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〜第2回〜

8氏、晴れの受賞 岩手日報随筆賞


 岩手日報社主催の第2回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の贈呈式は21日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者8人と、相沢徹県教育長、川島敬司IBC岩手放送常務、選考委員で作家の平谷美樹さん(金ケ崎町)、岩手日報社の村田源一朗会長、三浦宏社長、昨年の同賞と、一昨年度までの岩手日報文学賞随筆賞最優秀賞受賞者ら約50人が出席した。

 東根千万億編集局長が選考経過を報告し、三浦社長が最優秀賞の奥州市水沢区真城の地方公務員今野紀昭さん(57)に、正賞のブロンズ像「エリカ」(故舟越保武氏制作)と賞状、賞金20万円を贈呈。

 優秀賞の盛岡市黒石野の会社役員野中康行さん(64)、釜石市上中島町のデザイナー白金英美さん(57)、盛岡市本宮の主婦大木戸浩子さん(66)の3人に賞状と賞金各5万円。佳作の盛岡市仙北の小学校講師上柿早苗さん(42)、花巻市上根子の主婦稗貫イサさん(58)、金ケ崎町永沢の酪農業小野まり子さん(58)、宮古市藤原の無職中村キヨ子さん(57)の4人に賞状と賞金各3万円を贈った。

 三浦社長は「それぞれの感性や筆力を感じる作品だった。長年選考委員長を務めていただいた故三好京三さんのご恩に報いるためにも、本賞を大きく育てていきたい」とあいさつ。

 相沢県教育長、川島IBC岩手放送常務、平谷さんの祝辞に続き、受賞者を代表して今野さんが「壇上に立っているのが夢のよう。受賞を機に初心に帰り、精進を続けたい」と謝辞を述べた。

 今回の応募数は126編。予備選考を経て平谷さん、エッセイストの工藤なほみさん(盛岡市)が審査した。

(2007.7.22)

第2回岩手日報随筆賞決まる 
−2007年−


 岩手日報社主催の第2回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の入選者が決まりました。最優秀賞は、奥州市水沢区、地方公務員今野紀昭さん(57)の「ひつじ雲」が選ばれました。優秀賞は、盛岡市、会社役員野中康行さん(64)の「山王海」、釜石市、デザイナー白金英美さん(57)の「ミヤコワスレ」、盛岡市、主婦大木戸浩子さん(66)の「『父の指』」の3編でした。

 佳作は、盛岡市、小学校講師上柿早苗さん(42)の「孫太郎虫」、花巻市、主婦稗貫イサさん(58)の「姉からの贈りもの」、金ケ崎町、酪農業小野まり子さん(58)の「牛飼い」、宮古市、無職中村キヨ子さん(57)の「いつもの道」でした。20歳未満の応募者が対象の奨励賞は該当作がありませんでした。

 贈呈式は21日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞の今野さんに正賞のブロンズ像「エリカ」(故舟越保武氏制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞の3人に賞状と賞金5万円、佳作の4人に賞状と賞金3万円が贈られます。

 今回の応募総数は126編(123人)。社内での予備選考を経た10編について選考委員(委員長は三好京三氏死去のため空席)のエッセイスト工藤なほみさん(盛岡市)、作家平谷美樹氏(金ケ崎町)が審査しました。

岩手日報社
(2007.7.15)


  第2回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」

 受賞者と作品紹介

 岩手日報社が昨年創刊130年を記念して創設した「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」は、第2回の今年も応募総数が126編に上り、一昨年までの岩手日報文学賞随筆賞当時の水準(90編前後)に比べても定着ぶりをうかがわせた。予備選考を経た10編を、選考委員のエッセイスト工藤なほみさん(盛岡市)、作家平谷美樹氏(金ケ崎町)が審査し、最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作4編を選んだ。この中から最優秀賞、優秀賞の受賞者の横顔と作品を紹介する。

 《選評》リズム、スタイルに独自性

 今回の応募者123人(126編)の内訳は男性62人、女性61人。入賞作8編以外では、遠藤カオルさん(奥州市水沢区真城)の「義父(ちち)のどんぶり」、味園史湖さん(花巻市東和町土沢)の「96回目のエイプリルフール」が最終選考に残った。選考は応募者名を伏せて行った。工藤なほみ、平谷美樹両選考委員の審査評を基に、平谷委員に選評をまとめてもらった。

 今年は粒ぞろいの作品が集まった。それぞれが独自のリズムやスタイルを持ち、力強い作品に仕上がっていた。

◇           ◇

 今回の最優秀賞「ひつじ雲」は、年老いた母親と息子の互いの心配りが淡々とそれでいて色濃くつづられ、好感の持てる作品になっている。自身の心の葛藤(かっとう)や切ないエピソードも扱いながら、読後感も良い。

 優秀賞「山王海」は、上質な筆致と品の良さが感じられる作品である。山王海の重い過去と筆者の間に距離があり、テーマが希薄に感じられてしまう点が残念だった。

 「ミヤコワスレ」は、安心して読める文章のうまさがあった。ミヤコワスレ命名の故事を短くまとめ、結びをもう少し掘り下げるとよかった。

 「『父の指』」は、重い題材を正直に書き進めている。文章もうまい。残念なのは、故人への強い思いが作品のバランスを崩していることである。

 随筆は事実を書かなければならないが、ただ事実を羅列しただけでは成り立たない。個人的な日記ではなく、自分以外の人間が読むということを想定するのであれば、他者に読ませる工夫が必要である。

 テーマの深化や、構成、語句の選択。表記を漢字にするか、ひらがなにするか、カタカナにするか等々。そして、原稿用紙の使い方は守らなければならない約束事の一つである。次回への課題としていただきたい。

最優秀賞 今野 紀昭さん

 読ませる文章心掛け


《横顔》
 「最初に電話で内定を知らされた時、自分の聞き違いではと思った。手紙が届いて『本当に最優秀賞なんだ』と…。(予備選考を経て選考委員が読む)10編に入ればいいと思っていたので、受賞は全く予想外だった」と、柔和な表情で喜びを語る。

 一昨年の第58回岩手芸術祭「県民文芸作品集」随筆部門優秀賞など実力はある人だが、かつての岩手日報文学賞随筆賞では「封筒にコピーだけ入れて原稿を入れ忘れたり」と縁が薄く、今回も募集要項を見過ごし、公民館の合評会仲間から教えられた。

 すぐ浮かんだのが昔飼っていた羊について書くこと。最初は、羊の毛でセーターを編んでもらったことなど羊の思い出中心に書くつもりだったが、折から母親をデイサービスに通わせることになり、そのエピソードを絡めたことで、印象的な導入部が生まれた。

 「『メエコの雲!』と両手を上げて空を仰ぎ叫ぶ母親。その情景が目に焼き付いていつまでも消えない」(選考委員の工藤なほみさん)。「枚数の関係で文章を削りすぎたとの思いが消えず、導入部としては失敗したかなと思っていた」と自己分析するが、結果として説明過多にならず、読者の気を引く見事な書き出しとなった。

 「けれんみのない表現、簡素な言葉で書いたのがよかったのかもしれない。読者に読まれなければ、書いたうちに入りませんから」

 大学卒業後、一部事務組合の胆江地区広域行政組合に就職した。学生のころはエッセーなどを書いていたが、社会人になって筆は置いた。しかし退職後の人生を意識し始めるようになってから「書かないで後悔するより、書いて後悔する方がいい」と、5、6年前から再開。「ばん茶せん茶」などにも度々投稿している。「随筆は文章の基本。今まで通り書いていきたい」

 応募する前、作品を母に見せた。「黙って読んでいた。受賞を知らせた時も『おめでとう』の一言だけだった」。母と子の万感の思いが交錯する。

 こんの・のりあき 明治大卒。胆江地区広域行政組合収入役室長補佐。奥州市水沢区。57歳。同市出身。



ひつじ雲

 一面黄色く実った稲穂が秋風にさざめいている田圃(たんぼ)で、忙しく刈り取りをしていると、突然母が大きな声で叫んだ。

「メエコの雲!」

 私は驚いて母を見た。頭の近くまで両手を上げ、仰ぎ見るように空を眺めている。ひつじ雲だ。青く澄んだ空には白い雲の塊が群れ、その一つ一つは、もこもこした毛で覆われた羊の形をし、悠然と連なっている。

 じっと空を見上げたままの母に、言った。

「空ばかり見てないで、手伝ってくれよ」

 すると母は、ぶっきらぼうに言い返した。

「わたし、先に帰るから」

 行動までおかしい。こんなことは今までにないことだ。やはり呆(ぼ)けの兆候だろうか……。

 ガスコンロの火を消し忘れ、電灯も点(つ)けっ放し、水道の栓も閉め忘れるなど、最近特に多い。注意すると「はい、分かりました」とはっきり返事をするが、その後また繰り返す。

 後(あと)2、3年で定年退職する私は、いろんな地方の町並みや自然を見て歩くのが、今から楽しみだ。しかし、介護が必要となれば、母を一人家に残して出掛けるわけにいかない。不安が過ぎる。すると、家路につく母に、言い知れない腹立たしさが込み上げるのだった。

 『メエコ』は私が小学校2、3年生の時まで飼っていた羊の名前である。メエコの毛で母がセーターを編んでいたころの記憶が、糸車を回し毛糸玉に丸めたように大きく膨らむ。

 冬の授業参観時、担任の教師は同じ色合いのセーターを着ている私と母を見て、言った。

「揃(そろ)いのセーター、とても温かそうですよ」

 それは、青と緑の毛糸を交互に織り交ぜ編んだもので、母は照れくさそうに言い訳した。

「綿羊の毛糸、二色(ふたいろ)しか染めなかったし、面倒だから同じく編んでしまったのしゃ」

 私は横から口を挟み、得意げに言った。

「メエコの毛だも、ポカポカ温(あ)ったげぇよ」

 すると母と教師は互いに顔を見合わせ、くすくすと笑うのだった。

 母はメエコを連れ、よく田圃に行った。メエコはどこまでも母に従(つ)いて歩き、姿がちょっとでも見えなくなると、大きな声で鳴き続けた。そんなメエコをとても可愛(かわい)がった。

 私はデイサービスの手続きをした。

「わたし行きてぐね。まだ介護受けたぐね」

 77歳の母は顔を強張(こわば)らせ、頑(かたく)なに拒絶した。自尊心が承知しなかったのだ。「集まった皆と話をしたりお茶飲んだり出来るから楽しいよ」と説得すると、しぶしぶ応じた。

 デイサービス当日、母は朝早くからそわそわしていた。昨夜は眠れなかったのだと分かった。「行って来っから」と薄く笑って送迎車に乗ったが、足取りは重く寂しそうだった。その後ろ姿を見るに、母の気持ちを汲(く)むこともせず、惨(むご)いことをしたと自分を責めた。

 ところが、帰宅した母は嬉(うれ)しそうに話した。

「お風呂にも入ったし、皆とお昼を食べ、歌を歌ったり踊ったり、ゲームもして遊んだ。とっても面白(おもせ)かった。来週も行くからね」

 どうなるかと心配していたが、胸にすっと安堵(あんど)の風が通り、ほっと気持ちが晴れた。

 母は歌を口ずさむようになった。生活に張りがでたのだ。その健気(けなげ)な姿からは、今の自分を素直に受け入れて、生きて行こうと努力しているのが分かった。施設での皆との語らいやその日の生活の様子を喋る時の表情がとっても活(い)き活(い)きと弾み、笑顔が綺羅(きら)と光る。

 「随分、楽しそうだな。俺(おれ)もデイサービスに通うかなぁ」と冗談で言うと、母は先輩振(ぶ)り、世話役を買って出ようと張り切る。

 そういう母を見ていると、それは心配する私を気遣ってくれる母の思い遣(や)りにも思え、勝手な思惑でデイサービスに通わせることにした私自身が、また無性に情けなくなった。

 「生きるということは、自分を支えてくれる人たちのために生きる、生き方をいうのだよ」と私が勝手気ままな生活をしていた学生の時、母から叱責(しっせき)されたことを思い出した。この先、母の介護に思い惑うことがあっても、母の言ったその生き方こそ、私の生き方にしなければならない、と心に決めたのだった。

 ある日、近くに住む伯母にメエコの話をしたところ、意外なことを知らされた。

 母は私を産んだ後、何度も流産を繰り返し、その悲しみを癒やすかのように羊を連れて田圃に出掛けた。楽しそうな足取りは悲しみであり、微笑(ほほえ)みは涙だったのだという。

 私はその話を聞いてはっとした。あの稲刈りの時、空を見上げて叫んだメエコの雲とは、母が若いころの感傷だったのだ。母はひつじ雲に、来(こ)し方(かた)の遠い日々の思いを馳(は)せ、旅をしていたのだ。それと気付かない私は、母の心の内を気遣う情緒の欠片(かけら)さえもなかった。

 母は、まだまだしっかりしている。要らざる心配をしてしまったと一人、苦笑いした。



優秀賞 野中 康行さん

 頂点に再挑戦できる


《横顔》
 昨年に続く優秀賞受賞。一昨年まで催された岩手日報文学賞随筆部門でも2回入選し、随筆集も上梓(じょうし)しているベテランだが、今回は締め切り近くなっても書く題材を探しあぐね「焦る気持ちでいた」と振り返る。

 そんなとき、父姉と山王海に出かけた。過去に入り込むように山に入っていくと、父と姉にも、このダムにかかわる思い出があった。

 「夕暮れ時、人けのないダムは、忘れ去られそうな歴史をその奥底に秘めてたたずんでいた。異様なほど静かなダムに、過去の村人の怨念(おんねん)や執念のようなものを感じて、それを作品にした」

 作品は「何を」「どう書くか」が要点−としながらも「今回は『どう書くか』を十分整理しないまま書いてしまった」と反省も。最優秀賞は逃したが「友人から『また挑戦できるということだよ』と励まされた」と受け止める。

  ◇        ◇

 盛岡市。会社役員。64歳。紫波町出身。


山王海

 山王海ダムには、もう15年は行っていない。その後、改修されたダムはどう変わったのか、親子ダムとなった葛丸湖はどんなところか、いつかは行って見たいと思っていた。

 「山王海?」と、そのとき姉と妹は乗り気でない返事をしたが、すぐに出かける支度を始めた。5月の初め、1人で暮らす父のところ(紫波町)に、横浜に住む姉と花巻の妹が集まった。めったに出かけない父を連れて、どこかへ行こうとなったときのことである。

 葛丸川に沿って山に入った。

 山腹に1、2本、山桜が咲いていた。ほどなく、藍(あい)色の水をたたえた葛丸湖に着いた。そう大きくない湖を迂回(うかい)して再び山中に入る。上の木々はまだ冬からさめていない裸木であった。狭い山道を登り、うねった山道を下ると、山間からダムが見えてきた。傾きかけた日差しが緑色の湖面を照らしている。

 車は、低木の枝が覆う狭い道に入り込み、そばまできている水辺を走る。平野では代かきが始まった。満水の水は、これから大量に放出されていくのだろう。

 滝名川を堰(せ)き止めて造られたこのダムは、昭和27年に完成した。平成13年に終えた大規模な改修工事で、堤高が24メートルかさ上げされ、堤頂も100メートル伸びた。この工事で総貯水量は4倍にもなったが、このダムを満水にするだけの集水面積がない。そのため、近くの葛丸湖とトンネルで結び、お互いの水を補給し合える親子ダムにした。

「この近くに学校林があってさ、下刈り作業に歩いて来たよ。遠くていやだったなあ」

 と姉が言う。学校林とダム工事の見学に来たかすかな記憶が、私にもある。

「囚人が逃げて、大騒ぎにもなったこともあったよね」

 と姉が問うが、耳の遠い父に反応はない。工事には多くの受刑者が携わった。ほとんどが模範囚であったようだが、脱走する者もいたという。しばらくして、父が言った。

「馬そりごと谷に落ちて、死んだ人もいる」

 私は、小学校で先生から教わり、学芸会でも演じてくれた、「志和の水けんか」を思い出していた。

 ここから数キロ下って志和稲荷神社前に出た流れは、そこから東に広がる扇状地を通って北上川に注ぐ。もともと流量の少ない川であったが流域の開発だけは進み、いつの時代も水不足は深刻であった。

 水争いは、神社前から北東に延びる最古で最大の堰(せき)、高水寺堰と他の堰との争いであった。神社前はさほどでもないが、少し下ると川幅は急に広くなる。川の中央に中州があり、流れはここから本流方と支流方に別れる。

 夜陰にまぎれて誰かがこの堰の流れを変えた。それに怒った一方が、他の堰を止める。小競り合いはしだいに大きくなり、村人は、力ずくで流れを戻そうとする。人を集めに馬が走り、半鐘が鳴る。綿入れを着こみ、蓑(みの)をつけ、鎌(かま)や鳶口(とびぐち)を背にした村人が堰にあふれ、堰をはさんで対峙(たいじ)する。流れを止めた土俵を払いに、数人が川原に下りた。怒号が飛び交い、川原に飛礫(つぶて)が降った。

 水争いは毎年のように起き、死者が出ることもしばしばあった。300年も続いた水争いは、このダムが完成して終わる。

 わが家は、その本流方の水系にあるのだが、誰からも詳しい話を聞いたことがない。この地域の人にとって、それは思い出したくも、語りたくもないことだったのかもしれない。

 山中を1時間も走り、ダムをほぼ1周して堰堤の見渡せる展望所まで来た。

 日の陰ってきたダムは、ひっそりとして、水の音さえしない。放水口を覗(のぞ)きこむが、深い底は暗くて見えない。

 堰堤の法(のり)面に、「平安」の文字が見える。かつては雑草のなかに埋もれ、崩れかけていたツツジの文字は、広くなった芝面にさらに大きく植え直されていた。

 この流域に住む農民が願い続けたもの、それが平安であった。父と姉のそれも、全(すべ)てのつらい過去がこのダムの底に沈んだ。悲願であったその文字は、それを閉じ込め、封印しているように私には思えた。

 下流で起こる「水けんか」のざわめきと半鐘の音は、この辺りまで届いたろうか。馬そりごと落ちた谷はどこだろうか。そんなことを考えながら、深い谷に沿った道を下った。姉が遠くていやだったと言った道のりも、車だと4、5分であった。

 志和稲荷神社前に出た。

 視界が大きく開け、同時に、ため息が出た。

 ため息は、山道を運転してきたその緊張が解けたからでもあるが、むしろ、入り込んでしまった山王海の重い過去からやっと抜け出た、それであるような気がした。

 太陽は山陰に回ったが、平野はまだ明るい。代かきの終わった水田は空を映して光り、何枚も続いていた。



優秀賞 白金 英美さん

 書き続け心身に気合


《横顔》
 「東京に帰ってきたら? もう東京のことは忘れちゃったの?」。受賞作は、作品冒頭の母の電話を発端に数時間で書き上げたが、出来栄えに納得できず、しばらくパソコンに取り置きしたままだった。

 数週間後、手直しして友人に読んでもらった晩、飲みに行った店のカウンターに生けてあったのが何と「ミヤコワスレ」。「なんだかうれしくなって翌日応募した」と、ドラマのような偶然を喜ぶ。

 出版社主催のコンクール入選歴はあるが、「しばらく切っていた作文のスイッチ」を入れたのは「書け〜!」という娘さんの一喝。「更年期鬱(うつ)なのか、やる気が出ず、引きこもりに近い日常」を打破する特効薬になったようだ。

 「書くことを応援してくれる友だちがいて、家族も励ましてくれる。ともするとへたりそうになる心身に気合を入れて、書き続ける努力をしなければ」と誓う。

  ◇        ◇

 釜石市。デザイナー。57歳。東京都出身。


ミヤコワスレ

 東京で暮らす母から久しぶりに電話があった。会話の中に時折「老い」を感じることはあっても、達者でいてくれることは有り難い。離れて暮らす娘としては、話し相手をすることくらいしか出来ない申し訳なさをいつも感じている。その日、母は私にこう言った。

「長年そっちにいるから愛着もあるだろうけど、背負ってるものもないんだし、一人でいるより東京に帰ってきたら? もう東京のことは忘れちゃったの?」

 母の一言で、小さい花の記憶が蘇(よみがえ)った。

 祖母は花が好きだった。私が子供の頃(ころ)の数年を過ごした母の実家には、都心近くでも20坪ほどの庭があり、祖母が育てた花が季節毎(ごと)に咲いていた。花の他に桜桃、無花果(いちじく)、柿など実の成る木もあって、子供たちの楽しい遊び場になっていた。私がその花を初めて見たのは晩春の庭、手押しポンプの井戸端近くにひっそり穏やかに咲いていた濃紫色の小さい花は「都忘れ」という名前だと祖母に教わった。子供心に「大人の花」と思ったのは、花の風情とその名前のせいだろうか。

 後年、その花の物語を知人から聞いた。

 『結婚を約束した娘を故郷に残し、都へ旅立った若者が事故に遭い重傷を負う。都の娘に助けられ元気にはなったが、若者はそれまでの記憶を失っていた。やがて若者は助けてくれた娘と結婚し、都で幸せに暮らすが、故郷の娘は、風の便りに若者が都で結婚したことを知って絶望する。若者が記憶を失ったことを知らずに、娘は深い悲しみに堪えきれず川に身を投げる。翌年、その川のほとりに見たこともない濃紫色の花が咲き、人々は死んだ娘の化身だと噂(うわさ)した。数年後、若者が通りかかって川のほとりで休んだとき、咲いていた可憐(かれん)な花を見付ける。その花に触れた途端、若者は都でのことを全(すべ)て忘れてしまった。そして川のほとりで1人ひっそりと暮らしたのだそうだ』というものだった。誰が創作した物語かは知らないが、当時若かった私はその話を聞き、突然忘れ去られた都の娘は別の花になったのかと言って、知人を呆(あき)れさせた思い出がある。

 「都忘れ」という花は、庭で遊んだ無邪気な時代と祖母を思い出す大切なもので、花の季節に店先で見付けるとよく買い求めて部屋に飾った。結婚して子供が生まれ、夫の実家に移り住むまでその習慣は続いていた。

 生まれ育った東京を離れ、岩手県民になったのは昭和51年のことだった。子育ては自然に恵まれたところで…と自分も望んだ選択ではあったものの、いざ生活を始めてみると勝手の違うことだらけで、毎日が驚きの連続だった。大家族の中での家事、育児、親(しん)戚(せき)やご近所との付き合いと、それまでに経験のない日常に疲れ果て、何度も挫(くじ)けそうになった。周囲の人々は皆優しくしてくれたが、言いようのない孤独感がいつも胸にあり、「東京に帰りたい」という思いは、周期的に何度も訪れて私を泣かせた。

 そんな日々に、近所の公園の端に「都忘れ」が咲いているのを見付けた。忙しさに紛れて忘れていたけれど、咲く場所は違っても花は昔のままの可憐さで咲いていた…私は買い物帰りの足を止め、その花の前にしゃがみ込んでしまった。「帰りたいところがあるから帰りたくなる。東京でのことを忘れてしまえば、こんな寂しい思いをしないで済むんだろうか…」と、私は手を伸ばしてそっと花に触れてみた。勿論(もちろん)物語のように都を忘れられるはずもなく、私を呼ぶ娘の元気な声で我に返り、その後の暮らしに変化はなかった。

 私にとって現実の「ミヤコワスレ」は、娘の成長と共に自ら選択可能な友人が出来、仕事を始めたことによって外に広がる世界を得てからになる。「住めば都」と言うけれど、岩手の人も自然もいつしか掛け替えのないものになっていた。仕事を通して知り合った皆さんには、自分でも気付かなかった可能性を引き出して頂き、様々な場で発言する機会も得られて貴重な経験もした。充実した日々は、母に「もう東京は忘れたの?」と言わせるほど、東京を疎遠なものにしている。あんなに帰りたかった都会を否定して暮らしている今があるのだ。でも…生まれ育った東京を決して忘れたわけではない。ずっと昔に無くなってしまった母の実家や「都忘れ」と出会った庭、懐かしい人々との思い出も、ちゃんと私の胸にある。忘れたくても忘れられないのが故郷なのだから。

 今すぐここを離れる気はなくても、老いた母のために、いつか東京に帰る日が来るかも知れない。その時、「都忘れ」を見て思う都は、きっと岩手のこの地なんだろう。私にとっての「都」は完璧(かんぺき)に遷都したんだと、改めて思った。もうじき「都忘れ」の咲く季節がやってくる。しばらく買い求めることのなかった濃紫色の花を今年は飾ってみよう。私の2つの都を忘れないために。



優秀賞 大木戸 浩子さん

 筆力定評、磨きかける


《横顔》
 2年連続の優秀賞。昨年の受賞作品は、米国に嫁いだ娘さんが題材だった。今回の受賞内定連絡は、その娘さんの新居を見に渡米する前夜、成田空港近くのホテルで、留守宅から知らされた。

 娘夫婦に2番目の子が生まれ、用意したトランクの中身はようかん、お茶漬けのもと、のり、ふりかけ、孫の長靴。「さらに優秀賞のお土産までもが加わり、幸先の良い出発となった」と喜ぶ。

 30代で雑誌社のエッセーに入選後、書く作業から遠ざかり、再開したのは一昨年5月の本紙「私の交差点」に採用されてから。「ばん茶せん茶」「花時計」「おはなしくらぶ」と、本紙エッセー投稿欄の常連で、筆力は定評がある。

 受賞作は、48歳で逝った父が題材。「少ない父との思い出をつなぎ合わせて書いてみたが、内容の濃い作品にできなかったのが反省点」。不満が残るのは娘ならではの思いか。

  ◇        ◇

 盛岡市。主婦。66歳。同市出身。


「父の指」

 男にしては華奢(きゃしゃ)な父の指が鉛筆を走らせていた。指から紡ぎだされるのは、詩でも俳句でもない。新聞の原稿だ。

 原稿用紙は縦罫(けい)だけのハガキより少し大きめのざら紙だ。軟らかな鉛筆の芯(しん)は紙の上を滑るように上下して、レ点が付いたり段落印が付いて、指には似合わない太目の字が淀(よど)みなく紙面を埋めていく。次の紙に移って、又(また)移って、原稿用紙は裏返しにして積まれた。左手は机の上で、節の目立たない細い指は、人差指(ひとさしゆび)を幾分立てて、紙を押さえている。

 一番鶏(どり)が鳴いて、そっと起き出すのは父だ。隣に寝ているのに気付かない。目が覚めると寝床は空で、温みも残っていない。蒲団(ふとん)はこんもりと山を作り、抜け出たそのままだ。

 誰よりも早く起きるのは、魚市場に取材に行くためだ。長い坂道を自転車で下り、水揚げ量などを取材してくる父は、市場から貰(もら)った魚と共に帰って来た。魚を捌(さば)いてから新聞社まで再びペダルを漕(こ)いだ。

 元々(もともと)はブロック紙の記者だったが、各地を転々として、最後は港町気仙沼の小さな新聞社に落ち着いた。専務兼編集長の肩書を持つ父は、誰よりも早く出社し、原稿用紙を火種にして、薪(まき)ストーブを付ける係でもあった。

 1年前に赴任した父の後を追って、兄と姉を除いた家族6人が釜石から移り住んだのは高校2年の秋だった。

 単身赴任が多かったので、父と暮(くら)したのは僅(わず)か10年程だ。一緒に暮し始めても広告依頼や取材で駆けずり回り、家で父の姿を見るのは稀(まれ)で、留守が当(あた)り前の毎日だった。

 珍しく食卓に全員が揃(そろ)うと、怖い父に変わった。座り方が悪い。迷い箸(ばし)は駄目、身が竦(すく)む食卓だった。一番恐怖を感じたのは、新聞を踏んだときだ。髪の毛が逆立つ程に怒り、そこら辺りの小物が飛んできた。踏みつけるのは、子供であっても許せなかったのだ。

 父の機嫌の良い日だった。「学校で何か面白い事ないか、何でもいいから書いてみろ」と原稿用紙数枚をくれた。頼まれたのが嬉(うれ)しかった。女学生の昼休みの噂(うわさ)話を書いてみた。囲み記事で掲載されたのは10日後だった。埋草(うめくさ)として使われたのだ。

 外面(づら)は良かった。会社に行くと名刺の裏に「じゃり1匹、お願いします」と書いて渡してくれた。黄門様の印籠(いんろう)のような物で、映画館でモギリに見せるだけで中に入れた。

 父は酒を飲む機会が多かった。付き合い酒もあったが、元々が酒好きなのだ。外での酒が大半で、家で晩酌する姿は記憶に無い。父の眠る寝室は、いつも酒の匂(にお)いが漂っていた。

 1月14日の夜、いつものように酒を飲んだ父が帰ってきた。蒲鉾(かまぼこ)を貰ったらしく、台所で煮てから眠りに着いた。夜半、トイレに起きる気配で目が覚めた。階下からゆっくり上がってくる足音、いつもと違う足取りだ。横になり「手がおかしい」と呟(つぶや)いた。「大丈夫?」と聞きながら眠りに落ちてしまった。

 朝起きて父の異変に気がついた。大きな鼾(いびき)をかき目を覚まさない。医者が駆け付け「大丈夫、目を覚ますから」と家族に説明した。だが、一日中鼾は止(や)むことなく眠り続けた。

 翌日は登校日である。高校生1人、小学生4人は後ろ髪を引かれる思いで学校に向かった。学校に着いて間もなく、険しい表情の先生に「すぐ家に帰りなさい」と告げられた。

 呼んでも目を覚ますことなく、鼾さえも止まり、僅かに口を開いているが、生きている証(あかし)は何もない。突然の別れに家族は狼狽(うろた)えた。兄は東京の大学に在学中で、16日はフランス語の講座があり、手帳に仏と書いたそうだ。偶然だろうが、怖い暗合だ。

 何故(なぜ)夜の内に隣室の母に知らせなかったのか悔やまれてならない。蒲鉾の煮付けまで作った父に、異変が起こるとは思いもしなかった。最後の会話を交わしただけに責任を感じた。48という歳(とし)は、逝くべくして旅立つ年ではない。心を残して形だけが消えた。

 数日が過ぎた寒い夜、ベランダに人の気配を感じ、戸を開けた。父が黒いオーバーを着て立っていた。ボタン1個が取れていて、華奢な指で押さえていた。「あっ」と声を出したら、闇に呑(の)まれるように消えていた。ボタンを押さえながら、旅の途中に寄り道をしたのだ。皆に顔を合わすことなく、二度と戻れない道、連れのいない旅に戻った。

 不思議な事が再び起きたのは、学校の帰り道に父の眠る寺を参ったときだった。中に入るや突然、寺が激しく揺れた。天井を見上げていたら住職が走って来て「駄目だよ、1人で来ては、だから地震が来たんだよ」と肩を抱いてくれた。父のメッセージかもしれない。何を伝えたかったのだろう。二度の不思議な出来事は、いつまでも心に残っている。

 父は原稿用紙とペンを持ち旅立った。今も取材していますか。原稿用紙は足りていますか。私は、数少ない思い出を細い糸で継ぎ接(は)ぎをしています。


(2007.7.15朝刊掲載)

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