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〜第5回〜
6氏輝く受賞 岩手日報随筆賞贈呈式


 岩手日報社主催の第5回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」贈呈式は17日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者6人と来賓、同賞の前身の岩手日報文学賞随筆賞を含む歴代受賞者ら約60人が出席した。東根千万億常務編集局長が選考経過を報告し、三浦宏社長が最優秀賞の雫石町七ツ森、会社員渡辺治さん(64)に正賞の「エリカ」像(故舟越保武氏制作)と賞状、賞金20万円を贈った。

 優秀賞は花巻市上諏訪の鈴木紀(のり)子(こ)さん(35)、宮古市山口の沢内建志(たけし)さん(69)、釜石市源太沢町の平松真紀子さん(61)の3人に賞状と賞金5万円を贈呈。佳作は盛岡市長橋町の高橋政彦さん(45)、奥州市江刺区豊田町の平沢和志(かずし)さん(56)に賞状と賞金3万円を贈った。

 三浦社長は「最優秀賞作品は追憶の世界がよみがえり、余韻が深い。受賞者の一層の健筆を期待します」とあいさつ。

 八重樫勝県教育委員長、阿部正樹IBC岩手放送社長、城戸朱理(しゅり)選考委員長の祝辞に続き、受賞者を代表して渡辺さんが「文は読む人がいて初めて生きることを知った。自然など豊富な題材に恵まれている岩手に住む環境を生かし、精進していきたい」と謝辞を述べた。

【写真=第5回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」を受賞した前列右から優秀賞・沢内建志さん、最優秀賞・渡辺治さん、優秀賞・鈴木紀子さん、同・平松真紀子さん。後列右から佳作・高橋政彦さん、同・平沢和志さん】

(2010.7.18)


第5回岩手日報随筆賞決まる
−2010年−


 岩手日報社主催の第5回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の入選者が決まりました。

 最優秀賞は、雫石町七ツ森、会社員渡辺治さん(64)の「一本の古クギ」が選ばれました。優秀賞は、花巻市上諏訪、県立病院職員鈴木紀子さん(35)の「おやすみ、大好きなお母さん」、宮古市山口、沢内建志(たけし)さん(69)の「命の誕生」、釜石市源太沢町、自営業平松真紀子さん(61)の「熊さんの杉」の3編です。

 最優秀賞、優秀賞の受賞者の横顔と作品は10日付で特集します。

 佳作は、盛岡市長橋町、企画編集業高橋政彦さん(45)の「ギター大作戦」、奥州市江刺区豊田町、江刺南中校長平沢和志さん(56)の「葉(ば)らん」の2編。20歳未満の応募者が対象の奨励賞は該当作がありませんでした。

 贈呈式は17日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞の渡辺さんに正賞のブロンズ像「エリカ」(故舟越保武氏制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞の3人に賞状と賞金5万円、佳作2人に賞状と賞金3万円がそれぞれ贈られます。

 今回の応募総数は133編。社内の予備選考を経た9編について選考委員の詩人城戸朱理氏(委員長、神奈川県鎌倉市)、作家平谷美樹(よしき)氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が審査しました。

(2010.7.6)


第5回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」
受賞者と作品紹介

 

 岩手日報社主催の第5回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の贈呈式は17日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われる。2006年に創刊130年記念で創設した同賞は今回133編の応募があり、最優秀賞に渡辺治さん(64)=雫石町=の「一本の古クギ」を選んだ。優秀賞は鈴木紀子さん(35)=花巻市=の「おやすみ、大好きなお母さん」、沢内建志(たけし)さん(69)=宮古市=の「命の誕生」、平松真紀子さん(61)=釜石市=の「熊さんの杉」の3編。佳作は高橋政彦さん(45)=盛岡市=の「ギター大作戦」、平沢和志さん(56)=奥州市=の「葉(ば)らん」の2編だった。この中から最優秀賞1編と優秀賞3編を、受賞者の横顔とともに紹介する。

 《選評》 自由には制約も伴う

 英語で「エッセイ」といえば、学術論文から批評まで、幅広い散文作品を指すが、日本で「随筆」というと、心の赴くままに綴(つづ)られた文章のことを指す。それは日本の風土が育(はぐく)んだ独自の文学形式なのだと言えるだろう。

 もちろん、読者に読んでもらうためには、魅力的なモティーフを選び、構成を考え、そして、文章を彫琢(ちょうたく)しなければならない。

 最優秀賞の「一本の古クギ」は、その意味では、もっとも完成度が高い作品。

 朝日に向かって飛んでいく鳩(はと)の群れを見て、よみがえる五十数年前の思い出。友情と差別、若い日の悔恨が一体となって、人間社会が抱える問題を考えさせるあたりも素晴らしい。

 一方、優秀賞の3作も、最優秀賞に迫る、読み応えのあるものだった。

 「おやすみ、大好きなお母さん」は、シングルマザーとして、息子と暮らす母親の実感があふれているし、親子の自然な会話が文章に精彩を与えている。

 「命の誕生」は、助産師だった母の思い出と現在が交差するところが魅力的だし、山で暮らす男たちの姿を描く「熊さんの杉」は、ドラマチックな内容が印象的。常套(じょうとう)的な表現を避け、さらに推敲(すいこう)を心がけてほしい。

 応募作は、思い出を語るものもあれば、今の思いを綴るものも。随筆の自由さを感じたが、自由だからこそ、作者は様々(さまざま)な制約を引き受けなければならないことを、確認してもらいたいと思う。

 (城戸選考委員長)


最優秀賞 一本の古クギ 渡辺 治


 まぶしい朝日に向かってハトの群れが飛んでいく。その軌跡に吸い込まれるように、私は五十数年前の春、中学に進学したばかりの少年のころにタイムスリップしていた。

 私が育った米軍基地の町三沢では、伝書鳩(ばと)の飼育が流行(はや)っていた。鳥が好きだった私も欲しかったが、町営の長屋に八人家族の暮らしがやっとで、それができる余裕はなかった。

 諦(あきら)めきれない。ハトは顔見知りの愛好家から分けてもらうこともできたし、餌は新聞配達をすれば何とかなる。ひとつだけ、鳩小屋をどうするかが悩みのタネだった。

 そうだ、学校だ! 思いついたら走り出していた。科学部の先生に、ハトの観察をしたいので鳩小屋を造ってほしい、とアピールを繰り返し、ひそかな期待を胸に待ち続けた。

 秋風の立つころ、待望の許可が下り、校舎を見渡す高台に鳩小屋を建てた。早速、学校でハトの研究をする−とあちこちに言い回って、すぐに十数羽を集めることができた。

 嬉(うれ)しくて全校朝礼会で発表したのに、たいした話題にもならず、となりクラスのT君だけが毎日のように顔を見せていた。

 彼は小学生のころ転校してきた口数の少ない子だった。ハトを見つめる目はきらきら輝いて、校庭の上空を飛ぶ群れや、ヒナが育つ様子を見に来ては、いつもうらやましそうな表情を残して帰って行くのだった。

 「オラも、ハト欲しい」

 彼は唐突に言った。なかなか言い出せなかったのは、彼を取り巻く事情が私と同じように、それを許さない厳しさだったのだろう。

 分けてやった四羽の翼が触れ合うほど小さな鳩小屋でも、彼は目を細めて坊主頭をかきむしり、喜びを隠しきれない様子だった。

 学校の帰り道、暮れ残る薄明かりに影を引きながら、棒切れで土をほじくる彼の姿があった。顔を上げ、ニッと笑って突き出したバケツの中に、古クギがぎっしり詰まっていた。

 壊れた家屋の周りや瓦礫(がれき)が山積みの広場にもぐり込み、赤錆(さ)びた古クギを一本ずつ丹念に拾っていたのだ。廃鉄商に持っていけば、それがお金に換わって、一本の古クギが一粒の餌になった。指先の爪(つめ)は土くれを噛(か)んで黒ずんでいた。彼の問題解決の方法は、地面とにらめっこの途方もない根気の積み重ねだった。

 日曜日の午後、あわてて走って来た彼が、

 「大変だ、ハトがいねぇ。だけどKの小屋に似たのがいる」

と早口に言う。

 駆けつけると、たしかに彼のハトが混じっている。同じような羽色でも一目でわかる。しかし、彼のハトは足環が切られて素足になっていた。年上のKは、お前のハトの証拠をみせろとばかりに無視を続ける。

 足環には、ハトの名前でもある番号が刻印されていて持ち主がわかる。それがなければ、自分が何者かの証明ができない。足環は、そのハトが誰からも認められる伝書鳩としての、存在と生い立ちを明らかにする証(あかし)なのだ。

 彼と私はハトを返せと懸命に迫った。するとKは、私に向き直り責めるように言った。

 「お前、こったら朝鮮の味方するのかッ」

 その言葉はハトの問題とは別の、私と彼のそれぞれの心を揺さぶる容赦ないものだった。

 Kはフンと鼻先で笑うと、ハトを空に放った。四羽のうち、私の鳩小屋に馴(な)れていた二羽は戻ってきたものの、あとの二羽は行方不明になった。別のハトをやるからと慰めたが、彼は哀(かな)しそうに首を振り、足環をなくした二羽を抱いて帰って行った。

 Kとのことがあってから、彼は私の鳩小屋に姿を見せなくなった。廊下ですれ違うときや、体育館で横に並んだときに話しかけても、無言のまま私を避ける態度に変わっていった。

 それに腹を立てた私は、バケツを下げた胸ぐらを掴(つか)んで詰め寄ると、彼は力なくうつむき、絞り出すように口を開いた。

 「おさむ、日本人だべ、足環、ついてるべ。オラ朝鮮人だ。足環、ねぇんだ。もう構うな、迷惑かけたくねぇ。構わねぇでけろ!」

 二年生の夏休みの朝、新聞配達を終えて鳩小屋に行くと、林檎(りんご)箱に足環のないつがいと、その仔(こ)が入れられ、かたわらに肥料袋の少しの餌とバケツ半分の古クギが置かれていた。胸騒ぎがして彼の家へ走った。しかし、そこ一帯は静まり返り、住人の気配はなかった。

 休み明け、先生に尋ねると、彼の家族は船に乗って朝鮮に帰った、と教えてくれた。

 バケツ半分の一本一本の古クギには、Kの罵倒(ばとう)にたじろいだ私を知りながら、それでも私にハトを託す彼の願いが込められていた。

 「ハトになりてぇなぁ。空、飛びてぇなぁ」

 校庭の空を飛ぶ群れを見つめて、彼はいつもそう言った。もし、それが叶(かな)うのなら、彼が飛びたかった空はどこにあったのだろう。

 私のハトと彼のハトは同じ空を飛んでいたのに、なぜ、足環があっても、なくてもハトはハトなんだ、と言ってやれなかったのか。

 遠く過ぎた少年の日と、朝日に輝くハトの群れは、ほろ苦い思いを残して雲間に消えていく。



 《横顔》  ペンと共に「自分探し」

 半世紀余り前の中学時代、ハトの飼育で親しくなった同級生。上級生の心ないひと言が朝鮮人の彼と自分の心に深い溝を生み、うち解けることのないまま祖国へ帰っていった。ハトのえさ代に充てるために彼が集めていた古クギに当時の苦い思いを重ね、落ち着いた文章でつづった。

 「北朝鮮のニュースを見たり、ハトを見るたび、姿を消した彼がどうしているだろうと考える。どこかで書かなくちゃいけないという気持ちがあった」。長年引きずっていた思いを作品に込めた。

 作文は小学生のころから好きだったが、随筆に本格的に取り組んだのは2001年。娘が病気のため、26歳の若さで急逝した。「悲しいとか悔しいとかだけじゃなく、自分の気持ちを整理し、区切りをつけるために文章でまとめていた。娘のことをだれかに知ってもらいたい気持ちもあった」

 随筆賞の応募は前身の岩手日報文学賞から数えて8回目。「娘のことを書くと、悲しさや悔しさという気持ちが先走っていたと思う」。自分の思いを見つめながら何度も書き直し、07年度の岩手芸術祭県民文芸作品集に応募した随筆「三光鳥の森」が最高賞の芸術祭賞に選ばれた。「賞をいただき、娘の死をまとめることから卒業できた」と、今回の題材を書き始めた。

 特段、文章を習ったことはなく、自分なりの方法で向き合ってきた。応募は手書きだが、普段はパソコンを使う。プリントした文章を持ち歩き、浮かんだ言葉や表現を書き入れる。「手元に置いて見て、しばらく放っておいて、また見て。そういうことを繰り返して積み上げていく」。受賞作は6カ月かけて文章を練り上げた。

 16年前に自然豊かな雫石町に居を構え、山歩きや野鳥の写真撮影が趣味となった。撮影場所で鳥を待つ時間は、自分と向き合う大切なひとときでもある。「書くことは自分自身の足跡をまとめること。それをきっかけにこれからの時間を過ごしていきたい。大げさに言えば自分探しなのかもしれない」

 【わたなべ・おさむ】 高校卒業後、国鉄(現JR東日本)入社。01年退職し、関連会社勤務。雫石町七ツ森。64歳。青森県三沢市出身。


優秀賞 おやすみ、大好きなお母さん 鈴木紀子


 「おやすみ、大好きなお母さん」

 「おやすみ、大好きな健太」

 「いい夢みてね」

 「健太も、いい夢みてね」

 七歳の息子と私は、夜、布団に入り、こんな話をしながら寝ている。これは三年以上前からずっと続いている。

 「大好きなお母さん」

 息子の言葉に、私は救われている。仕事や家事でくたくたに疲れていても、辛(つら)いことがあっても、吹っ飛んでしまう魔法の言葉。

 しかし、こんな穏やかな気持ちで眠りにつくことができるまで、苦しい日々があった。

 息子が一歳の時、私はひとりで息子を育てることにした。理由があるにせよ、親の勝手で片親にしてしまったという息子への申し訳ないという気持ち。

 そして「片親だから、ちゃんと育てられない、なんて絶対に言われたくない。しっかりとしつけなければ。それがこの子のためでもあるのだ」という頑(かたく)なな思い。

 誰の力も借りない、一人で立派に育ててみせる、と全身から刺(とげ)を出し、意地を張っていた。

 こんな幼い子に厳しく言ってもまだ理解できない、と頭では分かっていても「そんなことしてはダメ!」などと大声で注意ばかりしていた。

 息子が二歳になり、私は職場に復帰した。慣れない仕事で辛い思いをしたりして、心身共に疲れ果てて帰宅する日々に、ますます心の余裕がなくなっていった。

 ある晩、息子を寝かしつけようと、一緒に布団に入った。私は、持ち帰った仕事のことばかり考えていた。何時までかかるだろう、明日も朝早いから早く片づけて休みたい、と思いながら、息子に添い寝していた。そんな時に限って何かを察してか、なかなか寝つかない息子。「早く寝なさい!」イライラして、声を荒げそうになった。

 息子が呟(つぶや)いた。

 「おやすみ、大好きなお母さん」

 一瞬、頭が真っ白になった。

 息子はじっと私の目を見ていた。とてもきれいな瞳。

 「……おやすみ、健太……」

 息子はまだ私の目を見ていた。私は息子と同じように言ってみた。

 「おやすみ、大好きな健太」

 その時の息子の嬉(うれ)しそうな顔。私にぴたりとくっつき、満足そうに目を閉じた。すぐに寝息が聞こえてきた。

 息子に優しく接することを忘れ、こんなガミガミ怒る私のことを「大好きなお母さん」と言ってくれた。この言葉で、息子が生まれた時のことを思い出した。

 そうだ、生まれた時、すごく嬉しくて、大切に育てよう、守っていこうと誓ったんだ。どんなに夜泣きをしても、抱っこしていないと寝なくても、「お母さんの宝物さん」と笑っていられたのに。その時の気持ちを、私は忘れていた。

 息子の寝顔を見つめた。おでこに貼(は)りついた前髪をかきあげてやる。胸が締めつけられ、苦しくて、涙がこぼれた。

 私は、なぜ一人で意地を張って、自分を追い詰めていたのか。

 身体の力を抜いた。そして思った。

 私は一人じゃない。

 トゲトゲだらけの私を「大好き」と言ってくれる息子がそばにいる。そして母や妹夫婦、叔母とその家族、友達……。助けてくれる人たちがこんなにいる。

 息子のためにも、私は笑顔でいよう。笑顔で「おやすみ」を交わそう。毎日息子と笑い合える方が、どんなに素晴らしいか。

 私の頑なな気持ちが、息子の一言で解けていった。

 今でも、ガミガミ言い過ぎたかな、と寝顔を見ながら反省することはある。しかし次の日には笑顔で「おはよう」を言うようにしている。あの時の気持ちは忘れない。

 「おやすみ、大好きなお母さんぷーこちゃん」

 口が達者になってきた最近では、おどけながら言う息子。本当のことだから怒れない、と苦笑しながら「おやすみ、大好きな健太」と返す。

 「いい夢みてね」

 「健太も、いい夢みてね」

 「明日も頑張ろうね」

 「うん。明日も頑張ろう」

 しばらくすると、隣から聞こえてくる寝息。伝わってくる体温のぬくもり。私も、幸せな気持ちで目を閉じる。この幸せな「おやすみ」を、これからもずっと続けていきたい。



 《横顔》  親子一緒の本作り目標

  ワーキングマザーの自分に、大事なことを気付かせてくれたわが子の一言。温かな母子の情愛が胸を打つ。

 「北の文学」49号小説部門入選、第57回岩手芸術祭児童文学部門奨励賞など賞歴は豊富だが、しばらく書く方は疎遠に。ある日、息子の漢字の勉強に付き合っていたら間違いを指摘された挙げ句「大人になったら勉強しなくていいの?」。

 「お母さん、文章を書くのが好きなんだ。一緒に書こうよ」と言うも信じてもらえず、名誉挽回(ばんかい)とばかり今回の応募へ。

 小学生アンケートで「自分のことが好き」との回答が低かったという本紙記事に「愛されていると感じていないと、自分を好きになれない。最近『大好きだよ、大切だよ』とちゃんと言葉で伝えていたかなと反省した」。

 周囲から受賞を祝福されたが、一番うれしかったのは息子が「僕のことを書いたんだって」とうれしそうに言っている様子を見たとき。「目標は子と一緒に本を作ること」

 花巻市上諏訪。県立病院職員。35歳。同市出身。


優秀賞 命の誕生 沢内建志


 赤黒く日焼けした大柄な男性が玄関前に立っていた。三十代前半と見受けられるその人は初めて見る顔であった。母の四十九日の法事を済ませたある年の四月上旬の日曜日のこと。庭の水仙がつぼみをふくらまし春雨にしっとりと濡れている夕暮れであった。

 男性は挨拶もそこそこに「わだすは産婆(さんば)さんにとりあげでもらったのす……」と話し始めた。産婆さんが亡くなったそうだからお線香をあげてくるように、病床にある母親から頼まれて来たとのことだった。「わざわざどうもありがとうございます」と、一般の弔問客に接するように儀礼的な言葉を返していた。

 仏間から出て来た彼は帰りしなにつぶやくように言った。「あのー、あのどき、わだすのうぶゆをわがすてくれだ息子さんは、今どこに……」と。

 私はハッと胸をつかれた。まさか、もしかしたらあの時の−−。思わず記憶をたどり始めていた。

 明治生まれの母は助産師をなりわいとして八十五歳まで生きた。昭和三十年代、当時の港町には母ともう一人の助産師さんがいた。市の中心街にさえ産婦人科医院は一軒のみで、まさに家庭分娩(ぶんべん)の主流時代であった。母は長いこと産婆様と呼ばれ、守護神のように頼りにされていた。しかし、七十歳を越した頃(ころ)には、街に医院もふえたため「助産所」の看板を外した。その後は受胎調節指導員の札を張り、病床に伏すまで“むかえびと”の仕事にかかわった。

 私が高校生の頃は、事情があって自宅出産できない妊婦さんや緊急出産の時、我が家の一室が分娩室となった。

 ある夏の夜半、玄関の外で人の気配がした。「産婆さーん、産婆さーん」と連呼している。鍵のかかった引き戸がガタガタと激しく響いてきた。私は教科書や参考書を閉じて出番に備えた。案の定、階下から「起きてるか、急いでお湯をわかしてくれ」と母の声。リヤカーで運ばれてきた妊婦さんを三人がかりで部屋に運び入れるところであった。

 私はいつもの手順で準備を始める。土間にあるかまどに大きめの釜をかけバケツで水を何度か入れる。杉の枯れ葉を敷き細く割った木端(こっぱ)を並べてマッチを擦る。うちわで扇(あお)ぎながら火勢を強めていく。その上に次々と薪(まき)を足していく。やがてできた熾火(おきび)を七厘(しちりん)に移し木炭をのせてやかんをかける。

 「がんばって、もっとりきんで、もう少しだよ、息をいっぱい吸って!」

 母の懸命な励ましが繰り返される。私はいつの間にか、かまどのぬくもりでついうたたねをしていた。遠くで母の声を聞いたような気がした。

 「産まれるよ、準備はいいか、お湯はぬるめにして……」

 すぐさま沐浴(もくよく)用たらいに釜から湯を移す。バケツの水を少しずつ加えながら慎重に湯加減を調整する。妊婦さんが持参したネルの肌着、綿入れ、おむつ、タオルなどをたらいの近くに並べる。一方、母が用意してあるガーゼ、オリーブ油、パウダー、臍(へそ)包帯、体温計、せっけんなどを母の手の届く範囲に置く。

 命の誕生の瞬間だ。今日の赤ちゃんはとりわけ泣き声が大きい。産声は赤ちゃんの生命力の象徴であるといわれる。へその緒が母体から切り離され、結ばれて一人の人間として存在するのだ。

 母は手際よく沐浴を始める。クリーム状の白い胎脂(たいし)がていねいにぬぐいとられる。最初は青紫色を帯びた赤ちゃんの皮膚はやがてバラ色に変わる。なんと美しいんだろう。生まれたての神々しくも崇高な姿である。激しく泣いていた赤ちゃんは、母の魔法の手にかかるとうっとりと気持ちよさそうに目を軽く閉じて静かになる。しだいに呼吸が深くなっていくのがわかる。胸からおなかにかけ動きが大きくなっていく。「もう大丈夫だ」母のひと言で私までホッと溜(ため)息をもらす。

 バスタオルに寝かされた赤ちゃんは指をにぎりしめ、肘(ひじ)を曲げたまま小刻みに動く。まるでバネじかけの人形だ。妊婦を激励した時の毅然(きぜん)とした声はどこかに消え、沐浴中の母は慈愛に満ちたおだやかな表情である。そんな姿が、私の頭の中で聖母マリアと重なって見えた。

 東の空が白白となる頃、むかえびとである母と湯沸かし請負人の仕事は終わった。赤ちゃんは真新しい肌着にくるまれて母親の待つベッドに連れていかれた。

 あの時の赤ちゃんは、三十歳を過ぎた一人前の漁師となって「産婆さん」に会いに訪れてくれたのであった。

 後日、ご自身の船でとった魚が数種類届けられた。箱の中に大きな金目(きんめ)鯛(だい)が入っていたのを思い出す。



 《横顔》  初挑戦実る 次は小説も

 助産師だった母の献身的な仕事ぶりと、生命誕生の厳粛な尊さ。時には産湯を沸かす手伝いもした、身近な家族だからこそ書けた題材だ。

 アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」を観賞したときのこと。「そう言えば自分には“むかえびと”のお手伝いをした経験があったなあ」と思い当たったのが、応募のきっかけだ。
 本紙「ばん茶せん茶」「日報論壇」に数回掲載された経験はあるが、随筆賞は「毎回受賞作を読む度に、手の届かない賞と思っていました」。

 しかし初応募で優秀賞。「母の懐古と、赤ちゃんの美しさを書き残したい」という思いの強さが実った。

 過去の出来事なのに現代のような臨場感。5日間、集中して記憶をたどり、推敲(すいこう)を重ねて書き上げた。

 元教諭。宮古教育事務所長、宮古市・花輪小、藤原小、宮古小校長を歴任。同市文化財保護審議会委員も務めた。「今後は小説に挑戦してみたい」

 宮古市山口。69歳。同市出身。


優秀賞 熊さんの杉 平松真紀子


 冬の山は静かで山鳥が長い尾を引きずりながら、悠々(ゆうゆう)と歩いていた。

 樹齢五十年以上の杉を伐採すると決めた夫は、山の下見に休日を充てた。森林組合の八幡さんも一緒だった。

 その朝、どこまで伐採するかなぁ、と思い悩む夫に「全部伐(き)ったほうがいいよ」と助言のつもりでつい口に出した。台風や雪が降るたびに、伸びた枝が近隣の住宅に被害を及ぼさないようにと常々思っていたので、全部伐ってしまった方がこの先安心と軽く考えてのことだ。

 余計なことは言うな、という目で私を一瞥(べつ)し夫は黙りこんだ。植えたのは俺(おれ)だぞ。家族総出の作業はもちろんのこと、嫁いだ姉夫婦や親戚(せき)も手伝う大仕事だった。当時の苦労を思えば、決断がつかないまま山に入ったことは十分察しがついた。

 「口を挟むなよ」ぼそりと念を押した。

 整然と並ぶ杉林の中で歩を止めた八幡さんが木を指差し「この場所の植林をしたのは熊さんだね、見れば分かる。若い頃(ころ)、熊さんから山仕事のノウハウを一から教えられた。あの人はすごかったんだぞ」と言って、私を手招きした。

 指差す先のむこうに見える杉は山頂に向かってまっすぐに植えられていた。間隔を置きながら見事に成長した木々。これだけの植林にどれほどの労力を要したのか。どんなに難儀な作業だったのか、この場に子どもたちを呼んで見せたい、と静かな感動に包まれた私は在りし日の熊さんを想(おも)った。

 熊さんは義姉の親戚に当たり、八十歳を超えても山仕事を続けた口数の少ない控えめな人だった。我が家では熊おんちゃんと呼び、山の管理においては全幅の信頼を寄せることができる人だった。彼が苗木を背負い植えた山はいずれもりっぱな森に成長した、と八幡さんは懐かしそうに語った。一本の苗木も枯らしてはならぬ。人も木も水が欲しいのは同じこと、と仕事には厳しく頑固な人だったという。

 熊さんは朝早く打ち合わせに来たものだった。「起きだべが」。声が聞こえると寝坊な私は飛び起き、あわてて湯を沸かし始める。見かねた義母に「お茶っこを早く出さねば」と叱(しか)られたことが度々あった。

 日の出とともに起き、日没とともに休む生活で朝六時過ぎには弁当を持って家を出る。どんな所にも徒歩で行った。細身の引き締まった体で足早に歩く人だった……。

 熊さんが成長したこの林を見たら何と言っただろうか。考えながら歩いていると先に行ったはずの夫が倒木に腰掛けていた。少し疲れたからこの先は二人で見回るようにと言い、沢沿いの様子も見てくるようにと言った。

 その時から間もなく夫が病に倒れた。なぜ様子がおかしいと気がつかなかったのか、なぜ病院にいくことを勧めなかったのか。思えば前兆はあの時からだったのかもしれない。私は自分の無知を責め、悔いた。

 入院中の夫に代わり杉の売買に立ち会うことになった。夫たちや熊さんが苦労して育てた木を売ることへの後ろめたさがなかった訳ではないが、このままにしておくことはできない。いずれは芯から腐り始めやがて木材としての価値は失われる。そんな現実と葛藤(かっとう)しながら立ち会いを終えた。

 伐採する量は半分となった。山は杉の林としての形は残ることになった。

 残った木で家を直したい。家に戻りたいと言う願いを叶(かな)えるためにも、退院するまでには熊さんが植えた木で、夫たちが汗して植えた杉で、家を直しておこう。決心は固まった。

 だがどんな方法で目指す改築にこぎつけられるか、皆目見当がつかなかった。

 思いきって山から木を切り出してほしいと八幡さんに相談をした。彼はもろ手を挙げて賛成し、地元の木が活(い)かされるなら力になると言い、ぜひ熊さんが植えた杉を活用してほしいと八方に手を回してくれた。

 三月の大雪の日から数日後、チェーンソーの音が山に響いた。木の選定から伐採の作業員も製材所も手配してもらった。先代が造った家を二代目の息子さんがバリアフリーに改築してくれる工務店は、製材所から運ばれた木を時間をかけて乾燥してくれた。

 心材の黒っぽい杉も赤みを帯びた杉も、柱となり梁(はり)となり、床板にそして壁材用にと加工され家の中に納まった。

 所々に節がある壁をなでていると、力を貸してくれた人たちのぬくもりが伝わってくる。数カ月に及ぶつらく苦しいリハビリに耐えた夫を迎える準備は整った。

 再び以前と同じ暮らしに戻れる私たちに、数十年余りの長い時を大地に根を張りたくましく成長した熊さんの杉が、樹木に宿るという精霊たちが「がんばれよ」と静かなエールを送ってくれているような気がしてくる。



 《横顔》  マイペース 執筆へ意欲

 杉の植林と伐採をめぐる、さまざまな人々の思い。夫の入院という大事を抱えながらも、希望を感じさせる筆致で描いた。中でも「熊さん」の人物像は、どこか宮沢賢治の童話を思い起こさせて印象的だ。

 作品完成まで2段階あったという。山の下見に行った後、本紙「ばん茶せん茶」に投稿するつもりで下書きしていたが、夫の入院で中断。退院の見通しがついてホッとしたとき、続きを書こうと思い立った。

 「植林をしたことのない私が、木の売買の世界を垣間見、自然を守りながら伐採している状況を知った」。それを書いて伝えたいという思いに加えて「入院中の夫への応援のつもりと、手助けしてくれた皆さんへのお礼の気持ちも込めました」

 日報カルチャースクール文章講座が原点。第58回岩手芸術祭随筆部門奨励賞など。本賞は5回応募で初入選。「自分のペースで書き続けていきたい」

 釜石市源太沢町。自営業。61歳。宮古市出身。


(2010.7.10朝刊掲載)

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