰が一番可愛(かわい)い?に話が及ぶとそれまで黙って聞いていた母は

 「どの子が一番ということはないんだヨ、みんな同じ一番」

 と、やんわり話を打ち切った。

 次の年の晩春、父は4号線から外れたT町の方に行ってみたいという。だが、やはり気に入るものは無かった。値段の折り合いがつかないのだろうか、それとも高さ? たしかに墓所に据えるには古い墓石とのバランスも考えなければならないはず。

 昼食どきとなり近くの蕎麦(そば)屋さんに父が誘う。父は無類の蕎麦好きだった。私の顔をチラッと見て大きな声で注文する。

 「ザルソバ四枚頼むんすじゃ」

 店の客が一斉にこっちを見ているようで、きまりの悪い思いでテーブルに着いた。

 「お地蔵さんて予算より高いの?」

 気になっていることを聞いた。探すのも二年目の夏がすぐそこにきていた。

 「いや、そういうことじゃなくて…」

 そのとき、

 「ハイ、お待ちどおさま! ザル四枚ですね」

 三枚は父の前、一枚は私。旨(うま)そうに蕎麦を啜(すす)る父を見ているうちに、決まらない拘(こだわ)りはどうでもいいことに思えてきて、あとは何も聞かずじまいだった。

 私もパートに出て忙しくなったのを潮に、その後二年程は実家の甥(おい)が石材屋に案内役となった。

 やっと、気に入る石仏が見つかったらしい。和尚さんを頼み、拝んで墓所に納めたいという知らせにきょうだいが集まった。それは意外に大きく、一・二メートルの御影石の中に彫られた身長九十センチの、手を合わせたお地蔵さんが墓の左前の方に立てられていた。

 会食の前に父があらためて礼を述べたいという。

 「長くかかってしまい大変迷惑をかけてしまいました。ようやくどこか洋子に似た地蔵さんが見つかりまして、これであの世の娘に顔むけができます…」

 それは、あの蕎麦屋さんで父が言い澱(よど)んだ言葉の続きだった。童子のお顔を何度も覗き込み地べたに膝をついたのは父の脳裏に刻まれた三歳の洋子の、身の丈だったと思いが及んだとき、胸を突かれた。

 石屋が運んできた梱包を解くとき、それまで家周りの草取りをしていた母は手を洗うことも忘れ童子の顔を見つめていたと聞く。

 六十余年も前に大人の不注意で夭折(ようせつ)した我が子を悔やみ祈る姿に心をうたれた。愛(まな)娘亡きのちに生まれた私は洋子に代わり、どれだけ父母の心を慰めることができただろう。父と連れ立つもお地蔵さんは皆同じ顔にしか見えず、その上早く購入してくれることを願った。

 あれ以来、心して野仏を見ると童子の数だけ表情も仕種(しぐさ)も違う。洋子のように手を合わせる姿もあれば蓮華(れんげ)を抱くものもある。父のかけた膨大な時間はムダではなかったのだ。

 澄み渡る五月の空の下、見上げる地蔵寺の菩薩はこの世に何を思われるのか、静かな佇まいの中に私は、もう一人の姉洋子を見る。立ち止まり手をあわせた。



 《横顔》  父の思いこみあげて

 事故で亡くなった娘の供養のために、長い間その面影を持つ地蔵を探していた父。消えることのない親の愛情が行間からにじみ出る。

 初めに書き上げた作品が気に入らず、散歩に出た時、目にした地蔵菩薩。かつて父と探して歩いた思い出がよみがえった。「これだ」と一気に書き上げた。「筆が走る」とはこういうことかと思った。

 幼くして命を落とした姉のことは、よく話題に上り、親戚に思い出話をせがんだものだった。きょうだいに今回の受賞を伝えると、姉はどんな人だったんだろうと、ひとしきり語り合った。

 2011年岩手芸術祭「県民文芸作品集」随筆部門で最高賞の芸術祭賞、今年は三好京三随筆賞の優秀賞も受賞した。「100歳になっても思いついたことを書いて楽しんでいたい」。

 花巻市東町。70歳。同市出身。


(2014.7.13掲載)

トップへ