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〜第4回〜
輝く感性9氏受賞 岩手日報随筆賞贈呈式


 岩手日報社主催の第4回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の贈呈式は18日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者9人と来賓、同賞の前身の岩手日報文学賞随筆賞を含む歴代受賞者ら約70人が出席した。

 東根千万億常務・編集局長が選考経過を報告し、三浦宏社長が最優秀賞の金ケ崎町永沢鳥の海上、酪農業小野まり子さん(60)に、正賞のブロンズ像「エリカ」(故舟越保武氏制作)と賞状、賞金20万円を贈った。

 優秀賞は奥州市水沢区中田町の神田由美子さん(57)、盛岡市志家町の佐藤明美さん(54)、同市茶畑の吉田真(まさ)人(と)さん(59)の3人に賞状と賞金5万円を贈呈。

 佳作は奥州市前沢区白山の石川勝幸さん(69)、北上市町分の及川博子さん(58)、同市上野町の太田代公(こう)さん(79)、盛岡市南大通の佐藤淳子(じゅんこ)さん(49)、北上市更木の平野孝子(たかこ)さん(33)の5人に賞状と賞金3万円を贈った。

 三浦社長は「個性豊かな作品を楽しく読んだ。日々の事象に反応できる感性と表現力を磨きながら、今後も書き続けていただきたい」とあいさつ。

 箱崎安弘県教育委員長、阿部正樹IBC岩手放送社長、選考委員の作家平谷美樹(よしき)氏の祝辞に続き、受賞者を代表して小野さんが「自分の記録のつもりで書いたので受賞は夢のよう。今後も日々のささやかな生活で心に留まった出来事を、飾らず素直に書いていきたい」と謝辞を述べた。

 今回の応募総数は139編。予備選考を経て斎藤純選考委員長(作家)、平谷委員、千葉万美子委員(エッセイスト)が審査した。

【写真=第4回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」を受賞した前列右から優秀賞・佐藤明美さん、最優秀賞・小野まり子さん、優秀賞・神田由美子さん、同・吉田真人さん、後列右から佳作・佐藤淳子さん、同・及川博子さん、同・石川勝幸さん、同・太田代公さん、同・平野孝子さん】

(2009.7.19)


第4回岩手日報随筆賞決まる
−2009年−


 岩手日報社主催の第4回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の入選者が決まりました。

 最優秀賞は、金ケ崎町永沢、酪農業小野まり子さん(60)の「牛飼い、再び」が選ばれました。優秀賞は、奥州市水沢区、地方公務員神田由美子さん(57)の「花の町にて」、盛岡市志家町、主婦佐藤明美さん(54)の「アルバム」、同市茶畑、県非常勤職員吉田真人(まさと)さん(59)の「ロレッタ」の3編です。

 佳作は、奥州市前沢区、石川勝幸さん(69)の「古稀(こき)の初舞台」、北上市町分、主婦及川博子さん(58)の「味噌(みそ)玉」、同市上野町、太田代公(こう)さん(79)の「預かり地蔵」、盛岡市南大通、地方公務員佐藤淳子(じゅんこ)さん(49)の「五十」、北上市更木、主婦平野孝子(たかこ)さん(33)の「ゆりかご」でした。20歳未満の応募者が対象の奨励賞は該当作がありませんでした。

 贈呈式は、18日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞の小野さんに正賞のブロンズ像「エリカ」(故舟越保武氏制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞の3人に賞状と賞金5万円、佳作の5人に賞状と賞金3万円が贈られます。

 今回の応募総数は139編。社内での予備選考を経た10編について選考委員の作家斎藤純氏(委員長、盛岡市)、作家平谷美樹(よしき)氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が審査しました。

(2009.7.8)


第4回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」
受賞者と作品紹介

 

 岩手日報社が2006年に創刊130年を記念して創設した「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」は第4回の今年、ほぼ昨年(140編)並みの139編の応募があった。選考委員の作家斎藤純氏(委員長、盛岡市)、作家平谷美樹氏(金ケ崎町)、エッセイスト千葉万美子さん(一関市)が6月29日、本社で選考会を開き、社内予備選考を通過した最終審査候補10編の中から最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作5編を選んだ。最優秀賞、優秀賞の受賞者の横顔と作品を紹介する。

 《選評》 題材選び吟味さらに

 実体験にもとづく哀(かな)しみや喜びが、そのまま読者の哀しみや喜びとなるとは限らない。その体験を読者に共有してもらうには、伝え方に工夫が必要だ。つまり、「いかに書くか」である。

 最終選考に残った作品は、昨年と比べて「いかに書くか」という点においてはどれも一定の水準をクリアしていた。

 しかし、題材の選び方、つまり、「何を書くか」という最も肝心な点について私たち選考委員を納得させるものは少なかった。各選考委員の感性を刺激する作品はあったが、最優秀賞に強く推せるものがなかったのは残念な事実である。

 いわゆるドングリの背比べ状態だったので、ひじょうに難しい選考会になった。

 そんな中で小野まり子さんの「牛飼い、再び」は、独自の題材と相まって、読み手に明るい希望を感じさせる。このご時世、こういう文章は嬉(うれ)しい。

 文章作法上の小さな部分で気になるところはあるものの、受賞の妨げになるほどの瑕(きず)ではないと選考委員の意見も一致した。この受賞を共に喜びたい。

 優秀賞の作品はいずれも長所と同じくらいに短所もあった。とはいえ、最優秀賞に手が届く範囲にいるのは間違いない。

 随筆の題材は、ふだんの暮らしの中にたくさんある。それを見逃さないのがエッセイストとしての資質であろう。

 文は人なり、と言う。日常を大切にすることが、その資質を育てる基本だと思う。

 (斎藤選考委員長)


最優秀賞 牛飼い、再び 小野(おの)まり子


 夕方の搾乳と餌を全部与え終わると、すでに八時を過ぎていた。明朝、売られて行く三頭の乳牛が気になり、ブラシをかけ始めた。

 同じ町内の知っている農家ならなおさらのこと、清潔にして送り出してやりたい。

 牛たちは、ブラシをかけてやるとここがかゆいとばかりに首を伸ばし、すり寄り、金グシが当たると体をくねらせ、気持ち良さそうに目を細めている。隣の牛も体を寄せて、早く早くとせがんでいる。三頭のブラシかけが終わると、濡(ぬ)れタオルで一頭ごとに拭(ふ)いた。「きれいになったよ。明日、お前たちはお嫁に行くんだよ。本当は出したくないけど」

 一カ月前のことだった。

 牛舎でコーヒータイムのとき、息子が口を開いた。

 「母さん、餌代や資材の高騰で経営が大変なんだ。続けていけるかどうか。おじいちゃんが築いたものを悪いとは思うけど…」

 私は黙ったまま頷(うなず)き、胸の中で呟(つぶや)いた。いよいよ我が家にも不況の波がきたか。

 息子に経営を委ね後継者ができたとホッとしていたのに、それはつかの間であった。

 息子の真剣な表情に、無理にでも続けてほしいとは言いにくい。

 けれど、私はつとめて明るく言った。

 「いいよ。止(や)めても。私もやるだけやったし悔いはないから。父さんに相談してみよう」

 その夜、家族会議が開かれた。

 「どうしても無理なら止めるしかないだろう。私たちも六十は過ぎたしなあ…」と夫。

 父母が入植してから六十年の歳月が過ぎた今、不況の波に押し潰(つぶ)されるのが恨めしい。

 酪農業をやめることにしてからは、数日おきに家畜商が牛の転売のことで来るようになった。一頭ごとに姿全体を眺め、年齢、乳頭の付着、乳量など息子に訊(たず)ね、値踏みをする。そして、数頭ごとに受け入れ農家が決まると出荷日を決めて帰った。

 最初に売られたのは、七月分娩(ぶんべん)の初産牛だった。−もったいないなあ。子牛のときから育成牧場に預け、二年以上も育ててもらい、分娩するまでになって帰ってきたのに…。

 早朝、大型トラックがやってきた。息子が言う。

 「まだ乳を搾っていませんので、すぐに搾ります」

 搾乳される牛たちは、何も知らず餌を食べている。搾り終えると牛たちは、首の鎖を外され、頭にロープをかけられると外へ引っ張り出された。息子が前に立って引き、家畜商が後ろから牛の尾を握ってついて行く。

 トラックの荷台の前に行くと牛は一瞬立ち止まり、動かない。前足を何度も押され、後足も押されている。積まれる牛たちを牛舎の窓ごしに見ていた私だったが、急に涙が溢(あふ)れ、自分に言い聞かせた。売るのでなく嫁に出すのなんだよ−。

 牛たちを見送った息子は、仕事を前にコーヒーを飲もうという。だが私は飲む気分にはどうしてもなれなかった。

 「こんなときにコーヒーが飲めると思うの。手足がもがれるように悲しくなるね」

 つい、息子に八つ当り口調に言った。

 「何言ってるんだよ。母さんだって賛成したじゃないか。相談して決めたことだよ」

 そうには違いなかった。が、諦(あきら)めきれない。

 子供の頃(ころ)から牛がいた。草を与えて生活し、今にして思えば牛と遊び仲間の感じでさえあった。近所に同じ年頃の遊び相手がいなかった私は、牛舎の中で唱歌を歌い、話しかけてはお遊戯を踊ってみせ得意になっていた。父母は「牛さん、喜んでるねえ。草をいっぱいやって食べてくれると、おいしい乳がでるよ」と、よく言ったものだ。

 今、この時になって懐かしいことばかりが走馬灯のように全身をかけ廻(めぐ)る。

 息子が言った。

 「母さんが寂しいなら、子牛だけ残すか」

 「子牛からは生産が上がらない。この牛舎も施設も全(すべ)てムダになってしまうねぇ」

 私は、カレンダーに目を遣(や)った。

 あと一週間、今月末には、この牛たちのほとんどが居なくなってしまうのだ。

 全部をやめてしまえば、さっぱりと諦めきれるのだろうか。だが、その一方で割り切れない気持ちも残る。

 −売らないで。全部売ったら私の仕事は何もなくなる。還暦になった私だが、まだ意気込みはある。へこたれてなどいられない。

 気がつくと受話器を持ち上げ、家畜商の電話番号をダイヤルしていた。

 「お願いがあります。牛を売りたくないのです。すみませんが残りの牛は、私が育てます。子牛たちも育てたいので売りません」

 電話の向こうで家畜商の驚いた声がする。だが、私の気持ちを了解して励ましてもくれた。

 「まだ、母ちゃん若いもの。これから十年は頑張れるよ。やめないで続けたらいいよ」

 私は受話器を握りしめ、電話器に幾度(いくど)も頭を下げていた。

 私は心の中で叫んだ。牛は売らないぞ。

 心は晴れやか。再び牛飼い人生の始まりだ。



 《横顔》  酪農への誇り飾らず

 入植した父母から受け継いできた酪農業。しかし資材など最近の経費高騰が経営を直撃。いったんは牛を手放すことに同意したものの、子ども時代から牛を遊び相手に育っただけに心中は複雑だった。葛藤(かっとう)の末、選んだ結論は−。

 受賞作は、牛への愛情と酪農への誇りを飾らない文章で直截(ちょくせつ)につづり、選考委員の胸を打った。

 前々回、本作の「序章」ともいえる「牛飼い」で佳作入選。

 「贈呈式に出て、賞を取る人は何回も挑戦していると知った。私に美しい自然描写のような表現力はないし、人の興味をそそる題材でもない」

 そう考えて賞は度外視。ただ自分の人生にとっては大きな今回の出来事を、記録として残しておきたい一心だった。それが望外の結果に−。

 「何よりこういう題材に目を留めて分かっていただいたことがうれしい。涙が流れた」

 書き始めたのは、締め切り間際の5月下旬、田植えを終えてから。無欲なぶん、悩むことなく一気に書き上げた。「本当に書きたいこと」がある人の強みだろう。

 胆江地区の文章サークル「銀のしずく」(菅野利代さん指導)に所属。「飾らずに自分の気持ちを出せる場。いい先生、いい会に恵まれた」と感謝する。

 現在は、まり子さんが責任者となり、息子さんらに手伝ってもらいながら酪農を続けている。

 初産の牛は、乳首に触れられるのをいやがって、いきなり脚を跳ね上げることがあり、搾乳には神経を使う。 「でも私が担当するようになってからの初産の2頭とも、じっとしていてくれた。牛たちも何となく気遣いしてくれているんじゃないかな」(笑)

 「『早ごと』は利かない年齢だが、工夫すれば何とかできるものだなあというのが実感。体が動くうちは頑張りたい。もちろん書く方も続けます」

 【おの・まりこ】 大東高卒。酪農業。金ケ崎町永沢。60歳。同町出身。


優秀賞 花の町にて 神田由美子(かんだゆみこ)さん


 電車と高速バスを乗り継いで、弘前へ降り立ったのは、五月の連休のさなかのことだった。花の盛りこそ終わっていたが、それでもしだれ桜が咲き残り、春の日ざしに色濃く映えていた。

 津軽三味線全国大会の会場、市民会館の駐車場付近にさしかかった時だ。三味線の音が突如、色鮮やかな光の帯のように、木々の間からまっすぐ降り注いできた。出演者があちらこちらで練習をしている。

 背筋がぞくりとする。久しく忘れていた感覚だ。

 入口からホール内まで三味線専門のお店がCDや糸、撥(ばち)などを並べていて、客が覗(のぞ)き込み、思い思いに品を手にとっている。その中にも大会出演者の姿があった。床に座り、壁に向かって練習に余念のないもの。イスに腰かけ、音あわせをするもの。あるものは白いシャツの袖をまくり、あるものは長い髪を押さえもせず、それぞれが自分だけの世界にいた。一人一人が奏でる音が重なり合い、さらに、会場の外の演奏と呼応し、周辺は三味線一色だった。

 ドア一枚向こうの会場では、すでに大会が始まっていて、二分三十秒から四分の短い時間に賭ける、ぴりぴりした空気が張り詰めていた。舞台の上には演奏者が五人並び、一人ずつ、前に進み出ては三味線を構える。

 演奏の始まる前の調弦の音が好きだ。左手で糸を締めながら右手で撥をたたく。ビーンビーンと徐々に高揚していく音の響きが、聴くものをとらえて離さない。

 弘前の観客は、耳の肥えた聞き手だ。正直に音に反応する。小手先のテクニックでは、ぴくりともしない。私は神経を研ぎ澄まし、心にまっすぐ落ちてくる音と、観客の反応を楽しむ。

 三味線の音色に重なる景色がある。

 電車で二十分、さらに川沿いに三十分ほど歩くと、「東山荘」という老人施設があった。そこに、高坂キミさんという三味線を弾く方が入所していると聞いて、稽古(けいこ)に通った一時期があった。日曜日ごとに私は三味線を抱えて駅からの道を歩いたものだ。

 高坂さんは目が不自由だったが、野太い声で歌い、力強く撥をさばいた。地芝居高田歌舞伎で「豊竹呂悦」という名で、義太夫を担っていた方だということを知ったのは、しばらく後のことだ。

 あの老人施設の畳敷きの小さな四人部屋。壁にかかった太棹(ふとざお)の三味線をおろし、高坂さんの手に渡すところから、私の稽古が始まった。正座し、向かい合う。声が枯れるまで高坂さんは歌い続け、時には苛(いら)立ち、撥をたたきつけた。

 音を聞きつけたおばあちゃんたちがいつのまにか集まり、時にはお茶菓子を並べ、厳しい稽古をよそに、賑(にぎ)やかにさざめいた。

 時おり、あの昼下がりの穏やかな日々を思うことがある。二十歳の私は、いつもうつむき加減で、三人のおばあちゃんたちはさらに無口で、それでも、あの午後だけはなぜかそこだけ、ほっこりと温かかった。

 教えてもらった「黒田節」も「さんさ時雨」も、ろくに覚えていないのだが、何かの拍子にふと、一節が口について出ることがある。

 私は振り向く。もうすでにこの世にいないだろう人たちの、ささやく声や、丸めた後ろ姿が薄霧に霞(かす)むように、そこにある。

 山肌に張り付き山百合(ゆり)が咲いていた。流れる川に沿って曲がりくねった、砂埃(すなぼこり)のにおいがする道が続く。私が、ひたすら歩いている。

 弾くことがなくなっても、三味線の音色はいつも傍らにあった。結婚をして二人の子供に恵まれた。私は深夜、家族が寝静まった二階の部屋で、低く、ラジカセから流れる三味線を聞いたものだ。独特の、空気を突き抜けるような透明な音色が好きだ。

 夫が進行性の筋肉の難病で倒れたのは、上の子が小学一年生の頃(ころ)だった。少しずつ病気が進み、歩くことも、食事も、風呂も、トイレも、人の手が必要になった。寝返りもうてず、やがて言葉も失い、呼吸すら機械の力を借りなければならなくなった。

 あれから長い時間がたつ。高田歌舞伎は後継者がないまま途絶えたと聞く。夫は苦しい闘病生活の後、亡くなった。子供たちはひとり立ちをして相次いで家を離れていった。

 私はいつからか、若い三味線の弾き手の演奏会に足を運ぶようになり、数年前には、初冬の弘前に津軽三味線のライブを聴きにきた。

 だが、弘前は、やはり桜が似合う。

 三味線の音と歌が響き、やんやの喝采(かっさい)と笑い声、そして少しのお酒。

 さっきまで、ホールの壁に向かって一心に弾いていた若い奏者が本番の舞台に上った。そのしなやかな指先を見つめながら、誰にともなく、頑張れ、とつぶやく。



 《横顔》  執筆活動に迷いなし

 三味線の音色の向こうに、人との出会いと別れの愛惜が見え隠れする。構成の妙と、抑制的な文章が評価されて優秀賞に選ばれた。
 5月に青森県弘前市を訪ね、三味線の音色に包まれた瞬間、思い出が一気によみがえった。
 「昔のことなのに鮮明な記憶。あの音色とともに、私を支えてくれた人たちの姿を書きとどめておきたい」
 帰宅したその日のうちにペンを執った。あまり時間をかけると、自分が何を書きたかったのか分からなくなることがある。
 「1日で書き上げ、数日おいて、もう一度見直しました」
 2004年、前身の岩手日報文学賞随筆賞で佳作に入選。ここ2年ほどは、地元の新聞に仲間12人と週ごとに交代でエッセーを書くことを続けてきた。それも3月で一区切り。ほっとしていたところに、今回の受賞の報が舞い込んだ。「うれしいです。今後の抱負は書き続けること」と、迷いはない。

 【かんだ・ゆみこ】 奥州市水沢区中田町。水沢商高職員。57歳。同市出身。


優秀賞 アルバム 佐藤明美(さとうあけみ)さん


 「息子さん、この前かわいい女の子と来ていましたよ」

 久しぶりにアルバムを開いてみる気になったのは、ラーメン店のおかみさんとの立ち話がきっかけだった。

 ひとり息子が生まれてから撮りためた写真が、十一冊のアルバムとなって本棚の奥に鎮座している。大切に扱っていたはずだが、手に取ると背表紙がポロリと落ちる。めくったページがペリペリと剥(はが)れる。慎重になる指先に、二十二年の歳月を感じていた。

 それでも、黄ばんだ台紙の上で、息子の笑顔が幾つも弾けていた。小さくて、柔らかくて、温かくて。あの感触があるから、母親は育児の大変さに耐えられるのだろう。足元にまとわりついて、歩くのもままならなかったのが、つい昨日のことのようだ。

 長じた息子は一時期、私と連れ立って歩くことを、とても嫌がっていた。だが最近は、おやっと思うほど一緒に出歩いてくれる。

 そんなふうに、時々訪れるラーメン店のおかみさんに、スーパーで偶然出会ったのだった。

 かわいい女の子とねえ、と呟(つぶや)きながら、大口を開けて笑っている息子の写真を見る。へええ、と思う。たしかに、恋人がいてもおかしくない年頃(ごろ)ではある。

 帰宅後に尋ねてみたが、あっさりと「うん、行ったよ」と息子。

 「つきあっているの?」

 「いや、つきあってはいない。でも、好きではある」

 ちょっとびっくりした。そういうことを自分から言える子ではなかったからだ。

 加えて、近頃は言葉や態度の端々に、私に対する気遣いも感じられる。もともと気持ちの優しい子だが、それを表わすのが苦手だったから、随分大人になったものだと思っていた。そんな矢先のことだ。

 息子の変化の原因はそこにあったかと、母親としては少々複雑だが、きっぱりとしたその物言いは、息子の成長の証しのようでやはり嬉(うれ)しかった。ちゃんと階段を上がっている。

 そんなことを考えながらページを進むと、少しすました母の顔があった。生後間もない息子をその腕に抱き、カメラを見ている。六十歳を少し出た頃だろうか。この時分の母にもう一度だけでも会いたいなと思う。今だったらもう少しうまく、ありがとうが言える。

 電車で二時間ほど離れた町に住む母は、慣れない育児に戸惑う私を、よく手助けに来てくれた。

 「おらど(私たち)は貧乏でお金はあげられないがら、こうして体で尽ぐすの」

 そう言って母は、息子の具合の悪い時などは、夜でも飛んできてくれた。「ああ、こえ(疲れた)、こえ」と言いながらも笑顔の母に、夫はちょっと困った顔をしたが、私はほっとしたことをよく覚えている。

 先日、夫と息子と共に母を訪ねた。現在は認知症が進み、施設にいる。

 母と同じ町に住む姉と姪(めい)、その息子と合流し、総勢六人が母を囲む。ちょこんと椅子(いす)に座った母は、もう誰の顔も分からない。けれど、賑(にぎ)やかなことが好きな母らしく、どこかわくわくするようだ。にこにこしている。

 息子と混同しているのかもしれない。一番近くにいる姪の子に「よぐ来たな。いづ来たの」を繰り返す。九歳の子に、母の変化を理解するのはまだ難しい。「さっきから居ますけど」と少し顔をしかめて、それでも何度も答えている。その、会話ともいえないやり取りは、可笑(おか)しく、悲しかった。

 子どもが大きくなるのは、至極あたり前のことだと思ってきた。だが、同時に親も老いるということには不用意だった気がする。赤ん坊が赤ん坊のままでいられないのと同じように、きっと自然なことなのだろうけれど。

 帰途、息子の運転する車の中で、ぼんやりとそんなことを考える。窓の外には、大きな茜(あかね)色の空が広がっていた。

 いつの頃からか、あまりアルバムを見なくなっていた。懐かしいというより切なくなる。ありったけの力でしがみついてきた息子の重み。今は亡き義父の笑い声や、まだ元気に小言を言っていた母の顔。あの頃はどうして、そんな瞬間に限りがあるということに気づかなかったのだろう。ちくりと、悔いの針が胸を刺す。

 けれど、こんなに小さかった息子が恋をし、自分の足で歩き始めている。誰もみな、同じではいられない。私もいずれ、母の年になる。大切な瞬間は、今も、ここに在る。

 部屋の窓から見えるケヤキは、いつの間にか青々とした若葉をまとっている。美しいこの季節が大好きだ。そして同じ位(くらい)、冬枯れの影絵のようなケヤキも好きだ。薄暗い空に映えて美しい。最近、そう思うようになった。

 ふうっと、小さく息を吐き出して、アルバムをまたきれいに並べてしまい込んだ。



 《横顔》  読み手考え表現工夫

  4度目の応募で初入選。内定通知時は不在で「留守番電話を聞いた時のうれしさは忘れられない。何度も繰り返し聞きました」。

 息子の恋話で久しぶりに開いたアルバム。あらためて知る息子の成長と親の老い−。人生の無常と心の揺れを、ことさらに深刻ぶらず希望を感じさせる独特の筆致で描いた。

 「時の流れがもたらす喜びと切なさ、悲しさ。誰の日常にもある、そんな心模様を、母と一人息子の姿を通して表現できたらと思った」

 構成は4月中にほぼ固まった。5月に臨時の仕事が入り応募を断念しかけたが、あきらめきれず、何とか仕上げた。頭の中ではいつも細かな文章表現を練っている。

 「何を書くにしても、ひとりよがりではなく、読み手が分かる表現でなくては。今後は短編小説も書いてみたい」

 【さとう・あけみ】 盛岡市志家町。主婦。54歳。青森県五戸町出身。


優秀賞 ロレッタ 吉田 真人(よしだまさと)さん


 私の本棚の一隅に、二十センチほどのボーンチャイナの人形が飾ってある。数年前に家を建て替えた際、がらくたを整理していてひょっこりと出てきたものだ。

 葡萄(ぶどう)色のロングドレスにレモン色のストールをゆったりと羽織った淑女で、底の素焼きの部分に天眼鏡を当てると、ロゴマークを囲んで『Made in England』と書かれてある。

 他に『Loretta』という製品名や幾つか数字が並んでいて、『1965』というのは恐らく人形の制作に関(かか)わる年号なのだろう。

 和暦になおすと昭和四十年である。丁度(ちょうど)私が高校に入った年なのだが、実はその年、我が家にはある出来事があった。仕事の関係で父が二カ月ほど外国に出掛けたのである。

 食べ盛りの私にはチョコレートが土産だったし、姉達にはブローチなどもあったような気がする。イギリスと我が家を結びつけるならあの出来事しかなく、つまり人形は父が外国で買ったもう一つの土産であり、いわば形見の品ということになる。

 傷ひとつなかったこともあるが、人形を捨てずにとっておこうと思ったのは、そんな理由からだった。

 暫(しばら)く人形を眺め暮らすうちに、些細(ささい)なことが気になりだした。土産はいいが、一体誰に買ってきたものなのかということである。私の下に妹が一人いるが、当時もう中学生で、人形を欲しがる年齢ではなかった。しかもせっかく買ってきたというのに、人形が飾られていた記憶が全くないのである。

 父も母も鬼籍に入って久しい。どんな思いで買われた土産なのかもはや聞く術(すべ)はない。小首を傾けて虚空を見やり、人形も素知らぬふりをするばかりだった。

 お盆に息子夫婦が帰ってきた。良い機会だから先祖のことでも話しておこうかと、納戸の段ボール箱から古いアルバムを引っ張り出しておいた。

 「若い人には昔の話なんかねえ……」

 退屈そうな嫁の様子を窺(うかが)いながら、妻は私の長話を諫(いさ)めた。

 せっかく出してきたのだからと久しぶりにアルバムをめくっていると、偶然数枚の写真に目が留まった。駅のホームで、父が見送りを受けている。空港とおぼしきロビーでのものもある。外国に出掛けたときのスナップ写真だった。

 人垣の中の姉達の姿に、ふと気が付いたことがあった。ロレッタは、まさにあの頃(ころ)の姉達と同じ年頃の人形なのである。

 去年、私は父が旅行に出掛けたときの歳(とし)をひとつ越えた。もし私が父だったなら、どんな思いの時に人形を手にするだろうか。

 二カ月も家を留守にしていれば、家族のことが気にならないはずはない。息子ばかりの私とは違って父には四人の愛娘がいたが、当時上二人は既に他家に嫁ぎ、三番目も進学で上京している。そういえば見送りに来てくれていたななどと、次々に自分の元を離れてゆく娘達のことを旅空に思い浮かべたとしたら……。

 そんな時、私ならショーウィンドーの同じ年頃の人形にふと目を留めるに違いない。寂しくなってゆく家に、せめて人形でも飾ろうかと父は考えたのではなかろうか。誰かへではなく、自分自身の慰めのためだったのだ。

 そして持ち帰ってはみたものの、家族の前では気恥ずかしく、あまりおおっぴらにはできなかったのかもしれない。

 しかしもしそんな思いのこもった人形だとしたら、息子の私が持っているのはいささか不釣り合いである。同時に、私はそこはかとない戸惑いも覚えた。

 彼岸も過ぎた頃、息子から電話があった。嫁の具合が悪くなり、医者に行ってきたという。そして、照れた口ぶりでおめでただったと告げてくれた。

 不意にいいアイディアが浮かんだ。

 −父さん、初孫がもし女の子だったら、あの人形その子に引き継ぎますよ。ねえ、いい考えでしょう! ちゃんと手紙も添えておきます。

 『これは、お前の曾(ひい)お祖父(じい)ちゃんがイギリスから連れてきた人形だよ。ロレッタという名前さ。いつまでも大切に…』と。

 しかしもし男の子だったらどうしよう。まあいい、そのときはその子の嫁さんにでもやろうか。

 ただ…と、私は父の行年までの年を指折り数える。そのためには、私は父より大分長生きをしなければならない。



 《横顔》  筆力定評、継続に意欲

  受賞内定の通知を受けた夜、夫婦で祝杯を挙げた。「初入選のうれしさはひとしお」と喜ぶ。

 受賞作品を書く動機となったのは息子の嫁の懐妊。「親子や兄弟間の殺伐とした事件が多発している昨今、時を超えて連綿とつながる、当たり前の家族のきずなを描いてみたかった」

 何を軸に据えれば読者に伝わるか?…。身の回りを見渡し、目に留まったのが本棚の人形だった。

 岩手日報社発行の文芸誌「北の文学」では小説部門で51号以来入選5回。「藤島三四郎」の筆名で、都会的なタッチの作品を連発。毎回異なる世界を描き分ける筆力には定評があるが、随筆賞は縁遠く、今回は数パターン作っては推敲(すいこう)を繰り返し、完成まで3カ月かけた。

 首都圏の大手地銀勤務などを経て、現在は県福祉総合相談センター非常勤職員。「小説も含めて、これからも研さんを積み、地道に書き続けていきたい」

 【よしだ・まさと】 盛岡市茶畑。県非常勤職員。59歳。同市出身。


(2009.7.8朝刊掲載)

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