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〜第7回〜
感性輝く女性7氏受賞 岩手日報随筆賞


 岩手日報社主催の第7回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」贈呈式は21日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者7人と来賓、同賞前身の岩手日報文学賞随筆賞を含む歴代受賞者ら約60人が出席した。東根千万億常務編集局長が選考経過を報告、三浦宏社長が最優秀賞の盛岡市玉山区渋民、盛岡三高3年の工藤玲音(れいん)さん(17)に正賞の「エリカ」像(故舟越保武氏制作)と賞状、賞金20万円を贈った。

 優秀賞は、盛岡市上ノ橋町の伊藤由紀子さん(50)、盛岡市中太田新田の吉田澄江さん(73)、宮古市藤原の中村キヨ子さん(62)の3人に賞状と賞金5万円を贈呈。佳作は、平泉町平泉の岩渕真理子さん(60)、盛岡市本宮の山谷裕美子さん(57)、大船渡市赤崎町の菅野由美子さん(47)の3人に賞状と賞金3万円を贈った。

 三浦社長は「高校生の受賞が、文学を目指す若い人の励みと刺激になることを期待する。受賞者全員が女性というのも初めてで、味わい深い作品がそろった」とあいさつ。

 八重樫勝県教育委員長、鎌田英樹IBC岩手放送社長、詩人の城戸朱理(しゅり)選考委員長の祝辞に続き、受賞者を代表して工藤さんが「あまり知られていないが岩手は高校文芸大国。この機会に私たち世代の活動に興味を持ってもらいたい」と謝辞を述べた。

 今回の応募総数は122編。予備選考を経て城戸委員長、平谷美樹(よしき)委員(作家)、千葉万美子(まみこ)委員(エッセイスト)が審査した。

【写真=第7回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」を受賞した前列右から優秀賞・吉田澄江さん、最優秀賞・工藤玲音さん、優秀賞・伊藤由紀子さん、同・中村キヨ子さん、後列右から佳作・山谷裕美子さん、同・岩渕真理子さん、同・菅野由美子さん】

(2012.7.22)


第7回岩手日報随筆賞決まる
−2012年−

 岩手日報社主催の第7回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の入選者が決まりました。

 最優秀賞は、盛岡市玉山区、盛岡三高3年工藤玲音(れいん)さん(17)の「春の雨」が選ばれました。高校生の受賞は初めて。優秀賞は、盛岡市上ノ橋町、主婦伊藤由紀子さん(50)の「川岸」、盛岡市中太田、主婦吉田澄江さん(73)の「雲よ」、宮古市藤原、無職中村キヨ子さん(62)の「父の講義」の3編です。

 佳作は、平泉町平泉、パート岩渕真理子さん(60)の「大雪の朝」、盛岡市本宮、無職山谷裕美子さん(57)の「父の涙」、大船渡市赤崎町、会社員菅野由美子さん(47)の「望郷」の3編。将来が期待される20歳未満の応募者が対象の奨励賞は該当作がありませんでした。

 贈呈式は21日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞の工藤さんに正賞のブロンズ像「エリカ」(故舟越保武氏制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞の3人に賞状と賞金5万円、佳作3人に賞状と賞金3万円がそれぞれ贈られます。

 今回の応募総数は122編。社内の予備選考を経た14編について選考委員の詩人城戸朱理氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹(よしき)氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が審査しました。

(2012.7.15)


第7回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」
受賞者と作品紹介
 岩手日報社が2006年に創刊130年を記念して創設した「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」は第7回の今年、ほぼ昨年(128編)並みの122編の応募があった。選考委員の詩人城戸朱理氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が6月28日、本社で選考会を開き、社内予備選考を通過した最終審査候補14編の中から最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作3編を選んだ。最優秀賞、優秀賞の受賞者の横顔と作品を紹介する。

《選評》 自由だからこそ配慮を

 今回の応募作は力作が多かった。

 なかでも、この作者の次の作品を読んでみたいと思わせるほどの魅力があったのが、最優秀賞「春の雨」である。

 春の雨の魅力的な描写から始まる書き出しも印象的だが、それが結びの文章と有機的に繋(つな)がっているあたりも見事。自分の名前の由来と、春の雨の情景が二重映しになっていく。

 漢字は、表意文字であるために、音と意味が二重性を持つことがあるが、作者の名前は、音が「雨」を、漢字が「美しい音」を意味している。東アジアの漢字文化圏ならではの、ユニークなテーマと言えるだろう。

 異例の高校生の受賞者の誕生だが、これからを期待したい。ただ、応募作は、規定の字数をわずかに超過しており、選考会議では、その点で意見が割れた。これは注意してもらいたいと思う。

 優秀賞「川岸」は花見を巡って、夫婦の機微に思いを馳(は)せる作品だが、個人的な体験が、普遍的な意味にまで高められている。

 さりげない描写にも、夫の人柄が浮かび上がり、好感が持てた。

 それに対して「雲よ」は、個人的で痛ましい経験を語って印象深い。構成も巧みで、最初は「ユキオ」が誰か分からないが、読み進めるにつれて、それがクモ膜下出血で倒れ、寝たきりになった夫であることが分かるあたりが、効果を高めている。しかし、最後の二行は、ないほうが余韻を深めたのではないだろうか。

 「父の講義」は、東日本大震災以後、ようやく落ち着きを取り戻しつつある生活を、父との関係を通して描く佳篇(かへん)。もっと構成に配慮すると、さらに印象深いものになったことだろう。

 随筆は何をどう書いてもいいわけだが、だからこそ、大胆さと細心さをもって臨んでもらいたい。

 (城戸選考委員長)


最優秀賞 春の雨 工藤玲音


 紺色の折りたたみ傘に雨粒が着地する。わたしはそれが他の季節とは違って、静かですこし上品であることに気づく。玉になった雨粒は少しずつ周りとくっついて、ふと、重さに耐えかねてしゅるしゅる傘から滴ってゆく。せっかちな歩みをすこし遅くして息を吸うと、すりたての墨のようなにおいがして心地良い。天気予報が上手に当たり、お昼から詩的な雰囲気を醸し出して盛岡は濡(ぬ)れている。わたしは書店まで歩きながら先ほどのことを思い出した。


 教科書を買うついでに、せっかくここまできたのだからと盛久ギャラリーに足を延ばした。今日は天然石のアクセサリーの企画と常設展らしい。雨の雰囲気のなかで白と黒に統一された建物に入ると、すこし気取って、いつもは書かない記帳なんかをしてみる。前に書いている来場者の字が上手(うま)いことと、入るときに折りたたみ傘を触ったせいでペンを握る手のひらが湿っていた。

 透き通ったガラス細工や繊細に濁った天然石のアクセサリーが白い壁によく映え、照明に反射してきらきらしている。わたしは(年を重ねないと、まだまだ似合わないかもしれない)と思いながら、腰を屈(かが)めてそれを見ていた。常設展で版画を見ていると、何度かお話をして顔見知りになった盛久の館員の女性が解説をしてくれた。今日はそこにもう一人、その女性よりもお年を召した女性がいた。この二人は母子で、お母様は普段東京に住んでいるのだという。パープルのニットを着ていて、笑うと目尻の皺(しわ)が幸せそうに浮かび上がる人だった。娘さんが「あなたくらいの若い人が来てくれると嬉(うれ)しいものよ」と微笑(ほほえ)むと、その母子はそっくりな顔でふっくらと笑った。雨の中で歩くことは気が進まなかったけれどやっぱり来てよかったと思う。

 「お名前、れおんちゃんって言うの?」

 記帳を見た娘さんに尋ねられる。わたしはこの瞬間いつも、(来たか)と思う。そうして少し緊張し、申し訳なさそうな顔をして、滑舌に気を配りながら言う。

 「いいえ、あの、れいんって読むんです」


 わたしは自分の名前が好きだ。誰かに名前の由来を聞かれると必ず「生まれた朝に雨が降っていたから」と答える。気恥ずかしいくらいポエティック、だけど誇らしい。両親にはそれだけでなく思いがいろいろあるようだけれど、説明するのはややこしい。

 「透き通るように、おしとやかに育つ予定だったのよ」

 と母は笑う。確かに名前負けだが余計なお世話である。それでもわたしは、この名前が好きだ。我ながら、埋もれず小洒落(こじゃれ)ていると思う。この名前で十七年間生きてきたものだから自分にはこの名前以外しっくりこないような気がするし、それはあたりまえだろう。自分の名前が心から嫌いな人なんていない。

 わたしが名乗ると、笑われたり、感心されたり、奇妙がられたり、難癖を付けられたりいろいろだ。「いい名前」と言っておきながらその人が不服そうな顔をする度、悲しかった。上手く聞き取ってもらえずに最後まで勘違いされてしまうこともある。いくら気に入った名前とはいえ、そんなわけで自己紹介は毎回苦戦するのだった。


 「びっくりしたけど、素敵な名前。生まれた日は雨だったの?」

 だから、娘さんが雨の降り続く外を見ながらそういってくださったとき、わたしはうれしかった。何かが救われたような気がしたのだ。由来まで当てられたのは初めてだったかもしれない。びっくりした、という言葉も新鮮だった。なるほど、あの顔は不服だったのではなく、驚いていたのかもしれない。わたしはそれからまた二人と談笑し、帰るときには次の企画展の案内までいただいて、すっかり満たされた気分で盛久を後にした。

 信号待ちをしながら、もらった案内片手に考える。平成生まれの変わった名前の流行が話題になっていると、いつも心が痛い。確かに違和感があるかもしれないけれど、それを批判するときは気をつけてほしい。そこには心をもった生身の人間がいるのだから。わたしはその論争を、違う時代の流行同士がぶつかり合っているだけだと感じる。例えるならゴールデンレトリーバーとチワワだ。どちらも愛(め)でればよい話ではないか、と。

 信号が青になってわたしは歩き出す。春の雨が繊維のような直線を描いて、横断歩道の白にも黒にも等しく降っている。コンクリートも街路樹も自動車もカラスも、優しい雨に濡れてつやつやしている。文房具店の飾り窓は桜の花びらがモチーフになっていて、わたしは急ぎ足になる。そう、もうすぐ四月だ。わたしは高校三年生になる。雨を吸って一層鮮やかになった土の、山の、川の、いきもの達の、その健康的な空気を全身で感じながら自然に口角が上がる。紺色の折りたたみ傘がやわらかい風に乗ってふわりふわりと右手を引っ張ってわたしを急(せ)かす。

 しっとりとした午後四時の盛岡をゆく。わたしはやっぱり、雨が好きだ。



 《横顔》  高校文芸の発展が夢

 石川啄木(1886〜1912年)の没後100年にあたる今年、古里の盛岡市玉山区渋民に住む高校3年生が最優秀賞に選ばれた。高校生の受賞は本賞創設以来初めて。

 「受賞を告げられた時、最優秀賞って何だろう? 未成年対象の奨励賞のことかと勘違いした。この賞はもともと母の夢。2人で抱き合って泣きました」

 名前の玲音は「れいん」と読む。肯定的に受け止めてくれる人もいれば、批判的な人もいる。「平成生まれの変わった名前のことばかり言われるけれど、『子』の付く名前だって、かつてはその時の流行。名前の持つイメージと本人のギャップがあっても、名前自体は概念にすぎない。本人を見てほしい」と訴える。

 随筆を書き始めたのは高校1年から。エッセー集を読んで独学で勉強した。2年生の春からは、日記でも随筆を意識した書き出しと落ちのある文章を心がけた。受賞作もこの日記から生まれた。

 郷土の先人として、幼いころから啄木を学ぶ風土に育った。小学校の担任から詩を書く楽しさを教わり、中学3年から地元の俳句会や結社の句会にも足を運ぶ。「人の縁がどんどんつながり、いろんな経験をさせてもらっている。人に恵まれているなあと心から思います」

 高校では文芸部に所属。昨年の第6回短歌甲子園(盛岡市)の団体戦で優勝。8月は全国高校総合文化祭(富山県)に俳句部門の代表として出場する。

 華々しい活躍の一方、「暗い」といった文芸への固定観念から脱して、胸を張って打ち込める部活にしたいと心を砕いてきた。将来は、地域と文化のつながりを学び、発信する仕事に就き、「何らかの形で高校文芸の力になるのが夢」という。

 現在こだわっているのは残り数カ月となった17歳=B「何をやっても絵になり、許される。啄木が詠んだ『何かひとつ不思議を示し人みなのおどろくひまに消えむと思ふ』のように、楽しくて不思議なことにたくさん出合いたい」

 【くどう・れいん】 渋民中を卒業し盛岡三高に進む。文芸部所属。2011年、第6回短歌甲子園で団体優勝。「樹氷」「渋民俳句会」所属。盛岡市玉山区。17歳。同区生まれ。


優秀賞 川岸 伊藤由紀子


 はじめは何なのか分からなかった。不思議な感覚だった。車から降り立った瞬間、ほんのかすかに甘く柔らかなものに、体全体がつつまれた。夫も同じように感じたのか、私の方を目を丸くして振り向いた。

 二人で「何だろう。これ」ときょろきょろと、辺りを見渡した。「もしかして、桜の香り?」と顔を見合わせた。川岸の土手の向こうまで見渡す限りの、満開の桜である。どこまでも続いている。数年前、職場の人たちと桜談義になった時に、知る人ぞ知るという場所を教えてもらった。二、三日してたまたま、休みが重なった平日の午後、「こんな機会もないから、二人で行ってみよう」と夫が言い出した。

 北上の展勝地のように川沿いに何百メートルもの桜を、初めて見た時、こんなに素晴らしいところが、知る人が少ないのがむしろ嬉(うれ)しかった。静かな、視界の開けたところにこれほどたくさんの桜が、いっせいに風に揺れる姿。これ以上のものはなかった。

 そして、今年。失業中の私を、連れ出してくれた。三年ぶりだった。私は生まれて初めて、桜の香りというものを、経験した。それは、本当に驚きの一言だった。最初に来た時は、ただただ、花の美しさに見とれてはしゃいでいたから、全く気がつかなかった。今年は、晴れていたせいだからだろうかとも思った。土手の反対側は広々とした一面のまだ何も植えられていない畑で、桜の周りに灯籠も、屋台も何もないからこそ、香りが分かったのだった。

 桜の香りを知っている人は、多くはないのではと思う。樹齢何百年ともなれば違うのだろうか。本当にかすかな匂いだから、何千本と咲いていないとわからないだろうし、人の集まる名所では無理だろう。桜の香りを感じられたことは、とてつもなく大きなことだった。土手の下にずっと一列に水仙も植えられていて、この場所を慈しんでいる、地元の人達の気持ちが伝わってきた。

 それぞれ好きに桜の下を歩きながら、夫のことを思い始めた。べたべたされるのが、嫌いでたまに腕を組んで歩きたくても、絶対にしない。じっと目を見つめられるのも苦手な人だ。そんなあっさりした夫と結婚して本当に良かったと思えるようになったのは、一緒に暮らし始めて十年以上も経(た)ってからだ。

 喧嘩(けんか)も大きいのから小さいのまで、何度となくしてきた。子供の前でいさかいをしたことがない両親に育てられた夫には耐えられないことだったろうと、思う。温和な夫との口論の原因はたいてい私だった。離婚を真剣に考えたこともあった。それを踏みとどまったのは、縁あって出会い、家族をもって暮らしてきたことを否定したくなかったからだ。

 友人の中に、夫婦喧嘩を全くしたことがないという人がいた。よっぽど、奥さんが偉いのだと思う。夫を始めとして、自分が悪いと分かっていても、先に謝るなどということはたいていの人はできないのを、いつもたてて、譲ってあげているのだろう。私には最近になって、ようやく分かってきたことだ。

 結婚したての頃、万年新婚みたいにいつも仲良く新鮮でいるつもりだった。しかし、好きで結婚した後は、悪いところが目につくようになって、最悪の状態に陥った時もあった。私達にはそのようなことが波のように起こってきた。嫌になったから、すぐ別れてしまっていたら、何人と結婚しても同じであろう。

 大変なこと、辛(つら)いことを一緒に乗り越えて、苦労を共にして家庭を守る努力、忍耐をしてきたからこそ、理解し合い、本当の夫婦になれたのだと思った。

 専業主婦を何年かやっていた時、昔の友人達が外で活躍する様子に、悩んでいた。夫は「お母さんはたぶん、働いている方が楽なんだろうに。それなのに、家や子供たちを守ってくれてありがとう」と言ってくれたことに救われていた。病気がちになった時も愚痴ひとつこぼさず、私達をずっと守ってくれた。

 夫の本当の良さ、力強さが分かるのに、何年もかかってしまった。一緒に歩いてきて良かった。そんなことが、桜の香りに包まれている間、思い起こされて今この瞬間、ここにいることに深く感謝した。

 夫はと、目をやると、桜の木を見上げている私を土手の上から写真に撮っていた。何とまた、珍しいことだ。香りに、同じように酔ってしまったのか。二人ともいつもとは、違う自分だった。どうか、この場所がいつまでも、花と土手と畑と空だけの静寂な気品のある場所であってほしいと願った。

 「これからは毎年来ようね」と、腕を取ったらいつものように軽く振り払われた。魔法は消えていた。でも、来年はどんな思いに出会えるだろうか。香りがかすかに残る帰りの車内で、何も言わず、ただ川岸の桜の果てまで見つめていた。



 《横顔》  日々の喜び書き残す

 満開の桜の香りに誘われて、次々と心に浮かぶ思い出、そして夫など家族への思いを飾らずに書きとめた。

 「初めての体験。どうしても書き残したい」。桜が、自分を素直な気持ちにしてくれた。多くの人たちとのかかわりによって、今の自分がある−と。

 桜咲く川岸から帰宅してすぐにとりかかった。家事の合間を見てペンを握り、3日間で書き上げた。賞に応募したのは、前身の岩手日報文学賞随筆賞の時に1回きり。15年ぶりの応募が優秀賞受賞につながった。「光栄だけれど、いまだに信じられない」。

 大学を卒業後、都内に勤務。1990年に帰郷し結婚。出産を機にエッセーを書き始めた。本紙文化面の「ばん茶せん茶」に投稿し、これまで15回ほど掲載された。「日々の小さな喜びや感動を、個性を大切にして、素朴でもいいから書いていきたい」と願う。

盛岡市上ノ橋町。50歳。盛岡市出身。


優秀賞 雲よ 吉田澄江


 ヤッホー!! 夏だ。澄み切った青空に白く輝く夏の雲よ。どこかその辺りで元気なころのユキオを見かけなかったか。

 岩手山のてっぺんで、岩に腰かけ汗を拭いているかもしれない。八幡平の木道を、高山植物に話しかけながら歩いているか。さんさ踊りの熱気にカメラを向けているだろうか。

 風よ、山々を街並みを秋色に染めて吹き渡る風よ。どこかで元気なころのユキオに会わなかったか。

 黄金色に輝くブナ林で木もれ陽(び)を全身に浴びながら、ひとりブナの声を聴いているかもしれない。早池峰神楽の見物人の中に紛れ込んでいるだろうか。場末の一パイ飲み屋で、オチョコ片手に体ゆらゆらゆれながら目を細めているか。

 オーイ!! 秋の風よ。ユキオに会ったらどうか伝えて。早く家に帰るようにと、私が待っているからと。

 いつもそばにいて私は安心し切っていた。生活は楽ではなかったけれど、貧しさは気にならなかった。嵐の夜も吹雪の朝もこわくはなかった。

 時に小さないさかいもある。父と子の言い争いに「さわらぬ神に祟(たた)りなしだよ」と息子の方をなだめると、息子は「神の方からさわってくるんだ」と不満顔だ。父親は「親は親であることだけで偉いんだ」と大声を出す。泥酔して帰った夜の悪態は録音しておいて翌日、聞かせたいくらいだ。腹立ちまぎれに私が「離婚する」と喚(わめ)いても決してそうはならないことを自分自身が知っていた。

 「温泉行きたいね」

 「前にもらった温泉の粉っこはもうないのか。登別でも草津でも熱海でも」

 そういうことじゃないのに…。すれ違う気持ちに苛(いら)立ち「二人一緒にいても、心が通わないなら一人の方がよっぽど淋(さび)しくない」と焦(じ)れた言葉を投げつけても、一人ではいられないことを知っていた。

 子供たちがまとわりついていた頃も、成長して離れていってからも変わらず、大きな体の広い腕の中で「フーッ」と大きく息を吐けば心は落ち着いた。

 そんな日がいつまでも続くと思っていた。二人一緒に老いの日々を送るはずだった。

 ユキオは、半年後に定年退職を控えた九月、職場で倒れた。救急車で病院に運ばれた時には、意識不明で最悪の状態だった。くも膜下出血だ。

 一カ月近く生死の間を行き来したが、医師や看護師の懸命の手当てと、何より本人の心臓が丈夫だったことが幸いして、命だけは取りとめた。

 医師は「生きているのが奇跡。これ以上は絶対良くならない」と断言し、その上で「病人は病院に任せて、お家(うち)の人はまず自分の体を大切にして、気分転換を図る努力をしてください」と長期戦になることを宣告した。

 心配りの言葉がありがたかった。

 長い療養生活の間に、ベッドから車椅子へ、車椅子からベッドへの移動は私の得意技となり、病室を抜け出しては二人だけの場所・裏庭に行った。そこではその場限りのトンチンカンな会話が成り立つ。

 自分では身動きもできない状態であっても時に雲間から陽がさすように、意識のかけらがのぞくことがあるらしい。

 「私は誰ですか」「シラナイヒトデス」

 「私はあなたの奥さんです」「チガイマス」

 「奥さんはどんな人?」「モットビジン」

 「私があなたの奥さんですよ」「マッカナウソデス」

 声はかすれ、言葉もはっきりしない、やっと聞き取れるちぐはぐな会話である。けれどこのような反応が私の支えとなり、この命いとおしく、ひたすらいとおしく抱きしめる。

 一方通行の私の思いは、この人に通じているのかいないのか。この腕が私を抱くことはもうない。ほろ酔い機嫌の常で、吸い口を私の唇に触れてからタバコに火をつける仕草も今はもうない。

 地平線を見に行こうね。日本海に沈む夕日を見よう、日本中の巨木を訪ねてローカル線を乗り継ぐ旅に出かけよう。退職したらきっと、と約束したのに。

 花の春、青空の夏、紅葉の秋、降りしきる雪、通る度に違う様子を見せる病院への二十キロの道のりを、行方不明のこころを探して土日、祝日、盆暮れ無しで、私は通う。

 周囲の山々は季節毎(ごと)に色を変える。かつて一緒に登った山、もう二度と二人で行くことはない。山の美しさがさびしい。

 朝日を受けて湖面に映る錦の紅葉も、共に見る人が傍らにいなければ、その豪華さが却(かえ)って空(むな)しい。


 うつろな目をしたユキオが私の傍らにいる。

 でも……。ユキオはもういない。



 《横顔》  夫への哀悼 初応募に

 くも膜下出血に倒れた夫への鎮魂の思いと、その命を13年間守り続けてくれた医療関係者や周囲の人々への感謝の気持ちが、作品を書かせた。

 夫の七回忌を終えたが、悲しみは消えていない。作品中の夫の名は本名ではない。まだつらくて書けなかったのだ。しかし、周りの人から「幸せな夫」と言われていたことから「ユキオ」と記した。夫がいた時間がどれほど幸せだったか、闘病生活など振り返りながらペンを走らせた。

 随筆コンクールや新聞の投稿欄に応募したことはない。それだけに受賞は驚きだった。「選考委員に目を通してもらっただけでも、大きな喜び」と淡々。

 夫の入院中に身に着けた介護技術を生かそうと、ヘルパーの資格を取得し、グループホームに務めたこともある。これからは「心に浮かぶことを、日記などに素直に書きつづっていきたい」と思う。

盛岡市中太田。73歳。盛岡市出身。


優秀賞 父の講義 中村キヨ子


 畑を始めようと思ったのは東日本大震災後だ。隣にあった母屋は津波で壊れ、解体した。何とか残った我が家から、更地を目にするとため息が出る。コンクリートの基礎も撤去して穴は埋めたが、ざらざらのまさ土で野菜は育ちそうもない。そうかといって復興が進む中、家が残った者が趣味の家庭菜園に黒土を入れたいと思うと気が引けてしまう。暫(しばら)くは父の経験と知恵に縋(すが)るしかない。

 四年前、農業で生きて来た父が体調を崩した。通院の連絡があると付き添うのが私の役目になった。待合室での長時間の会話は主に戦争体験談だ。出征した満州、福岡での終戦の様子は何度聞いたか知れない。

 昨年の秋からはその話を遮り、野菜の作り方を聞く。メモ帳を出すと父は得たりとばかりに、「ジャガイモはマルチだな」と、背筋を伸ばし自信たっぷりの顔をする。

 ジャガイモは幼い頃、植え付けから芋掘りまで手伝ったから知っているつもりだったが、今は黒いビニールを土にかぶせ、温度や雑草対策をし、収穫量を増やすという。トマトやナスやキュウリも聞いては書き留める。植え時、畝の幅、肥料の種類など説明はよどみがなく、メモが追いつかない。

 「じいちゃん、待って。もう一回」

 と引き止めると、仕方ないなというように一息つく。その顔を横目でちらりと見た。お転婆だった私を諭した時の顔をしている。しおらしく父の話に耳を傾けた。このやり取りは退屈な待ち時間を勉強の場に変える大事な時間である。それにしても、父は昨年の津波をどう思っているのだろう。

 私は被災後、早く自宅に住みたいと思い、避難所から我が家に通っていた。ただただ泥をかく作業と家具や畳の処理に明け暮れていた。一週間ほどしてからだろうか。瓦礫(がれき)の間に車が止まった。誰だろうと手を休めて見ると弟の車だ。両親が乗っている。何ごとかと急いで行くと、父が涙を流していた。

 「じいちゃん、大丈夫。私、生きてるから」

 泣かないで、とタオルで涙を拭くと父は堪えきれずに嗚咽(おえつ)してしまった。どんな時も端然としていた父、父が泣くなど思いもしなかった。急に胸が熱くなり思わず父の手を握りしめた。しっかりと握り返す父、しかしその手は小刻みに震えていた。

 自分のことだけで精いっぱいの日々だった。たまに父の薬も気になったが、余震の大きさによっては避難警報が出る。サイレンの鳴り響く中、リュックを背負い線路を越えて高い場所に逃げなければならない。不安で眠れず、安全な情報を求めて枕もとのラジオを一晩中聞いた夜もあった。父の体調は無理やり頭の片隅に追いやっていたのだ。

 自宅に戻り、水やガスでの生活ができるようになったころ、父から薬が欲しいと連絡がきた。今なら何とかできそう、と瓦礫の街を医院まで歩いた。泥をかぶった家や車や船が道に山積みされている。道の中央は自衛隊や警察の車両が優先。人は瓦礫の間にできた獣道のような細い道を歩くしかない。黙々と医院を目指しながら、被災者でも誰かの役にたてると思うと、全く疲れは感じなかった。

 三カ月もすると気持ちが落ちついてきた。父の通院の付き添いを再開する。医院の待合室の壁には津波の到達地点の印がある。

 「じいちゃん、あそこまで津波が来たんだよ」

 津波を忘れたかのような父に示した。すると父はもうたくさんだというように目をそむけた。見たくないのだと思った瞬間、父の終戦間近の話が頭をよぎった。

 父の部隊がソ満国境から福岡までの移動をした時のことだ。到着した福岡には船も燃料もなかったという。燃料確保のために炭焼きの命令が出た。暑さの中、山仕事のできる数人が山へ登ったある晩、空襲があったという。

 「爆弾はな、空中で破裂し火の幕になって街さ落ちでいった。あの後、焼けた街を見さ行くべって誘われだども俺は行がねがった」

 自分の命が助かったことよりも焼け野原を見たくなかったのだ。もしかすると父は、悲惨な空襲に津波を重ね、その中にいる娘を思い、心配しながらも動揺する心を抑え一週間を過ごしたのかもしれない。

 二時間近く待ち、やっと名前を呼ばれる。手をつなぎ二人で診察室へ向かい、診察後も手をつないで待合室に戻る。安心した穏やかな父の顔を見て思う。付き添いをして慰められているのは私なのだと。

 玄関前のプランターに植えたブロッコリーが、父の農業手ほどき最初の作品だ。毎朝水遣(や)りをする。葉っぱの間から顔を出した小さな塊は成長を続けている。やがて夕顔やミニトマトも花を咲かせるだろう。夏には多くの実をつけると、その風景を思い浮かべる。

 私の腕前はどう?と胸を張っている来年、再来年が楽しみだ。待合室での父の講義はまだまだ続く。



 《横顔》  震災後 苦悩経て一歩

 東日本大震災後は、本を読むことも、文章を書く気も起こらなかった。今年の3月になると、何をしてもむなしい気持ちに。だが、両親の通院に付き添っていると、2人の穏やかな顔に救われた。

 「この顔を残したい」と思ったが、何度書いてもまとまらず、途中で投げ出したくなった。体調も優れない中、何とか応募締め切りに間に合わせた。受賞の知らせに、この1年の出来事がよみがえった。前を向くきっかけにしたいと願う。

 50歳で体調を崩し入退院を繰り返し、自力でできることが減っていく中、何かしたいと、岩手日報の文章教室に通った。書く喜びを知り、文化面「ばん茶せん茶」に投稿。2007年、岩手日報随筆賞の佳作に選ばれた。

 震災の傷は深い。何十年も付けていた日記も昨年で止まったまま。しかし「書きたい時に書く。これだけは続けていきたい」。

宮古市藤原。62歳。宮古市出身。


(2012.7.15朝刊掲載)

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