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〜第6回〜
光る個性7氏受賞 岩手日報随筆賞贈呈式


 岩手日報社主催の第6回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」贈呈式は16日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者7人と来賓、同賞の前身の岩手日報文学賞随筆賞を含む歴代受賞者ら約60人が出席した。東根千万億編集局長が選考経過を報告し、三浦宏社長が最優秀賞の久慈市侍浜町、小学校教諭太田崇さん(37)に正賞の「エリカ」像(故舟越保武氏制作)と賞状、賞金20万円を贈った。

 優秀賞は奥州市水沢区佐倉河の石川啓子さん(62)、盛岡市東緑が丘の大沼勝雄さん(78)、花巻市上根子新屋敷の稗貫(ひえぬき)イサさん(62)の3人に賞状と賞金5万円を贈呈。佳作は滝沢村滝沢の小玉すみ香(か)さん(42)、奥州市水沢区真城の遠藤カオルさん(58)、雫石町西安庭の小川クニさん(80)に賞状と賞金3万円を贈った。

 三浦社長は「身近な人への深い思いやりが込められた作品がそろった。大震災のさなか、家族や友人にはせる思いが胸にしみる。受賞者の一層の健筆を祈ります」とあいさつ。

 八重樫勝県教育委員長、鎌田英樹IBC岩手放送社長、詩人の城戸朱理選考委員長の祝辞に続き、受賞者を代表して太田さんが「書いたものが、誰かの力になったり、心に良い思いを残すのはすてきなこと。評価に応えられるよう、修養を重ねていきたい」と謝辞を述べた。

【写真=第6回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」を受賞した前列右から優秀賞・大沼勝雄さん、最優秀賞・太田崇さん、優秀賞・石川啓子さん、同・稗貫イサさん。後列右から佳作・遠藤カオルさん、同・小玉すみ香さん、同・小川クニさん】

(2011.7.17)


第6回岩手日報随筆賞決まる
−2011年−


 岩手日報社主催の第6回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の入選者が決まりました。

 最優秀賞は、久慈市侍浜町、小学校教諭太田崇(たかし)さん(37)の「父の行程表」が選ばれました。優秀賞は、奥州市水沢区佐倉河、農業石川啓子さん(62)の「引き継ぐ」、盛岡市東緑が丘、大沼勝雄さん(78)の「津軽山唄」、花巻市上根子、主婦稗貫(ひえぬき)イサさん(62)の「父の匂(にお)い」の3編です。

 佳作は、滝沢村滝沢、主婦小玉(こだま)すみ香(か)さん(42)の「石田坂と笑顔の彼」、奥州市水沢区真城、パート勤務遠藤カオルさん(58)の「両親の米作り」、雫石町西安庭、小川クニさん(80)の「北へ−子を連れて」の3編。20歳未満の応募者が対象の奨励賞は該当作がありませんでした。

 贈呈式は16日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞の太田さんに正賞のブロンズ像「エリカ」(故舟越保武氏制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞の3人に賞状と賞金5万円、佳作3人に賞状と賞金3万円がそれぞれ贈られます。

 今回の応募総数は128編。社内の予備選考を経た12編について選考委員の詩人城戸(きど)朱理(しゅり)氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷(ひらや)美樹(よしき)氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子(まみこ)さん(一関市)が審査しました。

(2011.7.8)


第6回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」
受賞者と作品紹介

 

 岩手日報社が2006年に創刊130年を記念して創設した「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」は第6回の今年、ほぼ昨年(133編)並みの128編の応募があった。選考委員の詩人城戸朱理氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が6月23日、本社で選考会を開き、社内予備選考を通過した最終審査候補12編の中から最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作3編を選んだ。最優秀賞、優秀賞の受賞者の横顔と作品を紹介する。

 《選評》 感情と言葉に磨きを

 東日本大震災は、日常の意味を変えた。

 昨日と同じように今日があり、今日と同じような明日が来る。そんな当たり前の感覚が、崩れ去り、人間の営みは、突然、理由もなく奪われてしまうことがあることを知った今、日々を生きることの意味は、さらに切実なものとなったのではないだろうか。

 最優秀賞「父の行程表」は、3歳のときに亡くなった父が果たせなかった夢を、子供が実現するという内容が、まず印象に残る。そのとき、作者が、父親が亡くなったときと同じ年齢になっていたことも感慨深いものが。父の面影を求めて、遺品の机のなかを確認しているうちに、父親の夢が、次第に形を取っていくあたり、構成も巧みだが、目的地を最初に明かしてしまわないほうが、より、読者を引き込むものになったかも知れない。

 優秀賞「引き継ぐ」は、杉木立のなかの湧水を語って清洌(せいれつ)。山火事の記述も鮮やかだが、湧水と祖父、そして山火事と書きたいテーマが多すぎて、焦点が定まらないのが惜しい。

 「津軽山唄」は、妻の故郷と自分の故郷が、次第に重なり合っていく様を義父との関係のなかに描き出す。民謡が、効果的に織り込まれているが、運びが、やや強引。作者の心情をもっと丁寧に書き込むと、さらに説得力のある作品になっただろう。

 「父の匂い」は、年を重ねても、忘れることが出来ない自責の念と父の慈愛を描いて、心温まるエッセイだが、父親の持病の大変さを最初に説明しておくと、作者の思いが、より明らかになったのではないだろうか。

 今回は、東日本大震災で、応募者の気持ちも揺らいでいたのか、全体に低調だった。けれども、だからこそ、日々の切実さから、自分なりの言葉を汲(く)み上げていって欲しいと思う。

 (城戸選考委員長)


最優秀賞 父の行程表 太田 崇


 レールの継ぎ目を通過するたびに、心地よい振動が体を揺らす。カタタン、カタタンと歌うようなリズムと、風のように過ぎ去って行く緑の中の家々。列車は緩やかなカーブを描きながら、少しずつ高度を上げていく。

 マッターホルンの頂が顔をのぞかせた。青よりも蒼(あお)い空を、するどい稜線(りょうせん)がななめに切り裂いている。ようやっと、たどりついた。父が見たかった場所が、もう目前に迫っている。私は、胸の内ポケットに入れてある封筒に、そっと手を当てた。

 その机は、もう長いこと物置の隅に置かれていた。天板の下には横長の大きな引き出しが一つ。右側には長方形の引き出しが縦に三つ並んでいる。黄土色をしたその机にはおよそ金具らしいものは一つも見当たらず、木を逆三角形に削って組み合わせる蟻(あり)組みという工法で作られていた。家族からは「お父さんの机」と呼ばれていたが、その言葉の意味するところを正しく知ったのは、物心付いてからのことである。

 父が他界したのは、私が三歳のときだった。幼かった私がその面影を覚えているはずもなく、当時のあやふやな記憶と後から耳に入ってくる話で、私にとっての父は常に漠然とした存在となっていた。母からその人となりを聞いても、かつて同僚だったという人から学校での仕事振りを聞いても、それらはどこか他人事のようで自分とは結びつかないでいた。私にも父はいたのだろう。だが存在し生きていたのだという、確固とした思いを持つことができないでいた。

 そんな私が父の机に興味を持ち始めたのは、中学生になった頃だった。暇を見つけては物置に足を運び、引き出しを開ける。ノートを見つけては一ページ一ページ目を通し、父の考えの足跡をたどった。ページの外に書いてある読むことのできない走り書きにさえも、それが持つ意味について考えを巡らした。ボールペンは実際に手に取り、雑誌にも目を通した。小さな引き出しの中では、十年間という時間が、止まったままになっていた。私は父が過ごした時間を、ひたすら旅し続けていた。

 いつものように物置に入り、さて今日は何を読もうかと机をあさっていると、一冊のスキー雑誌を見つけた。母の話によると、父はよく私をおぶったまま、頂上から平気ですべり降りてくるほどの腕前だったらしい。表紙にアルファベットが踊るその雑誌には、どこか外国にあるゲレンデの写真が載っていた。旅とスキーを愛して止(や)まなかった父のこと。いつか異国のゲレンデをすべることを楽しみにしていたのだろう。目を通しているうちに、雑誌の中ほどに何かが挟まっていることに気がついた。ふちが茶色く変色したB5判の紙が三枚。広げてみると、出発の空港、到着後の動き、訪れる町。スイスへの行程表だった。

 日付を見るとその行程表は、父が他界する半年ほど前に書かれていたことが分かった。告知されたのは母だけだったが、父は自らがガンに侵されていることを感づいていたという。してみるとここに書かれているのは、果たしえないことを承知の上で綴(つづ)った、父の夢なのだろう。父親という目標を持たない私にとって、その行程をたどるということは、それから一つの意味を持つようになっていった。

 スイスへ旅立つ前夜、母が餞別(せんべつ)と写真を手渡してくれた。その写真はまだ幼かった私と父が並んで写っている、数少ない写真のうちの一枚だった。一緒に風景を見せてあげてほしい、というのが母の願いだった。

 ステップを踏んで、氷河特急からホームに降り立つ。緑色の風が吹き抜けていく。父の残した行程をたどって六日目。最終日。マッターホルンに一番近いゴルナーグラート駅へ降り立った。ここで、私と父の旅が終わる。私はちょうど、父が他界したときと同じ年齢になっていた。子どもはまず父を目標に成長するという。父が果たしえなかったことを自分が成し遂げたことで、私はようやく大人になることができたような気がした。

 日本人の旅行者にお願いして、写真を撮ってもらった。背景には澄み渡った空とマッターホルン。そして、右手には母から預かったあの写真を持って。この風景を、父に見せてやりたかった。わずかに感じた感傷は、八月の高い空へと吸い込まれていった。

 そのときの写真はいま、私の机の上に飾られている。



 《横顔》  読み手と目的を意識

 スキーを愛し、早世した父親が果たせなかった旅。物置で見つけた行程表をたどる旅を通し、父の存在を確かめる過程をつづった。淡々とした筆致から両親への深い思いが伝わる。「母親に受賞を知らせたら、とても喜んでくれた。ひとり親だったことで負い目を感じていたと思う」。喜びを静かにかみしめる。

 文章を書き始めたのは勤務する小学校の校内研究がきっかけ。研究主任として国語の「書くこと」に取り組んだ。中学校英語と小学校の教員免許を持ち、国語は専門ではない。子どもに教える前に自ら体験しようと随筆を書き、久慈市民文芸賞に応募。2008年に奨励賞、翌年は小説で優秀賞に選ばれた。

 昨年は岩手芸術祭「県民文芸作品集」に児童文学で応募し、優秀賞を受賞した。「自分が勝手に書いているだけなので、ここがだめだよとか、もう少し頑張った方がいいよというのがいただければ、と思って応募している」という。

 受賞作は2回目の応募。大型連休中に2日ほどで書き上げた。これまでと異なり、家族がテーマ。「震災があり、家族のことを考えることが多かった。地震の後で最初に連絡が来たのも家族。感傷的になっていたところもあり、供養代わりに書いてみた」

 多忙な日々の中、土曜の夜は仕事を離れて好きなことに充てると決めている。文章を書くのも主にその時間。ノートに気付いたことを書き込み、パソコンで清書する。「話したいことはたくさんあるのに、うまく表現できない。『相手意識』と『目的意識』。だれに読んでもらうかと何を書くか、書く前に考えることが大切ですね」と、自ら身に付けたコツを子どもに教えるように披露する。

 まとまった休みがあれば旅行に出掛ける。戦争の跡をめぐり、年に1、2回は海外へ。小学校6年の時の先生が広島について教えてくれたのが原点という。「次の世代に何かを残すとしたら『平和』が一番。何があったかを自分で確かめて伝えていく必要がある」。体験から学ぶ実直な姿勢が文章にもにじみ出ている。

 【おおた・たかし】 岩手大教育学部卒。97年に小学校教員となり、侍浜小などを経て06年から小久慈小に勤務。久慈市侍浜町。37歳。青森県佐井村生まれ


優秀賞 引き継ぐ 石川啓子


 杉木立の中を水が流れている。苔(こけ)と石の間から滾滾(こんこん)と湧き出る水。その湧水池の中では鰍(かじか)が気持ち良さそうに泳いでいた。

 湧き水は生家の近くにある。生家は奥羽山脈の麓に位置しており、その昔、本家から湧き水を守るという使命を与えられ、分家となって数百年の時が流れた。

 祖父は湧き水の産湯に浸(つ)かった明治生まれの一人っ子であり、豊かな自然環境の中で植物に興味を持ち、自然を大切にし、楽しみは季節の移ろいと共にあった。

 春、森に命の息吹が押し寄せてくると、愛用のリュックを背負って山へ入った。リュックの中には湧き水を入れた私のお下がりの赤い水筒が入っている。コゴミ、ゼンマイ、ワラビなどなど、山の恵みは頂く時期を見極め、まだ小さいのは後(あと)に山に入る人のために残して置くのだ、と言っていた。

 森と隣人、他者への礼節である。

 私有の土地が連なっている山では、自然の恵みを頂く分については共有できるおおらかさがある。大人も子供も、地元の人たちは山に入ると帰りには湧き水で汗を鎮め、家路に就いたものである。

 透明な水は夏は冷たく、冬は温かく凍ることを知らない。喧騒(けんそう)の世界から解き放たれた心を癒やしてくれる神聖なその空間は、後に、上水道の水源地となり、建て物の中に閉じ込められてしまった。

 祖父は湧き水の跡地に水仙の花を植えた。

 「湧口(わっくつ)をいつまでも思い出したくて、家から持ってきて植えたのだぁ」

 代々引き継がれていた水守りの血がそうさせたのであろう−。

 生家は農を生業としている。病気がちだった祖母の介護は祖父の手に委ねられ、必然的に両親は働き手である。祖母が眠っている間がほっとする祖父の時間であった。鉄瓶で沸かしたお湯でお茶を入れ、おいしそうに飲んでいた。小学校から帰ると、私にもお茶を入れてくれ、お茶を飲みながら話をしたことなど懐かしい思い出の一こまである。

 湧き水は、日照りが続き水不足になったとき、十数キロ離れた国道沿いの方からも汲(く)みに来たものだ、と祖父は物語のように聞かせてくれた。その当時、どのようにして水を運んだものか、豊富な水を生活用水にすることが当たり前の生活(くらし)だと思っていた子供の頃の私には到底、理解できることではなかった。

 晩年の祖父は、散歩を欠かさず、玄関を出るとその足は迷わず湧口へ向かう。その向こうには元気だった頃、枝打ちをし、下草を刈って手入れをした森があり、成長を見上げ、四季の優しさに包まれて日々を重ねた。

 その森がざわめいた。

 平成九年五月二日の昼下がりのこと、連休の平穏さを打ち破って山林火災が発生した。火の粉は五月の風に煽(あお)られて広大な山々を際限なく暴れ、夜になっても勢いが収まらず、炎は猛者となって暗闇の森を嘗(な)めつくし、生家から連絡を受けて駆けつけた私は、ただ、呆然(ぼうぜん)と見ているしかなかった。

 「俺だち、こんな目に合わなければならないほど、何か悪いことしたったぇがね……」

 燃える山を見上げながら、地元の人たちは嘆息するばかり。

 やがて祖父は介護が必要になり父にごはんを食べさせて貰(もら)いながら、松茸(まつたけ)の生える場所を遺言した松林も消えてしまった。が、父がご神体を避難させた湧口の側(そば)にある水神様のお堂は、辺りが火の海になっても不思議なことに燃えずに無事であった。

 地元の人々は、朝な夕な変わりなく佇(たたず)む山並みの姿に安堵(あんど)し、先代から引き継いだ景観はそのまま次世代に渡せるものと信じていた。

 裸木から新芽へと変わりつつあった山が一変し、もくもくと立ち込める灰色の煙は広い空へと吸い込まれて行く。

 翌年の春、露(あら)わになった山の斜面にスミレの花が咲いた。まるでヘリコプターの防火用水にスミレの種が混じっていたのでは、と思われるほどに一面スミレ色になった。

 雨は森を潤し、樹木の根は雨水を貯(たくわ)えて湧き水の源となる。雨水は土の中に二週間から長く一万年もの間、地下水として潜在するという。生家の近くの湧き水がどのぐらいで地上に湧き上がっているものなのか、森がなくなっても何事もなかったように涸(か)れることなく、水は湧き続けている。

 スミレが咲いた若草の坊主山に杉の苗木が植えられた。

 祖父の後(あと)を追いかけ、山野草を摘み、名前を教えてもらった森。地元の人たちが守り育(はぐく)んだ昔の森と同じになりつつある姿を、故郷(ふるさと)を離れて住む私はあまり見ることは叶(かな)わないが、生家へ向かって車を走らせると、思わずハンドルに力が入る。

 そこには、湧き水と、年々緑が深くなっていく苗木が朝日に輝いている山並みがある。



 《横顔》  生命の力強さに感銘

 祖父が見守った生家近くの森と湧水。山火事で焼き尽くされたと思ったが、やがて緑が芽吹く。生命の力強さに打たれ、自然との共生の願いを込めた。

 故郷の景観が一変した悲しさを、いつか文章に残したいと思っていた。木立には、自分をかわいがってくれた祖父の思い出も満ちていた。

 受賞作は大震災前から書き始めた。地震後の燃料不足で、ガソリンを購入するため、給油所前に6時間並んだ自動車の中で完成させた。

 本紙の「ばん茶せん茶」「花時計」に度々応募。随筆賞は2度目の挑戦だった。「1度目と違い、今回は推敲(すいこう)もして応募したが、まさか自分が選ばれるとは…」と受賞の知らせに驚いた。

 子育てを終え、10年ほど前から農業に携わる。その傍ら文章教室にも通う。「言葉を大切にし、可能な限り書いていきたい」

 奥州市水沢区佐倉河。農業。62歳。紫波町出身。


優秀賞 津軽山唄 大沼勝雄


 「いい男連れてきたって、父親、珍しく喜んでいたっけなあ」

 父の二十三回忌法事の電話連絡を受けた妻が、五十余年前を懐かしんでいた。

 彼女に誘われて、先方の皆さんへ挨拶(あいさつ)に出掛けたときのことである。父は古風で頑固な高等学校長、彼女からそう聞かされていた私は、極限まで膨らんだゴム風船みたいに張り詰めた思いで初対面の挨拶を済ませた。

 その精神状態が、折り目正しくて瑞々(みずみず)しい印象を与えたのだろう。

 家から離れた公園の観桜会に集まった三十人ほどの親類縁者に、「いずれは娘の恭子といっしょになる男性だ」と紹介してくれた。

 彼女とは将来を約束していたが、いきなりの結婚承認宣言には面食らった。

 拍手と歓声に迎えられて、いつの間にか大集団の宴席に引き込まれていた。「よく来たなあ」と声を掛けながら茶碗(ちゃわん)に酒を勧めてくれる父親から、思っていたよりも物腰の柔らかさが感じられた。言葉を交わしているうちに、通じ合う情念さえ感じていた。

 酔いのまわった父親は、相手構わず「我(ワ)に似て、いい男だ」と私を宣伝していたという。

 母親も二人の弟も親戚の方々も、心から歓待してくれた。私は快く酔った。

 離れた所の舞台からは、豪快な三味線の音や躍動感あふれる津軽民謡が流れていた。ところが、ふとその音が止(や)んで、代わりに尺八の澄んだ音にのったゆったりとした歌が聞こえてきた。津軽山唄である。南部民謡に似た悠長な歌を聞いていると、異郷で知己に会ったような安息感を覚えた。

 「こったなさびしい唄、マイネ。津軽の唄ァ、景気いいのに限るよゥ」

 突然、父親が声をあげた。語気鋭く断定的な言い方だったから、通じ合う情念に亀裂が生じた思いがした。

 翌春、弘前大学教育学部を卒業した私と彼女は、幸いにも同一教育事務所管内の小学校に赴任した。二人の結婚手続きは順調に進められ、その年の十一月に式を挙げた。

 一年半後には女児が生まれた。

 長女が二歳十か月のとき、二女が生まれた。

 その産後休暇を、妻は長女も連れて生家で過ごすことにした。生家までは電車で四十分ほどだったから、休日には私も足を運んだ。

 十一月下旬だったから、津軽地方には黒い雲が垂れこめて重苦しい日が続いた。帰宅すると無人の部屋にも重苦しい空気が淀(よど)んでいて、独り暮らしの哀感がこみあげてきた。やわらかい日差しが注ぐ生まれ育った盛岡近郊の陽気な初冬風景が、無性に恋しくなった。

 津軽の生活も九年が過ぎ、風土や風習それに言葉にも慣れ親しみつつあった。妻の生家の支援も受けて生活の不安はなく、暮らしぶりに不満はなかった。けれども、望郷の念は消えなかった。重苦しい初冬の独り暮らしに誘発された淡い郷愁だけではなかった。

 反対するだろうと思っていた越境移転を、妻が潔く承諾した。義父は、娘を遠くへ送り出すのは忍び難いと渋っていたが、そのうちに了承してくれた。頑固な人にしてはあっけない結着だった。

 津軽を去るとき、娘をよろしく頼むと言ってから、義父がつぶやいた。

 「津軽の人になると思っていたんだがなあ」

 張りのない声を私は黙って聞いていた。

 新任地は、北上高地の奥深い所だった。交通の不便なことに妻は眉をひそめたが、振り向かない気質だから愚痴をこぼすことはなかった。私はじょっぱり型の津軽への融和を諦めたが、じょっぱり型の妻をおっとり型の南部に融和させないといけない、私は自分にそう言い聞かせていた。

 定年退職後の義父は、家業を長男夫婦に任せて悠々自適の暮らしぶりだった。娘の生活が気になるのか、両親でよく足を運んだ。細やかな心情の集団に溶け込もうとしている娘の姿をみて安心したのだろう。狭い住宅に二、三泊するのだった。異動のことで生じた心の隙間は徐々に埋まった。

 八年後に新居を構えた。義父母や義姉夫婦それに私の兄姉などを招いて、ささやかな新宅披露の席を設けた。十人ほどの宴席は、津軽弁と南部弁が入り混じって和やかに進展した。妻も二人の娘も喜々として給仕にはげんでいた。

 床の間を背にした義父の温顔を眺めているうちに顔が妙に熱っぽくなり、私は思わず立ち上がった。そして殆(ほとん)ど衝動的に、津軽山唄を歌い始めた。

 「ヤァイデャー 十五や 十五や 十五 七が ヤィ……」

 座席を見渡すと、顎を引いて納得の表情をみせるこわばった義父の顔が目に入った。気が散るので目を閉じた。すると、ほの暗い空間に山が浮かんだ。それは岩木山なのか岩手山なのか、私にはわからなかった。



 《横顔》  望郷の思いがにじむ

 民謡の津軽山唄をモチーフにして、津軽人の義父と心が通じ合った瞬間を切り取った。家族関係の機微を描き印象的な作品だ。

 義父の期待に反し、教師をしていた青森県から岩手県に戻る経緯などをまとめたいと、以前から考えていた。「人間は生まれ育った風土と深い関わりがある。故郷に戻るのが自然の姿」という望郷の思いも作品ににじむ。

 釜石市の旧箱崎小校長を最後に定年退職。今は、町内会長を務める。その仕事が多忙な時期だったが、ペンを執った。「書きだしが難しい。何度も書き直し、1週間以上かかった」

 随筆賞は4度目の応募で初の入賞。学生時代から同人誌に小説を発表、岩手日報社の文芸誌「北の文学」に応募したことも。今後も「義父との関わりを詳しくまとめ、北九州市が募集している『自分史文学賞』に応募したい」と意欲。

 盛岡市東緑が丘。78歳。紫波町出身。


優秀賞 父の匂い 稗貫イサ


 心の奥に消えることのない道がある。夕暮れ時を思わせるような道である。

 学校から帰ると寝床の戸が開いていた。窓がなく陽(ひ)も差さなければ風も入らない部屋だ。のぞくと父が横になっていた。持病の座骨神経痛がいつにも増してひどいようだと、母が話してくれた。

 「医者サ行って、薬もらって来(こ)」

 思いもしない言葉に聞き違いではないかと母の目をとらえた。父に似て臆病者の私。一人で用足しに出たことはない。町の医者まで片道三十分はかかる。まして、小学二年生の私の足ではもっとかかるだろう。嫌なのに嫌と言えないでうつむいていた。

 行く先々の恐怖を思うと、駄々をこね泣き出しかった。

 「寄り道しねで、さっさと帰って来(こ)よ」

 母に念を押され、重い気持ちをひきずったまま家を出た。

 おかっぱ頭に汗を感じない。大好きなスカートもはいていない。すると、季節は秋だろうか。

 坂を登ると学校が見えた。いつも賑(にぎ)やかな校庭は静まり返っていた。(ちぇっ)誰かに勇気をもらうつもりだったのに……。歩きながら靴で石ころを蹴り飛ばした。

 道の真ん中から左端に沿って歩く。右手に女の子が溺(おぼ)れ死んだというため池があるからだ。ドロリとした緑色の表面には葉や小枝が散乱し見るからに気味が悪かった。なにより、ここで溺れた子が髪や着物を濡(ぬ)らして水面に浮かび、私を恨めしそうに見ているような気がしてならなかった。両腕を水平に伸ばし、口を結び通り過ぎた。

 道筋に息を潜める所がまだある。草むらの中に大きなお墓が建っていた。それだけでも怖いのに、お墓の裏から野良犬が出ることがあった。しっぽを太くして唸(うな)り声を上げるだけの時もあったが、どこまでもついてくる時もあった。母と一緒の時でさえ足が竦(すく)み(シッ、シッ)と心の中で追い払っていた。もし、犬に出くわしたらお尻に噛(か)みつかれるかもしれない。そう思うと足音が出ないようにスタスタ急いだ。

 道の両端に立ち並ぶ木々もなく明るい所にでた。医者まではもうひと息である。

 やっと着いた。息をはずませている私に「いつもの薬ね」と看護婦が言った。全身で「うん」と答えた。

 薬を待つ間、外に出て遊んでいた。

 「いさこ?」聞き慣れた声がする。運送業をしている近所のおばさんだった。一人で薬をもらいに来ていることを話すと、トラックの荷降ろしが終えたら車に乗せて帰るからここで待っているように、と言い仕事に戻った。

 怖さと歩きで疲れていた私は、おばさんの言葉に迷いなく頷(うなず)いた。もらった薬を固く握り、畳二畳ほどの待合室に座っておばさんを待った。なかなか戻ってこない。

 (待っても歩くよりは早いよ。車だもの)

 言い訳をしてみた。だが、空は薄墨色に暮れかけていく。(早く来ないかなぁ)待合室から何度も外に出たり入ったりしながら待ち続けた。

 父と母の顔が浮かぶ。叱られると思うと胸がドキドキしてくる。あれほど、すぐ帰るようにと言われていたのに。

 どのくらい待っただろう。おばさんが戻ってきた。私を抱き上げてトラックの座席に座らせ、ようやく走りだした。初めてのトラックに期待し心弾ませていたのに、気持ちは家に家にと急いでいた。

 沈んだ心で玄関を開けた。寝床の戸は開けられたままだった。大事に握ってきた薬をもそっと母に渡した。

 「サっ、父さんに謝るべし」

 父に気遣う母の苛立(いらだ)ちの声がした。悲しさと怒りが入りまじる。遅くなってしまった、でもガンバッテ行って来た。二つの気持ちが私を黙りこませた。母は謝ろうとしない私の背を強く押した。両足だけが前に出た。顎はぐっと引いた。

 背を押されたまま父の前に行く。

 「父さん……」次の言葉がすんなり出ない。父は細く白い脛(すね)をかばうように、ゆっくり布団の上に座った。ぶたれると思っていた私に「来(こ)っ」と小さく手招きした。

 寝間着姿の父の傍らに行き膝をついた。湿った力ない手で頭をなでてくれた。だらりと合わせた襟元から汗の臭(にお)いがした。父の匂(にお)いであった。その臭いは、病む父を忘れトラックという楽な方を選んだばつの悪さと、行きと帰り同じ道なのに、帰りはまるで違う道に思えて混乱している私の心を鎮めた。

 父は辺りがうす暗くなっても帰らぬ私をどんな思いで待っていたのだろう。

 ずっと、気にもしていなかった父の気持ちが、年を重ねれば重ねるほど切なく解(わか)りかけてくる。



 《横顔》  自然体で数々の受賞

 幼い頃、病気の父のために薬を取りに行くよう言いつけられた時の不安。その子を気遣う父。親子の情愛が胸に迫る。

 テーマは、ずっと心の中にあった。構想を練る中「怖かった道、叱られた悔しさなど、自分の気持ちを思い出していくうち、電話もなく連絡もとれず心配したであろう父の思いにたどり着いた」。その時、一気に書けた。

 優秀賞の知らせを受けた日、整理していた引き出しから、偶然にも、父の記事が載った20年以上前の岩手日報が出てきた。掲載されている父の写真に、受賞を報告した。

 2007年、08年と2年連続で随筆賞佳作。「やっと優秀賞。うれしかった」。06、09年県芸術祭県民文芸作品集で奨励賞、昨年は三好京三随筆賞の最高賞と受賞歴は豊富。「これからも心に響くものを書きとめ、自分なりにゆっくり書いていきたい」と自然体だ。

 花巻市上根子。主婦。62歳。遠野市出身。


(2011.7.8朝刊掲載)

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