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〜第1回〜

「第1回」9氏に 岩手日報随筆賞贈呈式


 岩手日報社主催の第1回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の贈呈式は15日、盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行われた。

 受賞者と、安藤厚県教育委員長、阿部正樹IBC岩手放送社長、選考委員長で作家の三好京三氏、岩手日報社の村田源一朗会長、三浦宏社長、岩手日報会の向井田敏央会長、昨年までの岩手日報文学賞随筆賞受賞者ら約60人が出席した。

 東根千万億取締役編集局長が選考経過を報告した後、三浦社長が最優秀賞の宮古市大通り1丁目、三田地信一さん(70)に、正賞のブロンズ像「エリカ」(彫刻家・故舟越保武氏制作)と賞状、賞金20万円を贈った。

 優秀賞の一戸町奥中山の上田敏雄さん(67)、盛岡市本宮2丁目の主婦大木戸浩子さん(65)、同市黒石野2丁目の会社役員野中康行さん(63)には賞状と賞金5万円。

 佳作の一関市東山町の主婦遠藤朝子さん(64)、花巻市湯本の主婦菊池百合子さん(54)、滝沢村滝沢の宮本義孝さん(65)に賞状と賞金3万円、20歳未満の応募者を対象にした奨励賞に選ばれた盛岡市盛岡駅前北通の盛岡一高3年大久保貴裕さん(18)に賞状と1万円の図書カードが贈られた。佳作の同市緑が丘1丁目、菅原孝さん(76)は都合で欠席した。

 三浦社長は「第1回の受賞者に心からお祝い申し上げる。随筆は筆者の人生そのものであり、受賞作を読んで文章の魅力をあらためて感じた。今後も随筆賞を発表の場として、良い作品を書き続けてほしい」と受賞者をたたえた。

 安藤教育委員長、阿部IBC岩手放送社長、三好氏の祝辞に続き、受賞者を代表して三田地さんが「記念すべき第1回の随筆賞を受賞できうれしい。元気なうちは書くことを生きがいにしていきたい」と謝辞を述べた。

 同随筆賞は、昨年まで20回にわたって実施した岩手日報文学賞啄木賞・賢治賞・随筆賞に替え、岩手日報創刊130周年を記念して創設された。

 第1回の応募者は157人(男75人、女82人)、作品数は160編。社内での予備選考を経た10編について三好氏(奥州市)を選考委員長に、エッセイスト工藤なほみさん(盛岡市)、作家平谷美樹氏(金ケ崎町)の3人が審査した。

(2006.7.16)


第1回岩手日報随筆賞決まる 
−2006年−


 岩手日報社主催の第1回「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の入選者が6日、決まりました。最優秀賞は、宮古市大通り1丁目、三田地信一さん(70)の「母を恋(こ)うる歌」が選ばれました。優秀賞は、一戸町奥中山、上田敏雄さん(67)の「よみがえる化石」、盛岡市本宮2丁目、主婦大木戸浩子さん(65)の「遠い嫁ぎ先」、盛岡市黒石野2丁目、会社役員野中康行さん(63)の「旅立ち」の3編でした。

 佳作は、一関市東山町、主婦遠藤朝子さん(64)の「父のいた村」、花巻市湯本、主婦菊池百合子さん(54)の「ビワの木を持って」、盛岡市緑が丘1丁目、菅原孝さん(76)の「谷間の音」、滝沢村滝沢、宮本義孝さん(65)の「山婆の涙」でした。

 20歳未満の応募者を対象にした奨励賞には、盛岡市盛岡駅前北通、盛岡一高3年大久保貴裕君(18)の「『世界』を見つけに」が選ばれました。

 贈呈式は15日午前11時から盛岡市愛宕下の盛岡グランドホテルで行います。最優秀賞の三田地さんに正賞のブロンズ像「エリカ」(彫刻家・故舟越保武氏制作)と賞状、賞金20万円、優秀賞の3人に賞状と賞金5万円、佳作の4人に賞状と賞金3万円、奨励賞には賞状と図書カード(1万円)が贈られます。

 同随筆賞は、昨年まで20回にわたって実施した岩手日報文学賞啄木賞・賢治賞・随筆賞に替え、岩手日報創刊130周年を記念して創設しました。

 第1回の応募者は157人(男75人、女82人)、作品数は160編。社内での予備選考を経た10編について作家三好京三氏(奥州市)を選考委員長に、エッセイスト工藤なほみさん(盛岡市)、作家平谷美樹氏(金ケ崎町)の3人が審査しました。

岩手日報社
(2006.7.7)


  第1回啄木・賢治のふるさと「岩手日報随筆賞」

 受賞者と作品紹介

 岩手日報社が岩手日報創刊130周年を記念して創設した「啄木・賢治のふるさと『岩手日報随筆賞』」の第1回の応募数は160編に上った。昨年までの岩手日報文学賞随筆賞は90編前後の応募だったことから、大幅に増加した。予備選考を経た10編を、作家三好京三氏(奥州市)を選考委員長に、エッセイスト工藤なほみさん(盛岡市)、作家平谷美樹氏(金ケ崎町)の3選考委員が審査し、最優秀賞1編、優秀賞3編、佳作4編、奨励賞1編を選んだ。この中から、最優秀賞、優秀賞の受賞者の横顔と作品を紹介する。

選考委員長

作 家 三好  京三氏
選考委員 エッセイスト 工藤なほみさん
作 家 平谷  美樹氏

 描写に精細さ、課題は構成

 《選評》 三好選考委員長 最終候補10編はそれぞれ文章がよくできており、情景や心理描写も精細で楽しく読ませてもらった。一方、構成が不十分でまとまりを欠く傾向も見られた。

 その点、最優秀賞の「母を恋うる歌」は戦後の大変な時期に、姉弟4人が懸命に歌を歌った思い出や、「里の秋」に込めた母への深い思いが、完璧(かんぺき)と言っていいほど見事に描かれていた。

 優秀賞の「よみがえる化石」には、石の声が聴こえるほどの化石加工名人である祖父の姿が鮮やかに描かれ、その祖父への思いも素直に表現されていた。

 同「遠い嫁ぎ先」は、アメリカ人と結婚した娘に対する複雑な感情が、冴(さ)えた筆致で描かれ、結びが書き出しの場面に戻るという構成もよかった。

 同じく優秀賞の「旅立ち」は、母を亡くした娘の不登校や高校退学の経過を述べながら、最後は大学受験に父を誘うという旅立ちの姿が、説得力をもって描かれていた。

 選考委員一同は、すべてが読みごたえのある作品であることを認め合ったが、▽構成に作者らしい工夫をこらす▽積極的に明るいテーマを設定し、笑いのある題材も取り上げる▽若い層のより多くの応募を−などの要望もあった。次回の参考にしてほしい。

最優秀賞 三田地 信一氏

 供養の思いをペンに

 【みたち・しんいち】 岩手大卒。2005年の第20回岩手日報文学賞随筆賞では最終選考に残った。宮古市大通り1丁目。70歳。同市出身。


【写真=学生時代からの読書家。「昔読んだ本は文章を書く上で大きな財産になっている」と話す三田地信一さん】


《横顔》
 「記念すべき第1回で最高賞に選ばれ光栄。三好京三さんら審査員に読んでもらえただけでもうれしいのに、このような評価をいただけるとは」と受賞の知らせを喜んだ。

 大学卒業後、宮古地区を中心に中学の国語教師を務めた。文章を書き始めたのは、定年退職後。「教師時代は教え子に文章を書け、書けとしつこく言ってきた。文章を書くことは厳しい指導の罪滅ぼしのようなもの」と苦笑いする。

 学校や家族を題材に随筆を書き始め、岩手芸術祭文芸祭などで力を養ってきた。本紙の投稿欄「ばん茶せん茶」「声」にも意欲的に応募している。「幅広い読者がいる新聞は反響が大きい。各地にいる知人に自分が元気でいることを知らせることもできる」と新聞投稿の魅力を語る。

 2月に今回の随筆賞の募集を知り、すぐ挑戦を決めた。4月中の完成を目指して題材を考えたところ、17年前に72歳で急死した母サトさんと、少年時代の生きる支えだった歌の思い出が浮かんだ。

 「自分も今年、数えで母と同じ年齢になる。母は苦労したのに、何も息子らしいことをしなかった」。母への思いを書くことが供養になれば、との願いで題材が決まった。

 応募規定は原稿用紙5枚。書き慣れた長さではなかったので難しかったという。童謡「月の沙漠(さばく)」の一節で始まる書き出しなど、読者を引きつけるために構成を工夫した。

 自信は無かった。6月下旬の本紙夕刊コラム「展望台」で、今回の随筆賞の応募が昨年までの岩手日報文学賞随筆賞に比べ2倍近かったことを知った。「入賞は無理だとあきらめたその日に、最高賞内定の連絡をもらったものだから驚いた」と話す。

 「海流短歌会」に所属し、歌作にも取り組んでいる。「人間や自然など、題材ごとに気持ちを変えて詠めるのが楽しい」と、多方面で言葉の表現力を磨く日々。「受賞は大きな励み。これからも身近な題材を書き続けたい」と笑顔で語った。



母を恋うる歌

 <月の沙漠(さばく)をはるばると−>

 私達4人姉弟は、声を張り上げてよく歌い合ったものだった。戦後間もない昭和20年から24年ごろまでのことで、当時は電力事情が悪く、しばしば停電になった。真っ暗な部屋の中では全くなすすべがなかった。

 部屋が真っ暗くなる。弟が「わっ、停電だ」と叫ぶ。それを合図に炬燵(こたつ)にあたっていた4人は、ごろんと横になる。そして闇の中で何をしようか考える。しりとり、なぞなぞか?しかし、幼い妹も加えてできることは決まっている。

 姉が学校で覚えてきた歌を大きな声で歌い始める。すぐの弟の私もそれに合わせて歌う。弟も妹もそれに合わせ、やがて4人の合唱となっていく。1時間、2時間と、それは電灯がつくまで続くのであった。

 「月の沙漠」1曲で終わるはずもなく、それは「赤い靴」「叱(しか)られて」「荒城の月」「朧(おぼろ)月夜」「花」「われは海の子」と続いた。まだ電灯はつかない。歌は「みかんの花咲く丘」や「リンゴの唄」「森の水車」へと続いていく。時には大人の歌だと思いながらも、当時大流行していた「帰り船」や「憧(あこが)れのハワイ航路」「星の流れに」「異国の丘」などを、大きな声で歌ったりもした。

 空襲の恐怖から解放された時代、電力事情のみならず食糧事情も悪く、皆飢えに苦しんでいた時代だったが、世の中全体が明るい希望に満ちていた。学校も新しい制度に変わって、教師も生徒も生き生きとしていた。溌溂(はつらつ)としていた。すべてが輝いていた。

 中学生になった私も、学校での毎日が楽しくてならなかった。朝5時に起き出し、バスケットの練習に駆けて行ったし、合奏の練習で帰りが遅くなったりもした。けれども何かに取り組んでいるという実感がうれしくて、張り切って参加していた。

 そして毎日のように闇の中で繰り広げられる姉弟4人の「合唱」は、張り詰めた気分から解放してくれる安らぎの時間であり、姉弟愛の中に、自分の存在感を実感することができた時間でもあった。

 父は出征し、ビスマルク諸島沖で輸送船とともに海に沈んだ。32歳の若さで逝った。残された母は4人の子供を抱えて必死で働いた。スルメ割り、鯖(さば)の味噌(みそ)煮を作って汽車に乗って行く田舎での行商。夜は呉服屋の着物や帯の縫い仕事。停電の時にはランプの明かりの下で夜遅くまで仕事し、私達の合唱には加われなかった。その寂しさを振り払おうと、私達4人の合唱はいっそう高まった。

 音楽の先生から、市の独唱コンクールに出場するように言われた。小心者の私になぜ?と疑問に思い、戸惑う私に、先生は頓着(とんちゃく)せず「何の曲がいいの?」と聞く。さて何の歌がいいのだろう。私は答えられなかった。

 私は、あの暗闇の中で、炬燵にごろんと横になりながら姉弟4人で繰り広げた合唱の場面の数々をなぞってみた。苦労ずくめの母の思いも考えてみた。そして私は曲目を決めた。それは「里の秋」だった。練習を重ねた。

 そして迎えた独唱コンクール。私は歌った。

 <静かな静かな里の秋 お背戸に木の実の落ちる夜は ああ母さんとただ2人 栗(くり)の実煮てます囲炉裏(いろり)端>

 会場は大きな映画館の広いステージ。客席はたくさんの聴衆で埋まっているが、暗くて顔までは判別できない。それが幸いした。私は落ち着いて思いきり歌うことができた。その時の私の声は、まだ変声期前の、いわゆるボーイソプラノであった。

 <明るい明るい星の夜 鳴き鳴き夜鴨(がも)の渡る夜は ああ父さんのあの笑顔 栗の実食べては思い出す>

 現実は、母と子供4人の家族である。しかし、私は心の中では、母と私の2人だけの寂しげでいて、それでいて心温かな暮らしを思いながら、感情移入して歌った。そして歌い終わった。気が付くと、館内全体に大きな拍手が響き渡っていた。私の体は熱く震えた。腋(わき)の下を冷たい汗が流れていた。

 私は一等賞になった。大きな賞状とともに副賞として、いかにも飢えの時代を象徴するかのような、お米と味噌をいただいた。母は涙を流して喜んでくれた。さっそく父の仏前に供えて報告をすませた。

 <さよならさよなら椰子(やし)の島 お船に揺られて帰られる ああ父さんよご無事でと 今夜も母さんと祈ります>

 その母も72歳で逝ってしまった。突然の死だった。看病することもできなかった。「里の秋」、この歌は、子としての私と、そして親である母との2人だけの、深い思いのこもった歌であり、私の「母を恋うる歌」である。誰もいない時に今でも口ずさんでいる。



優秀賞 上田 敏雄さん
大木戸 浩子さん
野中 康行さん

色あせぬ祖父との夏

上田敏雄さん

《横顔》 数年前の夏、50余年もの歳月を経て祖父の作品との再会を果たし、長い間心に秘めていた祖父への思いを素直につづった。

 「昨年度、随筆の基本を教えていただいた日報文章講座の先生に感謝したい」と喜びを語る。

 作品では、石の声を聴きながら化石を掘り出していた祖父との交流、祖父が姿を消した夏の日のこと、今の本家前に立ったときの心情などを描いた。

 「祖父の教えと残してくれた化石の置物は、今も私の心の支えになっている」といい、過去にも随筆の題材に取り上げたことがある。

 随筆の執筆は定年退職後から。2003年岩手芸術祭随筆部門で芸術祭賞を受賞しており、筆力は定評がある。

 受賞作は「何度も推敲(すいこう)を重ねたが、今読み返しても不十分な部分がある」と少々不満のようだが、「今後も自分なりのテーマを見つけて書き続けたい」と意欲を見せる。

◇        ◇

 一戸町奥中山字西田子1054の17。67歳。二戸市出身。

よみがえる化石

 梅雨が明けた日の朝、数十年ぶりに私は、金田一温泉にある旅館「緑風荘」を訪ねた。遠い昔の夏、母方の祖父がここの庭で石を彫っていたことを、ふと思いついたからだ。

 一戸町奥中山から二戸市の北端まで車でおよそ1時間。旅館の母屋は、相変わらず旧家としての威厳を保っている。もしかしたら、祖父の作品と会えるかもしれない。祈るような気持ちで玄関へ急いだ。

 フロントで来訪の意を告げると、主人が快く迎えてくださった。細長い廊下を通って右奥にある大広間に入る。途端に、私は息をのんだ。二十数点もの化石を含んだ水盤や置物が、陳列棚にずらりと並べられてある。まさしく見覚えのある祖父の作品だ。ひとつひとつの石を懐かしむように掌(てのひら)でさすった。表面の化石の感触をとおして、命のぬくもりが伝わってくる。私の胸は次第に高鳴り、祖父と過ごした少年のころを思い出した。

 二戸市(旧福岡町)で生まれ育った私は、小学生のころ学校から帰ると、自宅前にある本家の店先へ走った。祖父が彫り出す化石に心を惹(ひ)かれていたからだ。57歳で長男に洋服店の家業を譲った祖父は、金田一温泉付近で採取した球形の水成岩を、金づちとタガネを使って少しずつ彫り続けていた。原石の大きさと化石の付着ぐあいによって、水平型の硯(すずり)や水盤に、立体型の花器や置物にと、形を整えていくのだという。

 鋼鉄のタガネを石に打ち込むと、かすかな火花ときな臭いにおいを発して、石片が飛び散る。やがて、数千万年もの間、闇に閉ざされていたアサリやカキなどの化石が、表面に姿を現してくるのだ。

 「どうして、化石をうまく彫り出せるの?」

 何度も祖父に尋ねた。

 「オレには、石の目が見えるし、化石の声が聴こえるのせ」

 いつもの同じ返答に、私はあまり納得できなかった。あとになって、この世には目に見えない世界があることに気がついた。

 何ごともあせらず、丁寧にやるのが祖父のやり方だった。ものを粗末にしたり、他人の悪口を言ったりすることを極端に嫌った。戦後の世の中で何が大切なのかを、祖父が教えてくれた。母子家庭で育つ私を不憫(ふびん)に思ってか、服や足袋なども作ってくれた。祖母はすでに他界していたので、私は、祖父を「おじっちゃ」と呼んでなついていた。

 私が11歳だった夏、そんな祖父が本家から突然姿を消した。母の話によると、金田一温泉の緑風荘に行ったという。化石加工の仕事を頼まれたのだなと理解しながらも、何日待っても帰ってこない祖父に不安がつのり、私は勉強にも遊びにも身が入らなくなった。

 夏休みに入るのを待てず、7月初めの日曜日、私はひそかに金田一温泉へ向かった。7キロほどもあったろうか、堀野の町並みを過ぎると、さすがに心細い。が、もう少しで祖父と会える、と自分をふるい立たせて黙々と歩いた。緑風荘の門を入ると、庭の作業小屋の前で、祖父はやはり石を彫っていた。

 「おじっちゃ!」と叫んでそばへかけよった。祖父はびっくりした表情を見せて立ち上がり、「おお、よぐ来たな…」と笑いながらいった。

 早速、門前の店でラムネを買ってくれた。喉(のど)がかわいていた私は、その場でガラス玉を落とし、淡い緑色のビンに口を当てて飲んだ。思わず顔をほころばせて祖父を見ると、祖父も微笑(ほほえ)みを浮かべて私の顔を見つめていた。やっと落ち着きを取り戻した私は、とても幸せだった。

 あれから56年。

 緑風荘を訪ねたあと、本家の前に立った。いまは空き家になってしまい、カーテンも閉まったままだ。店の前に薄橙(だいだい)色のノウゼンカズラの花が、さみしそうに頭(こうべ)を垂れている。ひっそりとした店先から、コツ、コツと石を彫る音が聞こえてくるような気がした。祖父と化石が交わす会話のような音だった。

 かつて店内のガラス戸棚には、サンゴや貝の化石を含んだ硯や水盤、置物などが、誇らしげに座っていた。そのすべてが人手に渡ってしまい、行方が分からない。92歳でなくなった祖父は、生前どんな思いで手放したのだろうか。作品が減っていくたびに、幼い私は、自分の宝物が次々に消えていくように感じられて悲しかった。

 幸い、我が家の玄関には祖父に作ってもらった置物がある。丈20センチ、胴回り13センチほどの小品だが、表面には琥珀(こはく)色のホタテや白鳥(しらとり)貝の化石がくっきりと見える。祖父の魂が籠っているこの置物は、いまも私の心を癒し、励ましてくれる。生来父を知らない私は、祖父に父の姿をみていたのかもしれない。

 帰宅後、置物の化石をみた。故郷の懐かしい光景の中から、慈愛に満ちた祖父の顔がよみがえってきた。


人生アルバムつづる

大木戸浩子さん

《横顔》 優秀賞内定の知らせは出先にかかってきた長男からの電話で届いた。「『大変だ!』という一言。頭をよぎったのは良からぬことだけだった」と明かし、うれしい知らせにホッとしたよう。

 30代で、主婦と生活社が募集した生活体験記に初めてエッセーを書き、入選した。「それ以来、30年もの間、書くことはなかった」という。

 昨年5月に本紙「読者の広場」面の「私の交差点」に投稿、掲載されたのを機に、「また書いてみよう」と思い、文化面の「ばん茶せん茶」、暮らし面の「花時計」、日曜広場面の「おはなしくらぶ」に投稿してきた。

 「文章を書き始めたわたしに題材を確保してくれるのは、アメリカに住む娘」といい、今回も娘さんが主人公で、3度書き直して仕上げた。

 娘さんはアメリカに居ながらもインターネットで「ばん茶せん茶」を読んでいるという。「これからもエッセーで人生のアルバムを作っていきたい」と書き続ける。

◇        ◇

 盛岡市本宮2丁目。主婦。65歳。同市出身。

遠い嫁ぎ先

 南に向いた日当たりの良い娘の部屋。以前は電話の声が階下まで響き、空気までもが躍っていた。部屋は何も変わらない。ただ、主を失っただけだ。ドアを開けると、かすかに空気が動き出す。「いつでも帰って来ていいよ」と言ったのに、部屋はいまだ空いたままだ。

 23歳になった娘が突如、「アメリカ人と結婚したい」と言い出した。授業料をやりくりして英会話教室に通っていたのは知っていたが、アメリカに行くためだとは夢にも思わなかった。これまでにも男友達は何人かいた。何ゆえに外国人を伴侶と決めたのか、戸惑うばかりだった。育て方に将来のそんなプログラムは無かった。

 三沢の基地でコンピューター技師をしていた彼とは、友人の開いたパーティーで知り合い、付き合いは水面下で順調に進行していたらしく、言い出せずにいたようだ。

 2月の底冷えのする夜、娘は彼を連れて来た。畳の上に正座し、メモを見ながら「お嬢さんを下さい」と口上を述べ始めた。澄んだ目、たどたどしい日本語、それだけで真剣な気持ちは十分伝わってきた。だが、できることならその場から逃げ出したい気分だった。

 夫は終始無言で困惑の表情だ。笑顔にもなれず機械的にうなずいたが、何日過ぎても現実として受け入れ難く、心変わりしてくれることに期待した。彼の人柄に不満がある訳ではなく、どうして遠くに行かなければならないのかが最大の反対要因だった。

 娘はアメリカ行きを控えているにもかかわらず、車を欲しいと言い出し、娘に甘い夫は、娘がローンを払うという条件で新車を買った。何のことはない、車は三沢に行くためだった。結局わずか6カ月ローンを払っただけだった。娘の代わりにローンが残った車を、夫は下取りに出してしまった。動かない車を見るのが辛かったのだ。

 結婚式は5月1日に決まったが、米国籍取得の関係で前年の11月に彼が迎えに来た。既にシカゴに戻り、治安の良いエリアにアパートを借りて、万全の態勢で乗り込んで来た。

 成田まで見送りに行くことにした。発車直前に夫は無言で娘の好物の寿司(すし)を渡し、走り去った。振り向きもせず後ろ姿は消えた。2人で飲みに行くことも度々ある気の合う親子なのだ。その楽しみも消えてしまったという思いが背中ににじんでいるように見えた。

 娘は寿司2つを抱え、涙と一緒に口に押し込んでいた。郡山駅では泣きはらした目の義姉が、おにぎりとポテトサラダを娘に渡した。どちらも好物である。車中は会話も少なく、成田に着くまで3人で黙々と食べ続けるしかなかった。

 別れの時がやって来た。以前から欲しがっていた私のコートを羽織り、娘は泣きながら機内に消えた。

 見送りを終えても、すぐ帰る気にはなれない。ぼんやりと座り込む。戻って来るかもしれない。はかない望みを抱いて離陸の時間まで待っていたが、娘は戻らなかった。重い足取りで何度も振り返りながら、ホームの風に背中を押され帰路に就いた。

 4月29日、結婚式に出席するために私たち夫婦と息子、娘の友人2人でシカゴに向かった。いよいよかと思うと気持ちが重い。ここはもう流れに任せるしかないようだ。

 結婚式当日、異国の空は見事に晴れた。式前の写真撮影が彼の生家で行われた。プロのカメラマンは1時間以上にわたり、さまざまなポーズで、家族、友人たちを撮りまくる。それがしきたりらしい。私ら夫婦に「スマイル、スマイル」と強要するが、顔がこわばるばかりだ。それに比べてアメリカ人は器用で、カメラを向けるとすぐに笑顔をつくる。その素早さは感心するが、なぜか異様に感じる。

 彼の両親は不機嫌な私たちに、日本車に乗っているとか、時計はS社だとか声高に話す。場を盛り上げようとしているのだろうが、私にとっては不思議な発声としか思えない。早口言葉の大半は訳が分からない。頭の上を蜂(はち)が飛んでいるようで、めまいさえ覚えた。

 DJが音楽を流す会場は、ダンスあり一気飲みありと騒々しい。多少は英語を話せる息子をよそに、私たちは出された食事を口に運ぶだけの単調な動作を繰り返していた。周りには沈黙のバリアーを押し分け入ってくる者もない。たまに目にする花婿と花嫁は満面の笑みをたたえ、周囲に取り残されたような父と母だった。

 仏頂面で過ごしたシカゴでの1週間、今思うと大人げないと反省している。あの日から12年の月日が流れた。夜10時過ぎに掛かってくる電話は娘の声、いつもの陽気な声、子供たちをどなる声も受話器に入る。辛いこともあるのだろうが、泣きごとは言わない。憶測はしない方がいいのだろう。

 娘の部屋から見える空、この空はアメリカに続く空なのだ。時空を超えて娘の好物を届けたいなどと考える、あきらめの悪い母親だ。


親心のうれし寂しさ

野中康行さん

《横顔》 「親が思う以上に子の成長は早く、子の自立に気づかない。気づいて驚き、うれしくも寂しい複雑な思いをする」。そんな心情が伝われば−との思いで書いたという。

 新聞や雑誌などに掲載された作品など約30年間に執筆したエッセーをまとめた「記憶の引きだし」を1月に出版したばかり。「たくさんの人が喜んでくれた。書いてきてよかったと思う」と反響に驚く。

 随筆執筆歴は長く、昨年までの岩手日報文学賞随筆賞の佳作にも2回入選した。「いつも作品の素材を探している。まず自分の心が動く事象に敏感でなくては」と心掛ける。それでも、「心が動いたらそれを意識して記憶に残し、題材にしようとするが、大体は残っていない」ともどかしそう。

 「少ない素材をたぐり寄せ、一つの作品にできたときがうれしい」といい、人の心を動かす文章を目指し、執筆に励む。

◇        ◇

 盛岡市黒石野2丁目。会社役員。63歳。紫波町出身。

旅立ち

 足に重みを感じて、目が覚めた。

 ダブルベッドの隣で寝ている娘の足が、私の足に乗っているのだ。はずそうとした。だが、やめた。娘の大学受験前夜、新宿のホテルでのことである。

 10日ほど前であった。

 「いっしょに行けないかなあ?」

 娘は、そう言い出した。

 「仕事もあるし、行けないよ。1人で行くって言っていただろう」

 そう答えてきたが、そのときは、「わかった」と言うが、翌日、また聞いてくる。

 明後日が受験日という晩にも聞いてきた。「いっしょに行って欲しいんだけど、どうしても、だめ?」

 悲しいような、せっぱ詰まったような、そんな言い方であった。

 いずれ、娘と離れて暮らすことになるだろうし、娘と出かけることもなくなるだろう。だから、とも思ったが、有無を言わせない言い方に負けた。

 「行くのはいいが、宿は別になるぞ」

 「ダブルだから、いっしょに泊まれるよ」

 受験日前夜の宿を確保するのが困難であった。なんとかダブルの一室を探し当て、予約していたのだ。そこにいっしょに泊まればいいと娘は言う。

 昼過ぎに盛岡を発ち、受験会場を下見して、夕方、宿に入った。

 「そんな端に寝なくてもいいよ」

 娘の声を背中に聞いて寝たのだった。

 中学二年のときに母を亡くした。進学する高校も自分で決めた。

 高校に入学して間もなく、学校に行きたくないと言い出した。先生とのトラブルであった。説得して、学校近くまで送って行くが、どうしても車から降りない。学校と交渉もした。あちこちに相談もした。だが、本人の学校へ戻る意思はなかった。

 高校への通学は3カ月でやめ、翌年の3月末に退学した。

 そのまま就職すると言い始めた。高校だけは出ておいた方が良いと話しても、人は、学歴じゃないと言い張る。

 「高校や大学を卒業しても、人間としてだめな人はだめじゃない?」 

 「それはそうだが…。でもね」

 理屈と現実は違うと言っても、受けつけなかった。

 けんかにもなった。長いこと口もきかないときもあった。甘やかして育てたのかもしれないと、悔やんだこともあった。

 その後、大学入学資格を通信教育で取り、1年間予備校に通って、今日まで来た。私にとって、ここまでたどりついたという安堵感が先にあり、受験結果はあまり気にしていなかった。

(ごくろうさん)

 そんな思いで、娘の足をそっとはずした。

 翌朝、「これ食べて」と、朝食のデザートを取ってくれた。サービスが良い。受験会場に向かう時も、先に行って切符を買ってくれる。電車に乗ってからも降りる駅が近づくと目で合図をする。

 昨日までは、いつも私の後ろについてきていたのだが、今朝は違っていた。

 最寄りの駅から試験会場まで、20分ほど歩く。会話もなく、並んで歩いた。

「ここでいいよ。お父さん、仕事があるんでしょ。今からだと、昼までには帰れるよ。ありがとう」

娘は受験会場の正門前でそう言うと、小さく手を振った。

 声をかけようとしたが、その間もなかった。振り向いたら合図をしようと、キャンパスを進む娘の背を追った。だが、一度も振り返らずに会場に消えた。

 娘との距離が広がったそんな気がした。そして、取り残されたような寂しさがあった。

 受験がうまくいけば、お互い一人暮らしとなる。距離を感じたのは、娘にはすでに旅立ちの準備ができていたからであろう。自分にはまだ何の準備もできていない。だから、寂しさを感じるのだ。

 自分にそう言い聞かせて、先に帰ることにした。

 昨夜のことは偶然のことで、娘は気づいていないだろう。しかし、あれも、娘の最後の甘えだったような気がしてならない。

 左足に乗った娘の足の感触がよみがえってきた。柔らかいふくらはぎの感触であった。

(2006.7.7 朝刊掲載)

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