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〜第8回〜
華やか女性10人受賞 岩手日報随筆賞

 岩手日報社主催の第8回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」贈呈式は20日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者10人と来賓、同賞の前身の岩手日報文学賞随筆賞を含む歴代受賞者ら約70人が出席した。東根千万億編集局長が選考経過を報告し、三浦宏社長が最優秀賞の盛岡市青山、学習塾経営田辺るり子さん(53)に正賞の「星の雫」像(照井栄氏制作)と賞状、賞金20万円を贈った。

 優秀賞は花巻市上根子新屋敷の稗貫(ひえぬき)イサさん(64)、北上市上野町の太田代公(こう)さん(83)、奥州市水沢区土器田の武田洋子さん(61)の3人に賞状と賞金5万円を贈呈。佳作は盛岡市中太田新田の吉田澄江さん(74)、花巻市大迫町大迫の平沢裕子さん(70)、雫石町西安庭の小川クニさん(82)、盛岡市東黒石野の高橋由紀子さん(49)、盛岡市みたけの浅田和子さん(74)に賞状と賞金3万円を贈った。20歳未満が対象の奨励賞は北上市中野町、黒沢尻北高2年千葉桃さん(16)に賞状と図書カード(1万円相当)を贈った。

 三浦社長は「昨年に続き受賞者が全員女性で華やかな式典となった。男性の奮起も期待している。これからも、新しい正賞『星の雫』を目指し、たくさんの方に応募していただきたい」とあいさつ。

 八重樫勝県教育委員長、鎌田英樹IBC岩手放送社長、詩人の城戸朱理(きどしゅり)選考委員長の祝辞に続き、受賞者を代表して田辺さんが「文章を書くことでいつもと違う充実した時間を持つことができた。多くの本を読んで学び、心に伝わる文が書けるよう自己研さんに努めたい」と謝辞を述べた。

 今回の応募総数は130編。予備選考を経て城戸委員長、平谷美樹(よしき)委員(作家)、千葉万美子委員(エッセイスト)が審査した。

【写真=第8回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」を受賞した前列右から優秀賞・太田代公さん、最優秀賞・田辺るり子さん、優秀賞・稗貫イサさん、同・武田洋子さん。後列右から佳作・浅田和子さん、同・小川クニさん、同・吉田澄江さん、同・平沢裕子さん、同・高橋由紀子さん、奨励賞・千葉桃さん】

(2013.7.21)


第8回岩手日報随筆賞決まる
−2013年−

 岩手日報社主催の第8回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の入選者が決まりました。

 最優秀賞は、盛岡市青山、学習塾経営田辺るり子さん(53)の「たいせつな場所」が選ばれました。優秀賞は、花巻市上根子新屋敷、主婦稗貫イサさん(64)の「結びの宿」、北上市上野町、太田代公(こう)さん(83)の「輪の中へ」、奥州市水沢区土器田、主婦武田洋子さん(61)の「伝える喜び」の3編です。

 佳作は、盛岡市中太田新田、吉田澄江さん(74)の「夕映え」、花巻市大迫町大迫、平沢裕子さん(70)の「兄のことづて」、雫石町西安庭、小川クニさん(82)の「夕日と貝殻」、盛岡市東黒石野、高橋由紀子さん(49)の「星になれたら」、盛岡市みたけ、浅田和子さん(74)の「母と針箱」の5編。将来が期待される20歳未満の応募者が対象の奨励賞は北上市中野町、黒沢尻北高2年千葉桃さん(16)の「自分探し」が選ばれました。

 贈呈式は20日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞の田辺さんに正賞のブロンズ像「星の雫」(照井栄氏制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞の3人に賞状と賞金5万円、佳作5人に賞状と賞金3万円、奨励賞は賞状と図書カード(1万円相当)がそれぞれ贈られます。

 今回の応募総数は130編。社内の予備選考を経た15編(奨励賞対象作品を含む)について、選考委員の詩人城戸朱理(しゅり)氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹(よしき)氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が審査しました。

(2013.7.14)


第8回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」
受賞者と作品紹介
 岩手日報社が2006年に創刊130周年を記念して創設した「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」は、第8回の今年、昨年(122編)を上回る130編の応募があった。選考委員の詩人城戸朱理氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹氏(金ヶ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が6月27日、本社で選考会を開き、社内予備選考を通過した最終審査候補15編の中から、最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作5編、奨励賞1編を選んだ。最優秀賞、優秀賞の受賞者の作品と横顔を紹介する。

《選評》 主題の絞り込みが鍵

 随筆の難しさは、何をテーマにしてもいいことだろう。日々の暮らしのなかから、どんな題材を取り上げ、どんな主題を語るのかは、作者に任されている。そして、そこにこそ、随筆の面白さもあるわけだが。

 最優秀賞「たいせつな場所」は、写真館で偶然、目にした母のポートレートから始まる家族の物語。

 文章も自然なら、構成も巧みで、さらに、写真館という舞台設定も魅力的である。

 亡くなってから気づく母の真意から、家族に受け継がれていくものを語って、印象深い作品になっている。

 優秀賞「輪の中へ」は、寝たきりになった作者が、生きる力を取り戻す様子が感銘を呼ぶ。そのきっかけも思いがけないもので、驚きがある。「緑の蔦(つた)をまとった」で始まる段落など、接続詞を使わず短いセンテンスをたたみかけ、実に見事だが、最後のまとめは主題をそのまま言葉にしてしまった感を否めない。この点が、惜しまれる。

 それに対して、「結びの宿」は、たとえ兄妹であっても、知りえぬ想(おも)いを丁寧に描いていく。身内であっても言葉にしなければ分からないことがある。単純だが貴重な発見と言うべきだろう。ただし、タイトルは安易にすぎるのではないか。

 「伝える喜び」は、三十五年前に亡くなった母への想いを、梅干しをモチーフに、自分の人生に重ねて語る。「わたし、健康なのね」という生前の母親の言葉が鮮烈な印象を残す。たとえ、誰かが死んだとしても、受け継がれていく人間の営み。個人的な体験を普遍化することに成功しているが、最後の段落は、主題そのままで、蛇足だろう。

 今回は構成に難があったり、主題が絞り切れていない応募作が多く低調だった。また、タイトルが内容にそぐわないものも目立った。

 何を書くかを決めることは、同時に何を書かないかを決めることでもあることを心に刻んで欲しいと思う。

 (城戸選考委員長)


最優秀賞 たいせつな場所 田辺るり子


 盛岡の街に、大正時代から続く素敵(すてき)な写真館がある。市の中心部にありながら、静寂な空気をまとい、「寫眞舘」の文字を掲げるその洋館には、「日影門」という、その界隈(かいわい)の地名がよく似合う。

 私は、子どもたちの成長の節目に、この写真館で家族写真を撮るのを楽しみにしている。撮影を手伝う奥さんの、上品な言葉づかいや温かい気配りがとても心地よく、それは「撮影」というより、歴史のある落ち着いた空間で家族そろって味わう、幸せな時間である。

 季節ごとに変わる表のショーケースの中に、私たち家族の写真が登場することもあり、そんな時は、ちょっぴり誇らしい気持ちになって、しばらくその場に佇(たたず)んだりする。

 今年で創業百年になるというこの写真館には、星の数ほどの人々の思い出が記憶されてきたことだろう。私にも、忘れられない出来事がある。

 もう十年以上も前のことになるだろうか。写真館の前を通りかかった私は、不意に足を止めた。何気なく見た写真の中に、なぜか私の母のポートレートがあったのである。同窓会の日に着ていた、見覚えのある花柄のワンピースに紺色のジャケットを羽織り、おだやかに微笑(ほほえ)む母。(いったいどういうこと?)その写真は、私をかなり混乱させた。

 急いで帰宅して、当の本人に尋ねると、

 「私にも一枚くらいちゃんとした写真がないと、お葬式の時に困るだろうから、ちょっと早めに準備しておいただけよ」

 と、笑いながらさらりと言った。

 「びっくりさせないでよ。縁起でもない!」

 母の突飛な行動に私は憤慨したけれど、写真の話は、なんとなくそれきりになっていた。

 皮肉なことに、母はそれから数年後、本当にあっけなく亡き父のもとへ逝ってしまった。「病院」と名のつくところには、ほとんど縁がないと自慢していた母が、急激に体調を崩して近所のクリニックへ行った時には、すでに胃がんの末期だったのである。

 祭壇には、母の「遺言」どおり、あのポートレートが飾られることになった。たくさんの花に囲まれた母の遺影は完璧すぎて、まるでいつかテレビで見た有名人のようだったから、弔問客の誰もが、祭壇の「見事な」遺影のことを話題にした。私は何度その写真のエピソードを披露したことだろう。

 母の友人たちは、

 「恵美ちゃんらしい、いい写真だよね」

 と涙ぐみ、母と親交があった私の恩師は、

 「あなたのママは立派! 私も見習いたい」と絶賛してくださった。

 亡くなる間際の母は、がんのために見る影もなくやつれてしまい、最後の化粧を施された顔にも、もはや私たち家族でさえ、かつての面影を追うことが難しくなっていたけれど、母があの写真を残しておいてくれたおかげで、私たちの心の中には、ちょっと愛嬌(あいきょう)のある、にこやかな顔の母が、いつまでも生き続けることになったのである。

 約束を果たした母のポートレートは、少し小さくなって、我が家の仏壇に納まった。

 それから二年後、息子が成人の日を迎えた記念に、家族で写真館を訪れた日のことである。二階のスタジオへと続く階段を上りきった時、目の前の棚に並んでいる写真の中の一枚に、私たちの目が釘づけになった。

 それは、母のあのポートレートであった。思いがけない場所での、母との再会。

 写真の主が私の母であり、すでに亡くなっていたことを知った写真館の奥さんは、驚きながらも当時のことを話してくださった。

 「ご婦人お一人の写真というのはあまりなかったので、見本に置かせていただいたんです。お母様が『お葬式用のいい写真ができました』なんて明るくおっしゃるので、私は『そんなことおっしゃらないで、ぜひまたお越しください』と申し上げたんですよ」

 少ししんみりした後で、カメラに向かう私たち。その日は偶然にも、母に見守られながらの撮影となった。

 母はこの写真館で、二十代の若い頃に何度か写真を撮ったことがあると言っていた。もしかしたら、病の兆しに不安を感じて、思い出の写真館で「お気に入りの一枚」を残そうとしたのかもしれない。私は、もっと早くそのことに気づくべきだった。

 いつの頃からか、一人で外出する自信がなくなったと言って、どこへ行くにも私と一緒だった母が、たった一人で写真館を訪れた日の心の内を想(おも)うと、切なさと後悔とで私の胸はいっぱいになる。

 来春、娘が大学を卒業する記念に、私はまた家族写真を撮ることになるだろう。そしてこれからは、家族の写真に少しずつ新しい顔が加わっていくのかもしれない。

 母から私、そして子どもたちへと、「たいせつな場所」は受け継がれていく。



 《横顔》  母への思いを支えに

 写真館で、偶然出合った母の肖像写真。写真の中で穏やかにほほ笑む生前の母の胸の内を思いやり、母から自分、自分から子へと時代が変わっても家族の姿を写し続ける「たいせつな場所」に対する思いをつづった。

 「写真館への感謝の気持ちも込めつつ、いつかはこのエピソードを書き残しておきたいと思っていました。それが、賞までいただくなんて」

 毎年、随筆賞の募集要項が新聞に掲載されるたびに気に留めてはいたが、「母を亡くしたばかりで、感情に流されたような文章は書きたくなかった」。それでも母親を見送って7年。心の中も落ち着きを取り戻した今年、自分を奮い立たせた。

 日頃から随筆に親しんでいるわけではなく、日常では、自身が経営する学習塾の教室便りを月一回書く程度。執筆に当たっては文具店で原稿用紙を買ってきて、辞書を片手に文章と向き合った。

 作品中の写真館は、母にすれば、若かりしころに同級生や兄弟と写真を撮った思い入れのある場所。自分が小学生の時は登下校コースで、ショーケースに飾られた家族写真に足を止めることもあった。写真館に対する思い入れは人一倍強い。

 柔和な笑顔を見せるが、成人した2人の子どもや学習塾の生徒には、あいさつや靴をそろえるといったことまで厳しく教えてきた。これも厳しかった母の影響で「社会に出てから分かった。母のしつけがどれだけありがたかったか」。子どもたちには、他人から尊敬される人になってほしいと思っている。

 時間があれば大好きなバレエやミュージカル鑑賞に足を運ぶ。わが子にも幼いころからバレエを習わせ、25歳になった長男は今、米国でバレエダンサーとして活躍している。

 大学4年の長女は来春、盛岡に帰ってくる予定だ。「いつか子どもたちが結婚して家族の顔ぶれが変わっても、この写真館で撮り続けたいと思います」。ふっくらと笑うその目尻は、ポートレートの母親のそれに、よく似ている。

 【たなべ・るりこ】 盛岡三高、札幌市の藤女子大卒業後、東京で就職。結婚、出産を経て1995年から滝沢村で学習塾を経営。盛岡市青山。53歳。同市生まれ。


優秀賞 結びの宿 稗貫 イサ


 兄妹三人、それぞれの妻や夫を伴って宿に集まった。ここは花巻温泉郷の奥座敷。うっすら雪化粧をした山間(やまあい)は静寂さにつつまれ、暮れようとしていた。

 目の前を流れる、豊沢川を眺めながら湯船に浸(つ)かった。今宵(こよい)は長兄の声掛けによる兄妹だけの集いだ。私は、母、嫁、妻といったものを脱ぎ捨て、妹という存在にいつになく心が解き放たれていくのを覚えた。

 揃(そろ)いの浴衣でコの字に座った。兄たち二人は時々会って酒を飲み交わしているようだが、私はめったに会うことがなかった。兄妹といえ、何かしら気恥ずかしい思いがした。

 兄の挨拶(あいさつ)が始まった。場馴(な)れしている兄らしい口調だ。乾杯のあと山葡萄(やまぶどう)の食前酒をいただき、季節の盛り合わせが載った御膳に箸をつけた。酒に滅法(めっぽう)よわい私も今日はいただくことにした。

 御膳の鍋から湯気が立ちのぼってきたころ、亡き父の話になった。その後、甕(かめ)いっぱいに漬けたスルメや人参(にんじん)の入った「切り込み」が旨(うま)かったとか、まねて作っても同じ味が出せないなどと、話は行ったり来たりしている。

 いつからか話題は兄のことになっていった。私は酔いの中でぼんやり聞いていた。ところがひょんなところで、兄は高校受験に合格したのに入学しなかった、と次兄が言いだした。

 「えっ、ほんとに……」

 初めて聞く話にコップを置き背を正した。

 「兄貴は受かったのさ。それはオレも知っているよ」と、次兄が答えた。

 私は兄と年が八つ離れている。一緒に遊んだ記憶も、叱られた記憶もない。幼い時から兄を大人として見てきた。

 兄は中学を卒業するとすぐに、町の郵便局で臨時配達員として働いた。雨が降り、風が吹くのは当たり前。先の見えない猛吹雪の日もあった。除雪車のない時代、腰まで降り積もった雪の中を、脛(すね)にゲートルを巻き黒皮のカバンを背負って歩いた。山を開墾した一軒家のため、普段の何倍もの時間をかけて行く日もあった。家から郵便局まで二キロも歩き、そこから宮守村(現遠野市)内の決められた区域を一日中歩いた。そして帰るとすぐ畑に出て働いた。その姿を私は見ている。

 「親方が高校にも行かねで稼んでいるときに……」と、父は次兄を修学旅行に参加させないわけを、ぞうきん掛けしている私の背中に呟(つぶや)いたことがある。父は兄を「親方」と言った。今思えば、兄への敬意をこめて、そう呼んでいたのかもしれない。

 次兄は、担任の先生が何度も家に来て父を説得し進学が叶(かな)った。だが、兄の手前、修学旅行には行かせることはできなかったのだ。家督の兄に対するけじめであったろう。

 その時の父のいたたまれない気持ちや、多感な兄たちの葛藤を思うと、何不自由なく過ごしてきた自分が、申し訳なく思えた。

 晩年、父は「学校出てねぇから苦労するべ。局長にならねばいいが」と、当時代理に就いていた兄への思いを口にしていた。先々の苦労を案じて、子の出世を望んでいなかった。

 当時、高校に進学するのは珍しかった。兄は勉強を嫌って自分の好きなように生きて来たのだと思い込み、今まで何ひとつ気に留めたことはなかった。

 高校受験に合格したのになぜ、行かなかったのか、何があったのか、そのいきさつを知りたかった。兄はそれをどう感じて今まで生きてきたのか。それも知りたかった。だが、こらえた。言葉ひとつ挟まない兄の横顔に、やわらかな哀(かな)しみが走ったからだ。

 宴も終わるころ、兄は私の前にあぐらを組んで座った。がっちりした背を少し前こごみにし、労(いたわ)りの言葉をかけながら頭を下げた。下げたまましばらく動かない。酔いのせいかと笑って見ていたが、「あっ」と息をのんだ。

 額から眉にかけて父にそっくりだった。声にならず、身じろぎもできなかった。父が頭を下げている。

 (早く、頭をあげて)

 と、声を出そうとしたとき、ゆっくり顔を上げた。兄の顔だった。

 翌朝、快い風呂に浸かりながらも、昨夜のことが頭から離れなかった。私の前で頭を下げた姿が兄にも父にも見えてくる。

 あれは、厳しく育てられた兄の、父への礼であったような気もするし、五十年あまり必死に働き通した兄の姿に安堵(あんど)した父が、兄に詫(わ)びて頭を下げた姿だったようにも思える。

 父であれ、兄妹であれ、言葉にしなければ解(わか)らないでいることがあったのだ。次兄の一言で、父や兄のこれまでの生き方に心を寄せることができた。これで兄妹が一つになれたような気がする。

 「結びの宿」と掲げた看板の前で兄妹は分かれた。兄は黒いポーチを腰に下げ、いつものように軽く手を上げて出て行った。

 静かな宿場に、かすかに硫黄の匂いがした。



 《横顔》  兄の姿に父重なる

 兄妹が温泉旅館に集った楽しい時間。そこで知った進学をあきらめた兄と父の心情をめぐる思いをつづった。

 誕生日も同じで、何から何まで父にそっくりと言われてきた自分。父と全く似ていない兄とは対照的だった。

 しかし、あの旅館で自分の前に座って頭を下げた兄の姿は「父が二重写しになっていた。その時、心が動いた」。困難を乗り越えてきた2人の生き方に思いをはせ、兄妹がひとつになれた気がした。

 2007年、08年と岩手日報随筆賞佳作。10年に三好京三随筆賞の最高賞、11年岩手日報随筆賞優秀賞と受賞歴は豊富。「書く楽しさを教えてくれ何年も温かく見守ってくれた文章教室の師にお礼を言いたい」。これからも、ふっと浮かんだことを自由な心で書き続けていきたいと思う。

 花巻市上根子新屋敷。主婦。64歳。遠野市出身。


優秀賞 輪の中へ 太田代 公


 介護度五で寝たきりになって二年が過ぎた。先は……と考えると果てない枯れ野が目に浮かぶ。そんな時、

 「節さんと京子さんが相談にのってほしいことがあってこれから来るそうですよ」

 と、娘が来客を伝えた。二人は私の花友達である。嬉(うれ)しさに胸中が華やぎ沸き立った。

 今の時期だと花種の注文、いや手続きだろうか。それとも花選びか。花丈、花期、花色を考慮し、北上の八月の満開時を予想して決めなければ、と気持ちは急(せ)くばかりだ。

 二人は私の介護日程との調整をとり今日を選んで来たという。挨拶(あいさつ)もそこそこに本題に入った。二人の相談事は推察通りだった。まだ頭は健康なのかも、と少しばかり自信が戻る。

 八十代の私と、七十代、六十代の三人が友達となったのはインターハイへの花苗づくりがきっかけである。当時北上はインターハイで市全体が盛り上がっていた。「花いっぱい運動推進協議会」花担当の私達も、全国の選手団や観戦客を花でお迎えしようと、花を育てる活動への参加を市民に呼びかけていた。

 育苗には「とばせ園」が参加を名乗り出てくれた。「知的障害者通所授産施設とばせ園」が正式名で、お世話になっている社会に少しでも役立ちたいと意欲に満ちていた。

 播種(はしゅ)講座に参加した園生達は、真剣そのもの。ピートバンに八ミリ間隔で一粒というピンセットでの作業を正確にこなした。そのかいあって生育した花苗は、秋の沿道花壇に色鮮やかに咲き続けた。

 花いっぱい活動が山ゆりを咲かせる活動へ広がることになったのは平成十四年頃。市の花、山ゆりを絶やしてはならないとの市民の声に押されての取り組みだったが、それは平坦な道ではなかった。山ゆりは想像以上にデリケートで環境に敏感な花だったのである。

 私達は県の研究機関は勿論(もちろん)、県外へも教えを請うた。が、どこからも山ゆりの栽培に成功した例は得られない。失敗の原因は九十九パーセントのゆりがウイルスにおかされているからであろうと察せられた。また実生繁植では、一年目はウイルスの心配がなく、よく発芽して成長するも、定植後にウイルスが発生するケースの多いことも知った。

 協議の上、ウイルスのリスクを克服するため種からの栽培に挑戦しようと決め、実践部門をとばせ園に置くことにした。

 十一月末、小春日和の下、滲(にじ)み出る汗を拭おうともせず作業に励む園生たち。畑の畝を這(は)うようにして苗を置いていく。やがて春を迎えたゆり達は、除草、追肥、花摘みと秋までをすごし、一人前の球根に育った。

 再びの秋、生まれも育ちも北上市の山ゆりは市民の手によって定植された。

 山ゆりが北上市大堤公園に根づき、立派な花々を咲かせるまでのおよそ十年、花友だちと共に歩んだ苦労と試練の日々がなつかしい。

 障害者となり、生きがいだった花活動から身を引かざるを得ないとあきらめた時のさびしさが、二人の訪問で笑いと共に俄(にわか)に横へと押しのけられていく。

 「皆さん本当によく手入れしてくれていたのね。山ゆりを見て私、嬉しくて胸がいっぱいになったのよ」

 娘夫婦が外へ連れ出してくれたのは昨年七月半ばだった。行き先は大堤公園という。山ゆりの咲く頃だ。今年の花はどうだろう。車椅子が進むにつれて視線が忙しくさまよった。

 人目につきにくい野にひっそりと咲く山ゆりを、あえて人目の多いこの公園に植栽したのは、北上夜曲に歌われ市の花として指定を受けていたからだった。

 緑の蔦(つた)をまとった北上市大堤公園の赤松林。木洩(こも)れ陽(び)のさし込む松林でゆっくり揺れているのは、まさしく山ゆりの花だった。咲いている。香りが届きそうだ。私は思わずひざ掛けをたぐり寄せた。

 花友だちとの心地よい時間はあっという間に過ぎていく。

 「あや、まんつ。こったな時間だってか」

 京子さんのすっとんきょうな声で時計を見ると針は五時を指そうとしていた。

 「何も出来ない私があれこれ指図してごめんね」

 私無しでも花は咲く。だが私を仲間と思ってくれる二人の心遣いが嬉しい。

 「私達が手足になります。遠慮なく口出ししてください」

 折れ曲がりそうな私を、節さんの別れ際の言葉がしっかりと立て直してくれた。

 寝たきりで天井と雲の行方を追うしかない毎日。ともすれば生きる気力も失いがちだ。そんな私に、名医の良薬のように、張り合いという効き目を与えてくれた二人の訪問。

 そうだ、生きていることが花なのだ。

 歩は小さくてもいい。どんな姿でもいいのだ。踏み出そう。花の仲間の輪の中へ。



 《横顔》  花友達に感謝込め

 病床の自分を訪ねてきた、かつて花作りをともにした仲間。前を進もうとする勇気をくれた花友達への思いをしたためた。

 寝たきりになって2年。介護度5で胃ろうカテーテルもしている。「人は1人では生きられない。誰かとつながることが生きがいとなる」。花作りの仲間として残るよう誘ってくれた友人が、それを教えてくれた。

 今年3月の訪問後、ペンを取った。昔の活動を振り返りながら、友人はもちろん、ともに育苗に尽力した「とばせ園」への感謝とエールを胸に、3カ月かけて書き上げた。

 自分を支えてくれるすべての人たちへ「生きています。ありがとう」、そして同じ病気の人たちへ「あきらめないで」と呼び掛けることができ、本当にうれしいと思う。

 北上市上野町。83歳。奥州市江刺区出身。


優秀賞 伝える喜び 武田 洋子


 母が漬けた梅漬けが今もある。三十五年もの月日を経たせいか、たっぷりとあった梅酢は消え、シソの葉は乾燥して幾つかの塊になっている。塩は白く結晶し、梅の色は茶褐色、一体どんな味がするのであろう。

 母はあの年、出来たばかりの梅漬けをじっと見つめながら独り言のように言った。

 「梅漬け、いい色に染まったわ。今までで、一番きれい。わたし、健康なのね」

 「うーん、このすっぱい匂い、だーい好き。もう唾が出ちゃう。梅酢もいっぱい入れてね」

 嫁いだばかりの私は、シソの葉色に染まった梅漬けをしめしめとばかりに持ち帰った。

 梅漬けの色は、漬ける人が健康だときれいな色に仕上がると言われている。今思うと、自分の体調の悪さを自覚しつつも、思い違いであって欲しいと願っていただろう母のつぶやきに意味があるなど思いもしなかった。

 「明日はお庭でご飯よ」

 幼かった頃、母はつぼみがほころび始めると、天気を見計らっては梅の木の下にゴザを敷きおやつやお昼ご飯を食べさせてくれた。母に見守られて庭で遊ぶのが好きだった私と弟は、洋服をいつもより丁寧に畳んで枕元に置き、明日晴れますように、とお祈りして布団に入っていた。

 ままごとみたいなひととき。私たちはうれしくてはしゃいだ。庭には、父が植えた「雪の下」と「紅玉」のリンゴの木もあった。木登りには格好の高さである。木の上で、おにぎりをほおばると梅のすっぱさで顔がくしゃくしゃになってウッウー、と声になる。そんな私たちを見上げて母は微笑(ほほえ)んでいた。

 母はおにぎりの具に梅と塩引きを一緒に入れていた。私も、同じようににぎっている。祖母を知らない子供たちは、その味で育った。私も天気の良い日は、子供たちを連れて、庭、ベランダ、公園とお昼ご飯を楽しんだ。

 あの日の梅漬けが残り少なくなった頃……。母は突然入院し、そのまま帰らぬ人となった。

 母を見送る儀式を滞りなくこなすので精一杯のあわただしい日々が続いた。

 庭の梅の実を誰もが忘れていた。熟れて黄色になった梅が、庭一面に落ちているのを見て呆然(ぼうぜん)と立ちすくんだ。落ちた梅を割れる前に拾ってはジャムにしていた母。すでに割れている梅を見て、大切に紡いでいた母の日常が途絶えた、と思い知った。

 その夜、梅漬けが入ったビンをテーブルの上に置いた。ふうっと母の手が目の前に現れる。箸で優しく赤い梅を摘む。梅とシソの葉を交互に入れて梅酢をお玉でそそぎ、ククッと蓋(ふた)を閉める。

 あたり前だった母の仕草のひとつひとつが時を刻むようによみがえる。一息ついてそっと蓋を開けてみた。あの日と同じ匂いがする。両手でしがみついた。遠くに置いていた涙がやっとこぼれ落ちた瞬間だった。二度と戻らない幸せな時。母がいて、娘がいた穏やかで平和な触れ合い。母が何度も手を掛け私に残してくれた母の梅漬け。食べてしまったら繋(つな)がりが消える。母のまなざし代わりに、梅漬けのビンを食器棚の目に付く位置に置いた。

 それから父とも死に別れたが、母の視線はいつもの所にあった。

 日常には幸せ色の下に潜む情け容赦ない現実がある。コントロール出来なくて、幾度迷いと絶望の谷底で息をしたか知れない。

 折れそうになる心のよりどころは、両親の墓参りだ。庭の咲く花とお茶、しょうゆ団子とピクニックシートを用意して向かう。

 お寺の門をくぐるや、やっと来られた、やっと甘えられる、と泣きじゃくりながら小走りになった日もあった。だが墓にたどり着く頃には、強張(こわば)りが緩み頑張る力が沸いたりもした。だから、いつも、

 「私、元気よ。すごく幸せです。みんな頑張ってますよ。ありがとう」

 と、感謝の気持ちを伝えることにしている。

 冬晴れの日、生家の庭で雪をまとう梅の木を見た。母の年齢をとうに越えた私。母の最後の梅漬けを食べてみる頃に違いない。

 はやる気持ちで家路を急いだ。

 心を落ち着かせて梅を取り出した。そのひとつぶを口に含む。おいしいと思った。塩辛さも酸味も熟成をくり返しながら生きてきたのだ。これはまさしく母の味であり、母亡き後、泣きべそかきながらも何とかやってきた私の三十五年の味でもある気がした。

 我が家を持てた時、真っ先に植えた梅の木。それからは、夫が実を採り、私が漬けるささやかな営みを繰り返している。母が会えなかった孫たちを祖母の味で育てたから、小さく目立たない日々に母は今も息づいている。

 この春、初孫をこの手にする喜びを得た。私の孫に母の味を伝えられるのだ。新しい命、新しい未来。実を結ぶ梅の花が咲く。



 《横顔》  一行は書く 日課に

 長い年月を経た母の梅漬けを口にして、その思いが込められた味を受け継いでいこうという決意を抱くまでをつづった。

 存命中は甘えてばかりの自分。母を亡くしてからはしっかり生活しようと必死だった。母への思いとともに、そのことを書き残し伝えたかった。

 1999年、随筆賞の前身岩手日報文学賞随筆賞佳作に選ばれた。本紙の「ばん茶せん茶」「花時計」にもたびたび投稿。昨年は第12回「60歳のラブレター」金賞も受賞した。

 文章を書いていて行き詰まると、通っていた岩手日報文章教室の講義ノートを今でも読み返す。一行でも書いてから眠るのが日課となっている。そうすることで、今日も幸せだったと感じ、明日にワクワクするから。

 奥州市水沢区土器田。主婦。61歳。盛岡市出身。


(2013.7.14掲載)

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